●憂国の行動型知識人
学んだことを活かして実行に移す大切さを説き、松下村塾にて幕末・明治において大きな活躍を果たす志士の思想的成長を促した吉田松陰。
来年からの大河ドラマ「花燃ゆ」の放送開始を記念して、彼の人生を振り返ってみます――。
●1830年
【松陰誕生】
1830年8月4日、長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として萩の松本村に生まれた。

松陰には、兄と弟、四人の妹がいたが、父は農作業に幼い兄と松陰を連れていき、農作業をしながら武士としての心得や、尊王の精神を教えた。
また、杉家から数百歩離れた所に居を構えていた父の弟の玉木文之進からも教育を受け、山鹿流兵学と無私の精神を叩き込まれた。

●1835年(6歳)
【吉田家の養子に】
松陰には、他家に養子に行き家督を継いでいた吉田大助と玉木文之進という二人の叔父がいた。

吉田大助の養子先である吉田家は、長州藩の兵学師範(山鹿流兵学)の家柄だったが跡継ぎがなく、松陰は幼くして吉田家へ養子に入ることとなる。
ところが、まもなくして吉田大助が急死してしまい、松陰は若干6歳にして吉田家の家督を継ぎ、藩校明倫館の兵学師範になる宿命を背負う。
●1840年(11歳)
【御前講義】
山鹿流免許皆伝の玉木文之進の厳しい教育を受け、松陰は成長した。松陰が11歳になったとき、藩主・毛利敬親の前で講義することになった。

松陰は山鹿流「武教全書」戦法篇を朗々と講じ、その講義は藩主をはじめ居並ぶ重臣たちも目を見張るほどのものであったという。
その日から、「松本村に天才あり」と彼の名は萩城下に知れ渡った。
●1848年(19歳)
【兵学教授に就任】
その後、松陰は19歳で藩校明倫館の独立師範(兵学教授)に就任。

藩の学制改革の意見書を書いて藩主に奉り、御前で人材登用法について講ずる。翌年には国防の担当官に任ぜられ、海岸防備の実状調査や、萩郊外での演習などを行った。
●1850-1851年(21歳-22歳)
【九州遊学】
1850年8月、21歳の松陰は、見聞を広め自分を高めるべく九州遊学の旅に出て様々な人物に会い、見識を深めていった。
【第一回江戸遊学】
1851年3月、兵学研究のため参勤交代に同行して江戸に遊学。

学者の私塾での講義や、塾生同士のテキスト会読や討論などの会講に毎日の様に参加して日々自己研鑽に励み、藩内藩外で多くの師や友人を得た。
【脱藩して東北遊歴】
松陰は江戸遊学中に、九州遊学で親交を深めた熊本藩の宮部鼎蔵らと水戸学や海防などの勉強を目的とした東北の旅を計画した。

しかし、旅立ちの日になっても藩から関所通過書が届かず、「友との約束は破れない」という一点において、当時重罪であった脱藩を実行して東北へ発った。
●1853年(24歳)
【第二回江戸遊学】
脱藩の罪によって藩士の身分を失い、父・百合之助の保護下に置かれた松陰だったが、松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出る。

そして、2度目の江戸遊学へ。佐久間象山に師事し、盛んに時事を論じ合う。
江戸での遊学中の6月、ペリー率いる黒船が浦賀に来航。黒船を観察した松陰は大きな衝撃を受け、幕府の国防に対する不備を強く認識するとともに、危機感を覚える。

松陰は、「将及私言」と題した藩公への意見書を書き上げ、象山に「この文字は空言ではない。どの藩も今日から実行でき、三百藩がそれをやれば、日本は滅亡から救われるだろう」と言わしめた。
西洋列強各国から日本を守るためには先進国を知ることだと考えた松陰は、海外渡航を決心した。
【密航計画】
1ヶ月後、松陰は長崎に入港したロシア艦隊に乗り込む密航計画を立てて長崎に向かったが、着いた時には艦隊は出航した後で、密航は失敗に終わる。
●1854年(25歳)
【再密航計画】
1月、長州藩の足軽・金子重之助とともに、日本に再来航していた黒船に乗り込み、海外に渡航しようと企て江戸を立つ。

夜間、下田に停泊していた米艦ポーハタン号に小舟をこぎ寄せて乗艦に成功した松陰は、主席通訳官と漢文で筆談して、アメリカ渡航の希望を伝える。
しかし、日本と条約を結んだばかりで、お互いの法律を守る義務があり、ペリー側は、松陰たちの頼み込みを拒絶。松陰の密航計画はまたしても失敗した。
【野山獄へ投獄】
松陰は自首し、江戸伝馬町の牢屋に入れられ、その後、萩に送還され野山獄へ投獄された。

松陰は、獄中で囚人達を相手に「孟子」の講義を始め、これが後に、自己の立場を明確にした主体性のある孟子解釈として、松陰の主著となる「講孟余話」としてまとめられた。
また、1年2カ月の獄生活で618冊もの本を読むなど、獄中でも自己鍛錬を怠らなかった。
●1855-1856年(26-27歳)
【杉家に幽閉】
野山獄に松陰が投獄されてから1年2か月が経ち、病気保養の名で野山獄を出た松陰は藩から自宅謹慎を命じられ、実家の杉家に「幽囚」の身として戻る。

出獄後、松陰は自宅に設けられた幽囚室で、親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を再開する。
●1857年(28歳)
【松下村塾誕生】
松陰の叔父・玉木文之進が開いた松下村塾は、久保五郎左衛門の塾が名前を引き継いでいた。

その後、松陰の講義に五郎左衛門が参加。自然と松陰が塾の主宰となり、受講者増で手狭になったため、杉家の納屋を塾舎に改修し、ここに世に有名な松陰の「松下村塾」が誕生した。
松下村塾は、身分の隔てなく塾生を受け入れたため、萩だけでなく、長州藩全体から才能ある若者達が集うようになり、松下村塾の存在は萩城下に知れ渡った。

松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は、1856年8月から1858年12月までのわずか2年余りに過ぎない。
しかし、その短い期間に松陰は、学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説き、幕末や明治維新後に活躍する多くの英傑を育てた。

●1858年(29歳)
【老中暗殺計画】
幕府の大老・井伊直弼は、独断で米国と結んだ通商条約を正当化するため、老中の間部詮勝を京に派遣し、公家を金銭で買収する一方、朝廷に取り入っている尊皇攘夷派を一掃し始めた。
松陰はその動きに激怒。老中暗殺計画を実行しようと松下村塾の塾生たちに声をかけ、藩には武器・弾薬の提供を願い出た。

驚いた藩は彼の暴発を防ぐため、松下村塾の閉鎖を命じて松陰を再度、野山獄に投獄した。
●1859年(30歳)
【江戸へ護送】
安政の大獄の嵐が吹き荒れる中、4月に幕府から藩に「松陰を江戸に送るように」との命が下る。
理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜(安政の大獄で逮捕者第一号となった人物)が萩で松陰に会ったことを話したためだった。

司獄の好意でいったん杉家に戻り、父母や親戚、門人達に別れを告げた松陰は、5月25日早朝、野山獄から護送用の籠に入れられ江戸に向かった。
江戸の評定所が松陰に問い正したのは、梅田雲浜と話した内容と、京の御所に私的な文書を置いたのではないかという2点であった。

しかし、松陰は幕府に自分の意見を言う絶好の機会だと捉え、老中・間部詮勝暗殺計画をも告白し、憂国の思いを洗いざらい論じてしまう。
幕府評定所の役人は、老中暗殺計画に驚愕。この時、松陰の命運は決まった。
【獄舎で処刑】
評定所の役人の態度から自らの死を悟った松陰は、家族への「永訣の書」と門下生達に向けた「留魂録」を伝馬町牢獄で記した。

”身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”という前文から始まる「留魂録」は、門下生達によっていくつも複写され、志士たちのバイブルとなる。
10月27日、評定所から「死罪」が言い渡され、即日処刑が行なわれた。

吉田松陰、30歳という若さであった。死に際しても平静かつ潔い松陰の姿に首切り役人などは胸を打たれ、その様子を後々まで回顧したといわれている――。

●編集後記
松陰が生きた時代は、旅をするには藩の許可が入り、国外への渡航は国禁とされていた。
そんな中、友人との約束を守るために藩法を破り、海外情勢を知るために国禁を犯そうとした松陰の捨て身の行動には、彼の強い信念と好奇心、卓抜した行動力を感じさせる。
知的好奇心が罪や死に繋がるというのは現代では考えられないけど、当時はそれが当たり前だったのが恐ろしい。。
“ハイリスク・ハイリターン”という言葉があるけど、松陰の場合はハイリスクがそのまま自分の身に災難として降りかかってきてしまった。
でも、彼はそれをことごとく潔く受け入れ、晩年には松下村塾の講師となり、明治維新を成し遂げる原動力となる多くの志士を輩出した。
志半ばでの非業の死に倒れた吉田松陰。彼が明治維新後も生きていたら、今の日本社会もまた違ったものになっていたのかもしれないな~。
【記事/画像引用】 「吉田松陰.com」 「維新史回廊」 「吉田松陰歴史館」 「世に棲む日日」 etc..