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釧路の農水産業の開発に尽力

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●佐野孫右衛門(四代目)

 佐野孫右衛門は代々、孫右衛門を名乗り、「米屋」と称した。

 初代は越後国三島都寺泊生まれ。松前に渡り、石狩一三場所を、後にシラヌカ場所とクスリ場所を請け負った。


●釧路の開発に貢献

 四代目孫右衛門は1856(安政3)年、17歳で家業を継ぎ、箱館奉行が提唱する樺太の漁場開発に応じ、直捌(じきさばき)場所差配人並になり、私費で樺太東海岸に漁場を開いた。

 だが越年は到底できず、返上を申し出た。箱館奉行から懇願されてなおも経営を継続したが、ついに断念、投じた徴用は1万8千両の巨額に上った。

 孫右衛門は農業開発にも力を入れ、箱館から農民五戸を釧路に移して永住させたほか、アイヌ民族に耕作を教えた。

 1869(明治2)年、箱館戦争が起こった時、旧幕府軍が海中に仕掛けた漁網を小林重吉と力を合わせて切断し、新政府軍の勝利に貢献した。

 
●「米町」の地名残る

 明治維新を迎え、釧路、白糠が佐賀藩の支配になると、孫右衛門は率先して戸籍を移して釧路の住民になった。

 そして、秋田、青森地方や函館近郊から釧路や昆布森などに174戸400人余りを移住させ、家屋や漁船などを与えた。

 そして移民が安心できるよう医院を開き、函館から僧侶を呼び、布教に務めるなどした。

 だが、佐賀藩が引き揚げて、1872(明治5)年、再び孫右衛門の支配となった。人々は喜び、孫右衛門の「米屋」にちなんでこの地域を「米町」と呼び親しんだ。

 米町の地名はいまも残っており、佐野碑園内には孫右衛門の顕彰碑が建っている。




【記事引用】 「開拓の群像


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