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「尾崎豊 追悼式 / 1992.4.30」

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●肌寒い朝

 昨日とは打って変わったように肌寒い朝だった。

 空は重たい雨雲で覆われ、今にも泣き出しそうな子供の顔のように見えた。前日の深夜にポツポツと降りだし、いったん降り止んだ雨空を見上げ、私は憂鬱な気分にかられた。

 そして、出掛ける頃にとうとう雨は降り出してしまった。



●溢れ帰る人々

 まるで、真冬に逆戻りしたかのような冷たい風が、暗い扉の隙間から忍び寄ってくる。腕時計の針は、午前10時5分を指していた。

 黒い喪服姿の女性や、普段着姿の男性グループ、白い花束を抱えたカップルは誰も皆、無口にうつむいていた。

 自分ではわからない何かの力に背中を押されながら歩いているようにも見える。

 営団地下鉄・有楽町線の護国寺駅へ向かう電車の中で、停車の度にそれらしき人々が続々と乗り込んでくる様子を、私は眺めていた。

 「こちら側の出口は通れません。あちら側へお回りください。」

 「護国寺へ行かれる方は、もう一つ手前の駅で下車し直してください。尾崎豊さんの葬儀の参列者の列の最後尾は、東池袋と江戸川橋のどちらの駅にもあります」

 他の喪服姿の人たちと並び、一斉に護国寺の駅で下車すると、駅のホームで駅員がメガフォンを通して叫んでいた。ヒビ割れたような乾いた大声だった。

 ホームには、身動きができないほどの人間が溢れ返っていた。

 そして、駅員のいう「こちら側」も「あちら側」も、まったく見当がつかないほどの人垣に埋もれて、人々は立ち往生してしまうしかなかった。



●延びるファンの列

 何度も繰り返される駅員の指示に従って、一旦下車した人たちは電車に乗り直したり、反対側の出口へと渦を巻いて移動してゆく。

 文句をいう人は一人もいない。先を急ごうと人波を押しのける人もいない。

 黙々と下を向いて歩く人、不安気な瞳を泳がせて人波についてゆく人、何か重大なイベントに出向くように緊張している人。友人や恋人に肩を抱かれて倒れそうになりながら歩く人。

 それぞれが自分の気持ちを整理しかねているようにも見えた。

 きっと尾崎は、自分の最期がこんな形で騒がれ、掻き分けなければ辿り着けない人波を周りに作られようとは、予想だにしていなかっただろう。

 正午から始まる追悼式のために、午前8時には前日からの徹夜組200人を含む5,000人が詰め掛け、最終的には4万人を超える人波が、たった一人の男のために押し寄せたのだから。

 機動隊の誘導に従い、地下鉄の改札口を抜けて葬儀会場に辿り着いた私は、一段と雨脚が強くなった空を一瞬、仰いだ。

 何キロにも渡って蛇のように延びたファンの列が視界をかすめる。



●遺影に吸い寄せられる人々

 アストロビジョンに映し出された尾崎豊の遺影に吸い寄せられるようにして、それぞれの人々がうごめいていた。

 私は軽い眩暈を感じた。そして、アストロビジョンの中の尾崎が、いまにもギターを持って飛び出してきそうな錯覚に陥った。

 「間隔を開けずに、詰めて並んで下さい。傘はささないで」

 そんな指示に従い、傘をささずにずぶ濡れになって立ちつくす人たちの唇は、何かを決意したように蒼ざめて震えていた。

 記帳場所は四つに分けられ、それぞれ「遺族」「友人」「音楽関係者」「マスコミ関係者」と大きな文字で書かれていた。

 控え室へ曲がる通路の右手正面に、彼の遺影が高々と掲げられ、両脇に愛用のギターを立てかけた棺が置かれている広い部屋が目に入った。

 入口の扉の周りには、関係者や友人からの花輪が飾られていた。

 パイプ椅子がたくさん並べられた関係者専用の控え室には、彼の遺影を常時映し出しているモニターテレビが前後に二つ置かれ、静かな音楽が流れていた。



●風になった少年

 葬儀が始まる旨のアナウンスが入った。

 正午を少し回っていた。まわりを見渡すと、ぎっしりと関係者がつまった控え室のあちらこちらからすすり泣きが漏れていた。

 マイクを通した合図で一斉に頭を垂れ、沈黙を保つ。

 一分間の黙祷が済むと、「故人の思い出深い曲をお聴き頂きたいと思います」と、彼の生前のヒット曲『I LOVE YOU』が静かに流れ出した。

 この曲は、テレビドラマ「北の国から」で挿入歌としても、またストーリーの中にも盛り込まれて使用されている。

 1991年春にはJRのコマーシャルソングとしても使用され、リバイバルヒットを果たしている。

 すすり泣きが漏れる中、初めに葬儀委員長であるソニー・ミュージックエンタテインメントの松尾修吾社長の挨拶があった。

 松尾氏は『風になった少年』と題し、弔辞を読みあげた。その内容は要約すると次のようなものであった。

 「『風になった少年』。紺色の制服姿の君と初めて会った時は、まだ幼さの残る礼儀正しく、無口な少年だった。まだ高校生だった。

 うつむきかげんではにかんだ様子で、周囲を警戒するような目で我々を見ていた。

 君が『僕は自分の悩みや生活、心の奥にあるものを歌いたい。そんなこと日本でもできますか』と尋ねたので『君がやればいい』と答えたら、初めて大きな真っ白い歯を見せてくれました。

 君は与えられたフィールドを全力で走った。そのフィールドは君にとって狭すぎたのかもしれない。

 君は無謀と思えるほどの全速力で十年間を駆け抜け、疲れも知らずに飛び続けて、とうとう風になってしまった気がする。(中略)

 君が遺した6枚のアルバム、音楽的業績は不滅のバイブルになることは必至だろう。君は『人は愛に脆く』と歌った。

 今、われわれは脆き、心から冥福を祈るだけである。さようなら」



●吉岡さん挨拶

 次に、親友でもある俳優の吉岡秀隆さんの挨拶が続く。吉岡さんは途切れがちなか細い声で、まるで目の前に尾崎がいるかのように語りかけ、つぶやいた。

 「尾崎さん……。尾崎さんに書く最初の手紙が、まさか弔辞になるなんて、思ってもみませんでした。今、アイソトープの尾崎さんの部屋で、これを書いています。(中略)

 人は哀しみに出会ったとき、眠れない日々が続くということを知りました。尾崎さんは、どれほど眠れない夜を過ごし、涙を流したことでしょう。

 尾崎さんは『人が評価されるのは、その人が死んだ時なんだろうな』と言っていましたね。転んでも転んでも走り、立ち上がっていく尾崎さんが好きでした。

 自分の一番生きたい時間を自分らしく生きた尾崎さんを尊敬しています。誰が何と言おうと、僕の知っている尾崎さんは、誰からも傷つけられることなく僕の中に生き続けています。

 尾崎伝説は、まだ始まったばかりです」

 吉岡さんの飾らない言葉に、一層すすり泣きが激しくなった。吉岡さんも言葉を詰まらせ、涙を堪えていた。


●茫然自失の元メンバー

 遺族、友人などの献花が済むと、十分間の休憩が入った。

 控え室に座りきれない人達が、廊下にまで溢れた。尾崎の元バックバンド・ハートオブクラクションのメンバーもいた。

 リーダーのR氏は相当ショックを受けているようで、目を真っ赤に腫らしながら茫然自失の表情だった。
 
 「祈ったよ。『おまえがオレを憎んでいても、愛していなくても、たとえ一方的な愛だとしても、オレはおまえを愛してる。だからもう、何も考えないで静かに、安心して安らかに眠れ』って。そう祈ったから……」

 メンバーのZ氏はうつむいた。耳たぶが朱色に染まっていった。

 「アイツは、オレ達がどれほどアイツのことを愛してたかなんて、ちっともわかっちゃいなかった。

 何年かかってでもいい、オレたちが愛していることをアイツに伝えてやりたかったよ。誤解なんだ。オレたちはアイツを裏切ったりなんかしてない。

 本当なんだ。それを伝えたかった。

 だけど、もうアイツは死んじまった。もう……。だから、言ってやったんだよ。おまえを愛してるって。天国のアイツにさぁ」



●告別式

 告別式が始まった。彼の曲が流れる中、関係者が次々と献花をしてゆく。

 『太陽の破片』、『ふたつの心』。『優しい陽射し』、『太陽の瞳』、『MARRIGE』、『ダンスホール』などが繰り返し流される。

 兄の康さんは、元裁判所書記官らしく、聡明なはっきりとした口調で最後に謝辞を述べた。

 「デビュー前は深夜に宇宙、宗教、学校のことなど、とりとめのないことをよく話した。ことの本質をつきとめようとする面や、内面をまっすぐ凝視しようとするところがあった。(中略)

 26歳という死はあまりにも早かったが、彼はその生涯を全力疾走で駆け抜け、天寿を全うしたと思う。豊の見つめたものは、すべて作品の中にあります。

 彼の伝えたかったことを、それぞれの胸で解釈してください」

 尾崎豊の枢には、彼のすべてのCD、愛用のジーパン、シャツ、サングラスなどが納められ、大好きだったシャンパンがかけられた。

 午後2時半。列席者全員の献花が終わると、出棺。

 霊枢車に枢が納められると、「出棺です」という大きな声とともに鈍い鐘の音が突然、「ガンガンガンガーンと大きく響きわたった。

 見守っていた列席者の間から悲鳴のような大きな泣き声があがった。いよいよ、彼の亡骸は遺骨になるのだな。

 そう思うと、私はひとしきり雨脚を激しく感じた。



●永遠の1/2

 ファンの波は、4万人を超えた。

 哀悼の列が蛇のように渦巻く。多くの「尾崎豊を知らない人」たちは、この大勢の若者たちの追悼に驚愕していた。

 尾崎豊の歌を通して何かを得た者たちは、たとえ彼の肉体がどんな形で滅びようとも、それぞれの胸の中で「尾崎豊」という名前に隠された情熱や勇気を絶やさないことだろう。

 彼らがいくつになろうとも、その根底に流れる精神は同じだからである。

 1992年4月30日、午後4時。多くの人々の胸に刻まれ続けたアーチスト・尾崎豊の肉体は、東京都新宿区にある落合斎場で荼毘に付され、永遠に帰らぬ人となった。

 彼が存在した1/2にあたる精神のみを遺して――。


     



●編集後記

 今年は、尾崎豊没後二十五年。

 「KLAXONは鳴り止まず」という尾崎豊追悼式に参列したファンの当時の様子と、その後を記録したドキュメンタリー作品があります。

 亡くなって四半世紀経った今でも彼の音楽が風化しないのは、彼の音楽を後世に伝え続けようと奮闘してきたファンの功績ともいえるでしょう――。



【記事引用】 「尾崎豊 夢のかたち / 柴田曜子 (文春文庫)
【画像引用】 「GB SPECIAL EDITION yutaka ozaki 1983-1992

 

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