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【伝説の20万人ライブ】GLAY EXPO '99 SURVIVAL / 幕張メッセ駐車場特設ステージ

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  MAKUHARI MESSE 10TH ANNIVERSARY
 GLAY EXPO '99 SURVIVAL


 1999年7月31日土曜日。快晴の幕張メッセ駐車場特設ステージ。

 GLAYが単独アーチストによる有料コンサートで世界最大動員記録(当時)となる20万人のオーディエンスを集めたライブを開催。

 前代未聞の規模に、NHKが夜7時のニュース番組のトップでライブの模様を紹介するなど、メディア各社が挙ってライブの模様を報道。





 以後、GLAYとファンの間で7月31日は ” GLAY DAY (GLAYの日) ” と呼ばれ、毎年様々なイベントが行われるようになりました。

 2024年6月8日(土)、9日(日)にベルーナドームで20万人ライブの再現ライブが行われるということでリバイバル投稿させて頂きますーー。






 GLAYジャンボ

 
 JALが20万人ライブのオフィシャルエアラインとなったことで、機体にGLAYがペイントされたジャンボジェット(GLAYジャンボ)が就航。

 最初は札幌・函館と羽田を結ぶ路線のみでしたが、好評だったため夏休み終了後も延長し、9月15日まで日本各地の空港で就航することになりました。





 乗客には紙コップやクリアファイル、ポストカードなどが配られ、機内ではGLAYのライブビデオが上映されました。

 飛行場の屋上にはGLAYジャンボを一目見ようと、連日大勢の見物人が訪れていました。








 夢の代償


「たくさんの大勢の前で、皆がいい笑顔で自分が作った歌を口ずさみながらっていうような。

 そういった子供の頃からの夢を叶えるために何もかもをGLAYに捧げてきて、それが一つ完成した時に来る虚無感とか脱力感とか。

 正直、今もどう生きていったらいいのか全然わからないような。これから何を想って生きていけばいいんだろうと。

 “夢の代償”というのかな。そういうものを凄く感じてて」(TAKURO)





 中学生の頃、ウッドストックを見て「いつか、一面の人の海の前でライブをしたい」という夢を抱いた琢朗少年。

 その後、高校2年の時にGLAYを結成し、デモテープを作ったり函館のライブハウスでライブを行うなど、バンド活動を開始。

 そして、高校卒業後に上京し、数年の暗黒時代を経て、YOSHIKIに見出されてメジャーデビュー。





 それから僅か5年で子供の頃から抱いていた人生最大の夢を実現したことで、バンドとしての原動力を失ってしまったGLAY。

 そんなバンドの危機を乗り越え、あの“伝説の夏”から四半世紀の月日が流れました――。







目次  

20万人ライブ概要

20万人の大行列

20万人ライブ会場

GLAY EXPO MUSEUM '99 / 幕張メッセ国際展示場ホール2-3

エピローグ

編集後記




 20万人ライブ概要
 - 開場:10:30 開演:16:30 終演:19:30
 - 入場者数:20万人(単独アーチストによる有料コンサートで世界の音楽史史上最大動員)
 - 総制作費:30億円
 - 会場の大きさ:縦700m、横264m(東京ドーム約4個分)
 - ステージの大きさ:全長145m、高さ40m
 - 大型ビジョン:700インチ1台・400インチ2台(ステージ上)、11面の大型モニター(客席)
 - 臨時シャトルバス:600本 JR臨時便:39本 海浜幕張駅駅員:150人(通常10人)
 - 取材メディア:TV35番組、新聞15紙、雑誌50誌
 - 気温:33.6℃


【ライブ告知】



【ライブ会場のしおり】



【臨時に運行されたシャトルバスのチケット】

             


 20万人の大行列
【海浜幕張駅前からライブ会場まで続く20万人の大行列①】



【海浜幕張駅前からライブ会場まで続く20万人の大行列②】



【海浜幕張駅前からライブ会場まで続く20万人の大行列③】



【海浜幕張駅前からライブ会場まで続く20万人の大行列④】



【海浜幕張駅前からライブ会場まで続く20万人の大行列⑤】



【海浜幕張駅前からライブ会場まで続く20万人の大行列⑥】



【海浜幕張駅前からライブ会場まで続く20万人の大行列⑦】




 20万人ライブ会場
【歩道橋の上から見たライブ会場】



【会場内風景①】



【会場内風景②】

 【会場内風景③】



【会場内風景④】



【照りつける太陽と照り返しの暑さにうんざり…】



【会場中央にGLAY登場 !!! 】



【近い!】



【ガンガン縦に暴れたいと思わねーか!(by JIRO) 】



【サバイバル】



【夕日が直撃!】



【I'm in Love】


【ラスト曲 BURST !!! 】


【デビュー曲パンクver (笑) 】


【20万人ライブ終演 !!!!!】







【セットリスト】

  1. HAPPY SWING
  2. 口唇
  3. グロリアス
  4. SHUTTER SPEEDSのテーマ
  5. More than Love
  6. サバイバル
  7. 生きてく強さ
  8. Yes, Summerdays
  9. summer FM
  10. INNOCENCE
  11. Freeze My Love
  12. HOWEVER
  13. ここではない、どこかへ
  14. LADY CLOSE
  15. TWO BELL SILENCE
  16. MISERY
  17. 誘惑
  18. COME ON!!
  19. ACID HEAD

 <アンコール1>

  1. I'm yours
  2. BE WITH YOU
  3. I'm in Love

 <アンコール2>

  1. 彼女の“Modern…”
  2. ビリビリクラッシュメン
  3. BURST(~RAIN~BURST)



 GLAY EXPO MUSEUM '99 / 幕張メッセ国際展示場ホール2-3






 1999年7月30日と31日の2日間に渡って幕張メッセにて開催された展示館。GLAYの各メンバーがブースを設置し、趣向を凝らした展示でファンを楽しませました。

 その他にも、デビュー前の手作りチケット・チラシなどのレアアイテムの展示や、GLAYとゆかりある雑誌・番組などもブースを出展。

 あまりの大盛況ぶりに会場内は大渋滞となり、閉館間際まで大いに賑わいました。



【エアロボ “FRIED CHICHEN and BEER”】



【20万人ライブ告知バス】



【ステージ衣装①】



【ステージ衣装②】



【ステージセットの模型①】



【ステージセットの模型②】



【学生時代のメンバーの写真】



【あうん堂の前で記念撮影をするメンバーの写真】



【ドームライブで使用されたロボット】



【エアロボ "JIRO"】



【and more..】









 エピローグ
【スポーツ報知】



【サンケイスポーツ】





【ARENA37℃ / 1999年9月号】







    





 編集後記

 1999年7月31日、ライブ当日の東京駅。

 東京駅で降りて歩いていると、京葉線のホーム方向へ四方八方から集まってくる人の波があり得ない数に膨らんでいき、「なんだこれ!?」といきなり軽い衝撃を受ける。

 さらに、京葉線がパンク状態になっているようで、警備員が拡声器を使って「幕張本郷駅からシャトルバスで会場入りして下さい!」とのアナウンスを繰り返していました。

 しょうがないので、JR総武線で幕張本郷駅まで行き、そこから臨時のシャトルバスでライブ会場に向かうことに。





【人の多さに衝撃】

 バスに揺られること数分で幕張メッセが目の前に見えてきて、メッセ前のバス停に泊まるために左折して視界が開けた瞬間――。

 砂糖に群がるアリの如く、幕張メッセの周りにうごめく大勢のGLAYファンの姿が視界に飛び込んできて、今まで視認したことのない雑踏の人口密度と規模に衝撃を受ける。

 その後、昼食やドリンクを買うために、海浜幕張駅近くのビル内のコンビニに立ち寄ったのが地獄の始まりでした。。






【灼熱地獄のサバイバル】

 こちらの写真はシャトルバスを降りてコンビニに向かう途中で撮影したもので、歩道橋の階段部分に人がおらず、こちら側へは進入禁止になっていることがわかります。





 そうとも知らず、相方と一緒に歩道橋に隣接しているコンビニで買い物を済ませた私。

 コンビニで買った昼食を食べながら幕張メッセ内のEXPO館に行こうとしたら、会場内が人で溢れすぎて入場を打ち切っており、歩道橋から幕張メッセ側へは進入禁止に。。





 どうやら、会場入りするには歩道橋の上に出来ている行列に並ばないといけないことがわかり、列を辿っていくと最後列は海浜幕張駅前。

 すると案の定、炎天下の中、駅から幕張メッセの裏を通って会場まで続く道がGLAYファンで大渋滞となって遅々として進まず、まさに灼熱地獄状態。




 照りつける日差しの熱さでもうろうとする意識の中、思わず「SURVIVAL 開演前が サバイバル」という一句が脳裏を過ぎりました・・・。

 20万人ライブの開演前、1時間半以上かけて暑さで死にそうになりながら会場に辿り着いたGLAYファンたちの闘いがそこにはあったのです。

 現地に行けなかった方が20万人ライブのDVDを観る際は、そのことを忘れないで頂けると、あの時の苦労が浮かばれます(笑)






【コーラの旨さに衝撃】

 会場でもコンクリートからの照り返しが凄まじくて死にそうになり、開演までの間、会場で売っていた氷入りのビニール袋が心の救いに。

 さらに、ライブ後半は飲み物が無くなって喉がカラカラになって、ちょっとした脱水状態に。

 なので、終演後に飲んだ路上販売のコーラのひと口目が、この世のものとは思えないほどの凄まじい美味しさだったのが強烈に印象に残っています。

 海浜幕張駅へ向かうファンのために歩行者天国となった車道を大勢のGLAYファンと一緒に歩いたのも、いい思い出になりました。






【凄まじい虚脱感】

 そして、20万人ライブの終演後に訪れたEXPO館。

 そこは、GLAY関連の展示物で溢れ、すれ違う人全てがGLAYファンで、しかも皆が満面の笑顔ですれ違っていくという、何とも言えない幸せな空間になっていました。

 思わず、「ずっとここにいたい! 」と心の底から思って閉館まで居座ったおかげで帰宅途中で終電が無くなり、ライブに一緒に行った友人とカラオケ店で貫徹するはめに。。

 20万人の想念が渦巻く会場で暴れすぎたため、家に帰って一眠りして起きた時の虚脱感が凄まじく、夕日が差し込む部屋で一人茫然としていたのを覚えています。

 さらに、しばらく現実感が戻らず、精神的に社会復帰するのが大変でした――。







【出典】「Wikipedia」「GLAY EXPO '99 SURVIVAL LIVE IN MAKUHARI
    「GLAY25周年特集」「スポーツ報知/1999年8月1日(日)/24面
    「GLAYオフィシャルホームページ
    「BEST HITS! vol.2 熱写LIVE'99」「ARENA37℃ 1999年9月号」etc..

「電子戦隊デンジマン」

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 電子戦隊デンジマン
 1980年2月3日~1981年1月31日放送


 3000年前、太陽系外の宇宙から地球へ、飛行物体が飛来した。それは、デンジ星が送り込んだ巨大宇宙要塞デンジランドだった。

 デンジランドは、ベーダー一族によって滅ぼされたデンジ星人の生き残りが地球に向けて送り込んだもので、岩山にカムフラージュされていた。





 デンジランドは、とある半島に着陸。中ではデンジ犬アイシーが眠りについていたが、ベーダー一族の地球侵攻をキャッチし、システムを起動。

 それと同時に3000年ぶりに目覚めたアイシーは、地球に移住したデンジ星人の末裔である5人の若者とコンタクトを図る。





 デンジランドの中に導かれた5人は変身装置デンジリングを装着し、デンジ強化服をまとった電子戦隊デンジマンとなった。

 デンジマンは、戦闘母艦デンジタイガー、そしてダイデンジンに変形するデンジファイターなどのメカと共に、地球侵略を企むベーダー一族と戦うのだった—―。






 編集後記


 自分のスーパー戦隊の歴史はここから始まっていて、現在のスーパー戦隊のフォーマットを確立した記念碑的作品から観始めました。

 『秘密戦隊ゴレンジャー』から4作目、5年に及ぶカッコよさの模索期を経て、『電子戦隊デンジマン』で結実した感じでしょうか。

 ただ、まだ演出面で発展途中感を感じる部分が多々あり、そういった初々しさも作品の魅力なのかもしれません。

 当時は2歳で、毎週観てはいたんですが、主題歌の記憶しか残っていません。

 なので、記憶を取り戻す意味でも、6月4日から毎週火曜日に2話ずつの配信を開始したデンジマン、毎週観てみようと思いますーー。




【出典】「Wikipedia」「電子戦隊デンジマン DVD COLLECTION VOL.2

『深夜も踊る大捜査線』 伝説の?全4作

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 深夜も踊る大捜査線
 『踊る大捜査線 THE MOVIE』の宣伝番組として、深夜に放送されていた番外編。

 1から3は神田署長、秋山副署長、袴田課長が主人公で、THE FINALは特殊班捜査係の木島丈一郎、爆発物処理班の眉田班長、SATの草壁が主人公。

 今秋の室井さんの映画公開に合わせて、簡単に紹介しますーー。





 深夜も踊る大捜査線 湾岸署史上最悪の3人!
  1998年10月12日~10月16日放送
 湾岸署の署内に掲示する「今週の署訓」のネタを考えるが、何も浮かばずに悩む神田署長。





 袴田課長は、ノストラダムスの本を読んでいる娘の影響で、ノストラダムスの予言にかこつけて、湾岸署に悪いことが起きるとのではとしきりに繰り返す。





 本店からの電話連絡の内容に慌てふためいたり、亀山Pと脚本家の君塚氏と共に『踊る大捜査線』の番組制作の打ち合わせも行われる(笑)






 深夜も踊る大捜査線2
  2003年7月14日~18日放送
 「家に帰っても女房にガミガミ言われるだけだ」と、湾岸署の深夜巡回を始めた神田署長。それに付き合う秋山副署長と袴田課長。





 そんな中、日頃から「湾岸署のフロアを象徴するシンボルのようなものがない」と物足りなさを感じていた袴田課長の発案で、湾岸署のマスコットを作ることになった。





 それと同時に、神田署長は自らの自叙伝を出版しようと、職場や取調室、応接室などで思い出を振り返る形で、秋山副署長に口述筆記を頼んだがーー。






 深夜も踊る大捜査線3
  2010年6月28日~7月1日放送
 5年前に「夜7時を過ぎると眠くなる」と深夜巡回をやめた神田署長だったが、「一緒に住んでる孫に子供が生まれて、夜泣きが酷くて眠れない」と深夜巡回を再開した。





 そんな中、袴田課長の「湾岸署ができてもう15年になります」という発言をきっかけに、3人が15年前に湾岸署で初めて出会った時のことを回想する神田署長。





 神田署長、秋山副署長、袴田課長の3人が“スリーアミーゴス”と呼ばれるようになった由縁が今、明らかになるーー?






 深夜も踊る大捜査線 THE FINAL
  2012年9月3日~9月6日放送
 特殊班捜査係の木島丈一郎と木島美津子の結婚6周年を祝うパーティが美津子さんがおかみをしている「笹美」で行われていた。





 爆発物処理班の眉田班長や爆処理チーム、特殊急襲部隊の草壁、湾岸署と勝どき署の婦警で賑々しくやっていたが、眉田班長のカミングアウトで空気が変わり、会はお開きに。




 そんな中、カエル急便から届いた結婚祝いと思われたゴリラのぬいぐるみを美津子さんが手に取り、サングラスを外した瞬間、時限爆弾の起動音が鳴ったーー。   


   編集後記
 『深夜も踊る大捜査線』は本放送時は観ていませんでしたが、ブログ記事作成のために観てみたら、なかなか面白い作品でした。
 
 『踊る大捜査線』本編でのスリーアミーゴスのやりとりが面白くて、もっと長く観たいと思ってましたが、延々と観させられるとちょっと胸焼けが(笑)

 ただ、改めてスリーアミーゴスは名トリオだと再認識しましたーー。






【出典】「深夜も踊る大捜査線」「ゲオ宅配レンタル」  

あぶない刑事×ららぽーと横浜

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 帰ってきたあぶない刑事×ららぽーと横浜


 2024年5月24日(金)に劇場公開され、大ヒット中の映画『帰ってきたあぶない刑事』。

 映画の撮影で使用された衣装や、『あぶない刑事』で使用された劇中車が「ららぽーと横浜」で展示されていたので、紹介します。

  展示は今日までなので、気になる方はお早めに足をお運び下さいーー。

 



 劇中衣装


 『帰ってきたあぶない刑事』で、鷹山敏樹、大下勇次、永峰彩夏が着用した衣装。















 

 レパード&ハーレー


 『あぶない刑事』の撮影で使用されたレパードとハーレー。






















 映画ポスター


 『帰ってきたあぶない刑事』の映画ポスター5種。
 







 劇場版歴代ポスター


 歴代の劇場版『あぶない刑事』のポスター。










 劇中小道具


 『帰ってきたあぶない刑事』の撮影で使用された小道具。












 ヒストリーボード


 『あぶない刑事』の歴史を振り返るボード。


























 編集後記


 本来は見る予定ではなかったんですが、買い物をして帰ろうとしたら目についたので、とりあえず写真を撮ってみました。

 (『あぶない刑事』は、テレビ神奈川で再放送されていたものを観たことがあるくらいで、それほどファンではない)

 レパードとハーレーは生き物ではないですが、役者の残留思念が残っているようで、圧倒的なオーラを放っていました。

 劇中車のカッコ良さに感化されて、ららぽーと3階の紀伊国屋書店で、あぶ刑事のDVDコレクション1巻を買ってしまいました(笑)







【出典】「ららぽーと横浜」「映画.com

『鎌倉殿の13人』 名台詞まとめ

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『鎌倉殿の13人』名台詞
 NHK大河ドラマ第61作目として、2022年に放送された『鎌倉殿の13人』。

 総合視聴率は20%を超え、NHKプラスでの見逃し視聴回数は歴代大河ドラマ最多、NHKオンデマンドでは全ドラマで最多となりました。

 そんな神作の名台詞を簡単にまとめてみました――。





 第1回「大いなる小競り合い」
 私は、これまで何度も死を目の前にしてきた。
 しかし、その度になぜか生き延びた。
 天は必ず私を生かしてくれる。

 何ゆえか。それはわからぬ。
 おそらくはまだ、この世に成すべきことがあるのであろう。

 私に言えるのはそれだけだ。


――小四郎に「兵を挙げるおつもりはあるのですか」と問われた頼朝の返答






 第2回「佐殿の腹」

 いずれ、わしは挙兵する。
 都に攻め上り、憎っくき清盛の首を獲り、この世を正す!
 法皇様をお支えし、この世をあるべき姿に戻す!


――湯河原で朝湯につかりながら小四郎に本心を明かす頼朝





 第3回「挙兵は慎重に」
 日照りの後には何が来る?長雨じゃ。
 よって、来年は必ずや飢饉となる。
 その子らも生き延びられると思うなよ。

 食い物を独り占めにしているのは誰じゃ!
 平家じゃ。平家じゃ。平家じゃ。平家じゃ。

 平家を許してはならんぞ!


――河原で村人に対して反平家を説く文覚(もんがく)






 第4回「矢のゆくえ」
 そのお考え、1日も早くお捨てになられたほうがよろしいかと存じます。

 確かに、我らは坂東の田舎者。
 しかしながら今は、その坂東の田舎者の力を合わせねばならぬ時でございます。

 彼らあっての佐(すけ)殿。それをお忘れなきよう。


――「坂東の田舎者に頭など下げん!」と言い張る頼朝に小四郎が放った言葉






 第5回「兄との約束」
 西から来た奴らの顔色をうかがって暮らすのはもうまっぴらだ。
 坂東武者の世を作る。
 そして、そのてっぺんに北条が立つ。


――家に残した頼朝のご本尊を取りに出発する直前、北条時宗が弟の小四郎に語った言葉






 第6回「悪い知らせ」
 平家の横暴に耐えてきた者たちの不満が今、一つの塊となろうとしている。

 佐殿がおられなくても我らは戦を続けます。
 そして必ず、平家の一味を坂東から追い出す。
 私は諦めてはおりませぬ!


――石橋山の戦いで敗戦し、逃げ延びた安房国で弱気になっていた頼朝に対する小四郎の激






 第7回「敵か、あるいは」
 なぜ助けたか。

 あの時、大場勢は目と鼻の先にいた。
 にも関わらず、わしの他は誰も頼朝殿には気付かない。

 そなたは「かのお人が天に守られている」と申した。わしも同じことを感じた。
 「殺しては神罰を受ける」と思った。

 答えになっておるかな?


――石橋山の戦いで敗走し、洞窟に潜んでいた我らをなぜ見逃してくれたのかと問う義時に対する梶原景時の返答






 第8回「いざ、鎌倉」
 ここに、源氏ゆかりの由比若宮をお移しする。鶴岡八幡宮じゃ。
 この丘の下に社殿を築く。八幡神は源氏の守り神。その威光をもってこの坂東をまとめあげる。

 そして、京に攻め込み、平家を滅ぼす!


――仮御所に政子を迎え入れ、鎌倉を一望しながら頼朝が高らかに宣言する






 第10回「根拠なき自信」
 経験も無いのに自信も無かったら何もできない。違うか。


――常陸国の佐竹軍討伐の軍議中に、戦の経験が無いことを揶揄された義経が発した言葉






 第11回「許されざる嘘」
 人を許す心が、徳となるのではないのですか!


――叔父である伊藤祐親を誅殺され、怒りに震える小四郎が頼朝に向かって吠える






 第13回「幼なじみの絆」
 伊豆の小さな豪族の行き遅れがさぁ、急に「御台所、御台所」って。
 勘違いしてもしょうがないけど。

 大事なのはこれから。自分が本当に鎌倉殿の妻としてふさわしいかよく考えなさい。

 足りないものがあったらそれを補う。私だって文筆を学んだのよ。
 あなた、御台所と呼ばれて恥ずかしくない女になんなさい。

 憧れの的なんだから。坂東中の女の。


――頼朝の妾・亀の家に押し掛けた政子が、逆にたしなめられる






 振り向かなくても構わない。
 背を向けたいのなら、それでもいい。
 私はその背中に尽くす。
 八重さんの後ろ姿が幸せそうなら、私は満足です。


――江間に住む八重の家を訪れた小四郎が八重に対して心の内を明かす






 第15回「足固めの儀式」

 もっとも頼りになるものが、もっとも恐ろしい。


――謀反を企てた御家人たちへの見せしめのため、上総介広常の誅殺に同意した際の大江殿のひと言






 これから3年の内にやるべきこと。
 明神様のための田んぼを作る。社(やしろ)も作る。
 流鏑馬を幾たびもやる。

 これ全て、鎌倉殿の大願成就と東国の太平のため。


――上総介広常を誅殺した後に、彼の鎧から出てきた願文






 第17回「助命と宿命」

 姉上は「決して許さぬ」と申された。
 鎌倉殿も、それを重く受け止められた。

 姉上、あなたの「許さぬ」ということはそういうことなのです。
 御台所の言葉の重さを知ってください。


――冠者殿を殺めた者の首が片瀬川に晒されたが、「殺せと言った覚えはない」と憤る御台所に対する義時の返答






 第18回「壇ノ浦で舞った男」
 義仲も死に、平家も滅んだ。
 この先、私は誰と戦えばよいのか。

 私は戦場(いくさば)でしか役に立たん。


――壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経が義時につぶやいた言葉






 第19回「果たせぬ凱旋」
 あなたはおっしゃった。
 「経験も無いのに自信も無かったら何もできぬ」と。

 では、自信をつけるには何がいるか。

 経験でござるよ。
 まだまだこれらからじゃ。


――京都に上洛中の北条時政の元を訪れた逃亡中の義経に対して、時政がかけた言葉






 第21回「仏の眼差し」
 己のしたことが正しかったのか、そうでなかったのか。
 自分で決めてどうする。

 決めるのは天だ。

 天が与えた罰なら、わしは甘んじて受ける。
 それまでは突き進むのみ。


――奥州平泉を滅ぼした後、藤原氏の屋敷の前で頼朝が義時に言った言葉






 わざと言っているのなら人が悪いし、わざとでないなら気遣いがなさすぎます。
 どちらにしても私は不愉快です。


――金剛を連れて御所を訪れた八重に対する頼朝の無神経な言動に怒る政子






 第22回「義時の生きる道」
 大軍を連れてきたものだなぁ。
 見せつけておるのなら大成功。

 驕った武士は皆、滅んだ。

 我らを亡き者とするならば、この日の本は収まらん。
 やれるものならやってみるがよい。


――大軍を率いて上洛し、御所で謁見した際の後白河法皇の言葉






 第23回「狩りと獲物」
 そうだろうか。
 確かに此度(こたび)も命は助かった。だが、これまでとは違った。

 今までははっきりと天の導きを感じた。声が聞こえた。

 だが、昨日は何も聞こえなかった。たまたま助かっただけじゃ。次はもうない。
 小四郎。わしが成すべきことはもう、この世に残っていないのか...


――巻狩りの最中、義時から「鎌倉度は天に守られております」と言われた時の頼朝の言葉






 第24回「変わらぬ人」
 姫は悪くない。
 姫は、姫の生きたいように生きるべきです。  帝に嫁いだところでそれが何になりましょう。きっと、今日の様なことが繰り返される。
 それでは、姫の身がもちません。  鎌倉殿のことはお忘れなさい。北条の家のことも。
 「人は、己の幸せのために生きる」 当たり前のことです。


――丹後局に叱責されたショックで屋敷を抜け出した大姫を見つけた平六が彼女にかけた言葉






 第25回「天が望んだ男」
 小四郎、わしはようやくわかったぞ。

 人の命は定められたもの。
 抗ってどうする。甘んじて受け入れようではないか。

 受け入れた上で、好きに生きる。

 神仏にすがって、怯えて生きるのは時の無駄じゃ。
 神や仏には聞かせられぬ話だがの。


――仏事のため北条一門が集まった折、頼朝が小四郎に語った言葉






 第27回「鎌倉殿と十三人」
 むしろ、良かったのかもしれません。
 「少ない者に力が集まれば良からぬことが起こる」
 頼朝様は、いつもそれを心配されておりました。


――頼家の「(宿老が)13人とは増えたものだな」という言葉に対する小四郎の言葉






 第28回「名刀の主」
 刀は切り手によって、名刀にもなまくらにもなる。
 なまくらで終わりたくはなかった。


――一幡を人質にとり、比企(ひき)の屋敷に立てこもった梶原殿が義時に対して発した言葉






 第30回「全成の確率」
 庭に引き連れられた時、全成(ぜんじょう)殿はひたすら呪文を唱えていたそうだ。

 最初の刀が振り下ろされた時、雷が近くの木に落ち、そこにいた誰もが怖れ慄(おのの)いたそうです。

 立ち筋が外れ、全成殿はまだ生きておられた。

 空が暗くなり、激しい雷雨が。進み出た八田殿がその首を落としたその刹那、嵐は止み、青空が広がったそうだ。


――全成殿の妻・実衣に、謀反の罪で誅殺された阿野全成の最期の様子を伝える小四郎






 第31回「諦めが悪い男」
 よかったかどうかはわかりません。
 しかし、これしか道はありませんでした。


――比企一族を滅ぼした後、政子の「これでよかったのですね」という言葉に対する義時の返答






 第33回「修善寺」
 おまえ、悪い顔になったな。
 だが、まだ救いはある。

 お前の顔は、悩んでいる顔だ。
 己の生き方に迷いがある。

 その迷いが救いなのさ。
 悪い顔だが、いい顔だ。


――和田殿の屋敷で15年ぶりに再会した運慶が小四郎に対して言った言葉






 第36回「武士の鑑」
 政(まつりごと)を正しく導けぬ者が上に立つ。
 あってはならないことです。

 その時は、誰かが正さねばなりません。


――二俣川の戦いの開戦前、政子に対して小四郎が発した言葉。






 今の鎌倉は、北条のやりたい放題。

 武蔵を我が物とし、息子には身に覚えのない罪を着せ、騙し討ちにした。
 私も小四郎殿の言葉を信じてこのザマだ。

 戦など、誰がしたいと思うか―――!!!


――二俣川の戦いの開戦前、説得に来た和田殿に対して畠山次郎秀忠が発した言葉






 次郎は決して逃げようとしなかった。
 逃げる謂(いわ)れがなかったからです。

 所領に戻って兵を集めることもしなかった。
 戦う謂れがなかったからです。

 次郎がしたのは、ただ己の誇りを守ることのみ。


――二俣川の戦いの後、畠山殿の首を執権・時政の前に置き、小四郎が発した言葉






 これで、執権殿は御家人の信を失いました。
 執権殿がおられる限り、鎌倉はいずれ立ち行かなくなります。

 此度(こたび)のことは、父上に政から退いてもらうための始めの一歩。


――畠山殿の非業の死による怒りを他の者に向けるため、稲毛殿を誅殺した小四郎が政子に言った言葉






 第38回「時を継ぐもの」
 今生の別れにございます。  父が世を去る時、私はそばにいられません...
 父の手を握ってやることができません...  あなたがその機会を奪った。
 お恨み申し上げます…


――謀反を起こした時政に「伊豆への流罪」の沙汰を伝えた後、父と子の関係性に戻る義時






 第39回「穏やかな一日」
 鎌倉殿が一度口にしたことを翻しては、政の大元が揺るぎます。
 私のやることに口を挟まれぬこと。
 鎌倉殿は、見守って下さればよろしい。


――義時の提案を無下に断った鎌倉殿に対する義時の言葉






 第42回「夢のゆくえ」
 いいかげん、覚悟を決めるのです。  あの源頼朝と結ばれたというのはそういうこと。
 人並の人生など、望んではなりませぬ。  なんのために生まれてきたのか。
 なんのために辛い思いをするのか。  いずれ、わかる時が来ます。いずれ。


――丹後局(たんごのつぼね)が鎌倉御所を訪れ、弱気になっている尼御台に対して発した言葉






 第45回「八幡宮の階段」
 出(いで)ていなば
 主なき宿と なりぬとも
 軒端の梅よ 春を忘るな


――鶴岡八幡宮の大階段で公暁に暗殺された実朝の部屋に遺されていた歌(辞世の句)






 第46回「将軍になった女」
 全てが自分を軸に回っていると思うのはおよしなさい。  どうしてもやっておきたいことがあります。よろしいですね。
 尼将軍の言うことに逆らってはなりませんよ。


――“政所はじめ”で三寅と尼将軍のお披露目がなされた後、義時に対して放った政子の言葉






 第47回「ある朝敵、ある演説」
 元はといえば、伊豆の小さな豪族の次男坊。

 その名を、上皇様が口にされるとは…
 それどころか、この私を討伐するため、兵を差し向けようとされる。

 平相国・清盛、源九郎判官・義経、征夷大将軍・源頼朝と並んだのです。
 北条四郎の小倅(こせがれ)が。

 面白き人生でございました――。


――後鳥羽上皇に自分の首を差し出す決断を政子に伝えた後、その場を立ち去る前に発した義時の言葉






 「鎌倉が守られるのならば、命を捨てよう」とこの人は言った。
 あなたたちのために犠牲になろうと決めた。

 もちろん私は反対しました。しかし、その想いは変えられなかった。  ここで皆さんに聞きたいの。
 あなた方は本当にそれでよいのですか?
 確かに、執権を憎むものが多いのは私も知っています。
 彼はそれだけのことをしてきた。

 でもね、この人は生真面目なんです。全てこの鎌倉を守るため。
 一度たりとも、私欲に走ったことはありません。





 鎌倉始まって以来の危機を前にして、選ぶ道は二つ。

 ここで上皇様に従って、未来永劫、西のいいなりになるか。
 戦って、坂東武者の世を作るか。

 ならば、答えは決まっています。

 速やかに上皇様を惑わす奸賊どもを討ち果たし、三代に渡る源氏の遺跡(ゆいせき)を守り抜くのです。
 頼朝様の恩に、今こそ応えるのです。





 向こうは、あなたたちが戦を避けるために執権の首を差し出すと思っている。

 馬鹿にするな!
 そんな卑怯者は、この坂東には一人もいない! そのことを上皇様に教えてやりましょう!


――後鳥羽上皇から義時追悼の院宣が御家人に届いたことを受けて、尼将軍・政子が大演説を行う。






 第48回「報いの時」(最終回)
 たまに考えるの。
 この先の人は私たちのことをどう思うのかって。

 あなたは上皇様を島流しにした大悪人。私は身内を追いやって尼将軍に上り詰めた稀代の悪女。

 でも、それでいいの。
 私たちは頼朝様から鎌倉を受け継ぎ、次へ繋いだ。

 これからは争いが無い世がやってくる。だから、どう思われようが気にしない。

――縁側に座っている義時の横に座って語り始る政子






 この世の怒りと呪いをすべて抱えて、私は地獄へ持っていく。
 太郎のためです。
 私の名が汚れる分だけ、北条泰時の名が輝くーー。


――毒が体に回り体が動かなくなった義時のために、薬をとりに行った政子に義時が語る

 



 編集後記
 WBC熱がひと段落したので、久しぶりに途中で止まっていたNHKオンデマンドでの『鎌倉殿の13人』の再視聴を再開。

 すっかり観なくなった『どうする家康』と比べて、伝統芸能と学芸会ほどの差を感じました。  何より、作り手の日本の歴史や大河ドラマに対する愛情や敬意、熱量に雲泥の差があるように思えました。

 また、演者がまとっている雰囲気や演技、台詞のしゃべり方に始まり、劇中音楽や美術セットなども一線を画していたことも再認識。

 「神は細部に宿る」と言いますが、そういったもの一つひとつの差が作品の面白さやハマり具合の差に繋がっているのではないでしょうか。

 改めて、『鎌倉殿の13人』と言う作品の凄さを再認識したと同時に、全出演者によるパレードの開催を願ってやみません――。






【出典】「鎌倉殿の13人 / NHKオンデマンド
    「鎌倉殿の13人 / DVD-BOX」「鎌倉殿の13人 / Blu-ray BOX
    「鎌倉殿の13人メモリアルブック」「鎌倉殿の13人 THE MAKING

【特撮の神様】 円谷英二関連本

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 “特撮の神様” 円谷英二 関連本
 『ゴジラ』や『ウルトラマン』などの国民的作品を監修して、世界中の子供たちに夢を与え、現在もなお、ファンを魅了し続けている円谷英二

 本日は英二氏の生誕日ということで、“特撮の神様”の関連本について紹介しますーー。




   写真集「特技監督 円谷英二」
 故郷である須賀川での少年時代から、1970年2月2日の東宝撮影所での友人葬に至るまで、円谷英二のすべてを収めた写真集。

 森岩雄有川貞昌佐川和夫中野稔的場徹などの寄稿や、祖師谷にあった円谷英二邸の外観や内部の写真も掲載されている。

 巻末には、詳細な円谷英二年譜やノートに書かれた練習中のサイン、スキー坊やのサインも載っており、永久保存版な内容になっている。






 小説「円谷英二」 天に向かって翔ばたけ
 1935 (昭和10) 年春、映画カメラマンの英二氏が海軍の遠洋航海の記録映画の撮影のため、横須賀軍港を出港して29日目の朝のシーンから始まる。

 上巻と下巻で構成された小説で、円谷英二の記録としてはかなり正確な内容になっている。

 京都時代に誕生し、わずか3年で生涯を終えた英二氏の長女・都 (みやこ) ちゃんのことが記されている唯一の書籍。






「円谷英二」日本映画界に残した遺産
 円谷プロダクション創立10周年を記念した発刊された円谷英二の写真集。

 円谷一が総編集を担当しているため、少年時代の写真や、よく一人で籠っていた土蔵の外観や内部写真、卒業日記や通信簿なども紹介されている。

 田中友幸本多猪四郎関沢新一円谷一、東京現像所社長の寄稿をはじめ、巻末には亡くなった日に書かれた日記や、お墓の写真なども掲載されている。






 特撮「円谷組」ゴジラと、東宝特撮にかけた青春
 東宝ゴジラ会によって編纂された東宝撮影所スタッフによる円谷英二との思い出話をまとめた本。

 ゴジラを生み出した東宝撮影所特殊技術課の組織図や、セクション解説をはじめ、スタッフのインタビュー、往事の撮影所の空撮写真、現場写真なども掲載。

 最終章では、中野昭慶川北紘一による特技監督対談も載っている。






 円谷英二 特撮世界
 円谷英二生誕100年を記念して刊行された本で、円谷英二が特技監督や監修などで関わったを作品一つ一つにスポットを当てられている。

 日独合作映画『新しき土』(1937年) から始まり、『ゴジラ』(1954年) 、『ウルトラマン』(1966年) などを経て、『恐怖劇場アンバランス』(1973年) までを現場の写真と解説付きで紹介している。     円谷英二の人生の振り返りや、彼の特撮作品を総括した論述などもある。






 素晴らしき円谷英二の世界
 「円谷英二生誕100周年」を記念して発行された書籍。

 円谷英二を直接的、間接的に知る人々の証言の中から、その人間像を浮かび上がらせようという趣旨の元に企画された。

 生前の円谷英二を知る関係者、円谷の遺志を継ぎ、現在の特撮業界を支える気鋭の才人たち、円谷作品に影響を受けた文化人の方々のインタビューや寄稿文が掲載されている。  





「翔びつづける紙飛行機」 特技監督 円谷英二伝
 須賀川市出身の著者・鈴木和幸氏が、円谷英二の生涯を少年時代から逝去まで順を追って紹介した本で、1994年に出版された。

 当時は円谷英二の伝記に値するものが無かったため、地元への啓蒙のため、小冊子を作って青年会議所のメンバーに例会の度に手渡していたものが本にまとめられた。

 円谷英二と叔父の円谷一郎との間で交わされた書簡も紹介されている。






 特撮の神様と呼ばれた男
 “円谷英二生誕100年”を迎えた2001年に出版された円谷英二の伝記。

 1994年出版の『飛びつづける紙飛行機』が、ほとんどの内容を円谷英二関連の書物を元にした情報だけで構成したため、新しい発見が乏しく不満だったという。
 
 前著出版後、円谷英二の作品ではなく、人間性の部分に立ち入り、どういった人生を送ったかについて詳しい情報を得たことで、内容に深みが増している。






 定本「円谷英二随筆評論」集成
 円谷英二が生前に執筆した文章、参加した対談、座談などすべてを完全収録した全814ページに及ぶ永久保存版。

 第1章「青春の下加茂時代」、第2章「円谷特撮の誕生」、第3章「敗戦後特撮の出発」、第4章「忍術から宇宙まで」、第5章「映画トリックの種あかし」。

 第6章「ゴジラからMJまで」、第7章「十戒への憧憬」、第8章「円谷監督に50の質問」など、全11章で構成されている。    



 編集後記
 ここで紹介させて頂いたのは、「“特撮の神様” 円谷英二と円谷プロダクション」を作成する際に参考にさせて頂いた本です。

 ほとんどの本が、砧図書館のウルトラマンコーナーで存在を知ったものです。

 中でも、「小説 円谷英二」は砧図書館にしか置いておらず、Amazonでもプレミアがついて高額になっているので助かりました。

 「写真集 特技監督円谷英二」も同様で、関東では横浜中央図書館にしか置いていません。


【ウルトラシリーズの祖】

 半世紀以上に渡り支持され続けるウルトラシリーズで円谷英二が監修として携わった『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』。

 この3作品のミニチュアや特撮演出は、他の作品に比べて別格で一線を画しており、“特撮の神様”と呼ばれるのも頷けます。

 『ウルトラマン』の屋台骨を支えた金城哲夫を育てたのも、デザインの成田亨や怪獣造形の高山良策をヘッドハントしたのも円谷英二です。

 特撮技術だけでなく、人を見る目、人を育てる力を含めて、彼が居なければ現在のウルトラ人気は無かったに違いありません――。



[出典] 写真集 特技監督円谷英二



【出典】「写真集 特技監督円谷英二」「小説 円谷英二 天に向かって翔ばたけ
    「円谷英二 日本映画界に残した遺産」「特撮円谷組 ゴジラと、東宝特撮にかけた青春
    「円谷英二 特撮世界」「素晴らしき円谷英二の世界
    「翔びつづける紙飛行機 特技監督 円谷英二伝」「特撮の神様と呼ばれた男
    「定本 円谷英二随筆評論 集成」  

【本日生誕】“特撮の神様”円谷英二と円谷プロダクション

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 円谷英二と円谷プロダクション


 小田急線「祖師ヶ谷大蔵駅」の近くにあった円谷英二邸円谷プロ社屋

 英二氏は1937年、36歳の時に東宝撮影所に転属になり、京都から祖師谷に転居。円谷プロを立ち上げて、後進の育成や特撮作品の制作に励みました。

 本日が123回目の生誕日ということで、英二氏の半生を振り返りながら、ウルトラファンの聖地の誕生に迫ります――。




目次    

円谷英二の黎明期

映画人としての第一歩

二度目の上京

京都時代

キングコングに衝撃

J.O.スタヂオ

東宝東京撮影所

戦意高揚映画の制作

召集令状と終戦

円谷プロダクションの燭光

円谷特技プロダクション

エピローグ

編集後記



 円谷英二の黎明期


 円谷英二(本名:圓谷英一)は、1901(明治34)年7月7日、福島県須賀川市に誕生。

 麹業を家業としていた円谷家は大束屋という屋号で江戸時代から商売を続ける商家で、商店街でかなり手広く商売を行っていた。

 しかし、英二氏が3歳の時に母が病死し、婿養子だった父も離縁の形で円谷家を去ったため、英二氏は祖母が母親代わり、叔父が兄代わりとなって育てられた。

 学校での成績は優秀で、とりわけ図画でその才能を発揮したという。


【飛行機への憧れ】

 1903(明治36)年12月17日、アメリカのライト兄弟 が人類初の動力飛行に成功した。

 それから7年後の1910(明治43)年12月、英二氏9歳の時、代々木練兵場で徳川好敏大尉と日野熊蔵大尉による日本初飛行が行われた。





 飛行機に興味を持ち、自製の飛行機で世界一周する夢を抱いた英二氏は、蔵の二階の自室での飛行機の模型作りが日課となった。

 絵葉書の写真から全体を想像し、木をナイフで削ったり金属をはんだ付けするなどして作られた模型は精巧なもので、地元新聞が取材に来るほどだった。

 英二氏は自宅近くの長松院の境内にある銀杏の大きな木に登っては空を見上げ、飛行機で大空を自由に飛び回る夢を描いていた。





【映画への興味】

 この時期、英二氏は当時「活動写真」と呼ばれていた映画にも魅了されていた。

 一般に映画史の始まりは、1895年にフランスのリュミエール兄弟がパリで行ったシネマトグラフの興行とされている。

 映像を初めてスクリーンに映したもので、当時は画面の中で映像が動くというだけで驚異的で、見世物として十分に成り立っていた。





 当時の日本での映画興行は、もっぱら野原に張り巡らされたテントであり、英二氏が初めて見たのもこういった地方巡業のものだった。

 英二氏は、縁日に映画の興行師がやって来ると休憩中に映写機を触らせてもらい、カメラの構造を熱心に研究した。

 そして、映写機の代用に幻灯機を購入し、巻紙を裁断した紙製のフィルムをかけて1コマ1コマにマッチ棒が体操する絵を描き、動かして楽しんだ。


【飛行機乗りの夢】

 1916(大正5)年3月、14歳になった英二氏は8年制の尋常小学校の卒業式を終え、神社に参拝して帰宅した英二氏は、日記にこう書いた。

 「これから私は飛行家になり、大いに日本の名をあげますと誓った以上、どうしてもこの通りに成功しなければこの誓いに背くことになるので、一生懸命にやろうと思った」





 尋常小学校高等科を卒業した英二氏は家業を手伝いながら、航空雑誌「飛行界」を購読し、飛行機乗りへの夢を募らせていた。

 そんな時、アメリカの冒険飛行家アート・スミスが来日し、青山外苑に集まった約20万もの群衆の前で日本初の曲芸飛行を披露した。

 自ら持ち込んだ複葉機での宙返り、横転、木の葉落としなどの曲芸飛行は日本中で大きな話題となり、英二氏の飛行機熱も募る一方だった。





 英二氏はついに家族に飛行機乗りの夢を打ち明けたが、墜落事故も多く、世間一般に航空界は危険視されていたため、家族は一計を案じた。

 「操縦を習う前に、飛行機を製作することを覚えるのが大事」と英二氏をそそのかして、同年10月に東京・月島の機械工場に就職させた。

 しかし、夢を諦めきれない英二氏は入社1ヶ月で仕事を辞め、家族の反対を押し切って日本飛行学校へ練習生として入学することになった。

 夢への第一歩を踏み出したかに見えたが、一機しかない飛行機が墜落し、唯一の教官も死亡したため学校は閉鎖され、英二氏は退学を余儀なくされた。


【運命的なハプニング】

 飛行機乗りの夢破れた英二氏は、東京工科学校の夜間部に入学し、学業の傍ら玩具会社の考案係として勤務することになった。

 そして、1919(大正8)年の春、英二氏17歳の時、会社仲間で王子の飛鳥山に花見に繰り出し、座敷で酒を飲んでいたところ、運命的なハプニングが起こる。





 隣の部屋で大騒ぎが始まり襖が突然倒れ、何人かが転がり込んできたことをきっかけに両者の間で喧嘩が始まったのである。

 さっそく英二氏は止めに入り、相手方からも紳士が仲裁に入って双方の喧嘩は収まり、その後は和やかな交流会となった。

 相手方は天然色活動写真という映画制作会社の職員で、喧嘩を仲裁した紳士は会社の最高首脳である技師長の枝正義郎という人物だった。





 日本映画の底上げを考えていた枝正は、玩具会社でアイディアマンとして活躍する英二氏に興味を持ち、英二氏に書簡や電報を何通も送り、自分の会社に見学に来るよう誘った。

 再三に渡る枝正からの誘いに根負けして天活に足を運んだ英二氏は、高価なオモチャのようなメカニックの塊であるムービーキャメラに興味を持った。

 そして、枝正から再び活動写真の世界に入ることを強く薦められ、とうとう辞退し切れずに映画界へと第一歩を踏み出すことになった。


 映画人としての第一歩


 枝正は日本映画の最初期から活躍するベテランで、撮影所では天皇的存在だった。

 1919(大正8)年10月に天活に入社した英二氏は、フィルム、カメラ、現像、編集などのあらゆるノウハウを教え込まれ、入社した年に撮影助手として映画のタイトル部分の撮影も行った。

 忍術映画のトリック撮影に新機軸を見出していた枝正は、最初期の特撮で名も通っており、この時点で英二氏の映画人生は決定されていたといえる。


【国活へ】

 1919(大正8)年12月、天活は粗悪なチャンバラ映画粗製濫造の風潮に押されて潰れ、国際活映に吸収され、英二氏は国活に入ることになる。

 国活では作品をたくさん作ることが要求され、粗悪なチャンバラ映画をダラダラ作っていた。





 国活の古株は天活から来た新入りに冷たく、訳の分からない作品を作る理屈っぽい奴らとして排斥され、肩身の狭い思いをする羽目になった。

 英二氏は皆が敬遠した飛行機による決死の空中撮影によってカメラマンに昇格したが、東北の訛りを馬鹿にされ、不愉快な日々を過ごしていた。

 映画業界の古い体質に失望し「映画を辞めよう」とさえ思った英二氏だったが、兵役で会津若松に赴任することになり、故郷に帰ることになった。


【故郷へ】

 1923(大正12)年、英二氏は2年間の兵役を終えて除隊となり、故郷に帰った。

 英二氏はしばらく家業の糀業を手伝っていたが、田舎ののんびりした空気に飽き、田舎特有の閉鎖的な人間関係にウンザリし始めた。

 また、叔母の軍隊上がりの婿養子による軍隊流のいじめとも思える仕打ちにも悩まされていた。





 次第に子供の頃のように蔵にこもるようになった英二氏は、今後の人生を映画一筋で行くことに決め、誰にも告げずに東京行きの汽車に飛び乗った。

 家出同然で飛び出した英二氏は、二度と故郷に戻らない覚悟だったといえる。


 二度目の上京


 固い決意を持って上京した英二氏を待っていたのは、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で瓦礫の山になった東京の惨状だった。

 多くの映画館が地震と火災によって破壊、焼失したことで弱小の映画会社は全て倒産、解散し、映画の中心は京都へと移っていた。

 英二氏は、知り合いのつてで東京で活動を行っている映画会社で現像技師として働いたが、ほどなく会社が解散し、国活時代の仲間の招きで京都へと向かった。


 京都時代


 1926(昭和元)年、英二氏24歳の時、衣笠貞之助率いる「新感覚派映画連盟」に加わった。

 英二氏の映画人としての再出発は、毎日がロケに明け暮れ、朝から晩までカメラを担いで忙しく走り回る日々だった。





 新しい映画を作ろうと意欲を燃やす衣笠は『狂った一頁』を制作し、英二氏も助手として参加するが、前衛的すぎて観客に理解されず不入りで大赤字となった。

 そのため、興行映画への転身を余儀なくされた衣笠は、業界最大手の松竹の傘下に入り、映画制作の下請け組織「衣笠映画連盟」を新たに発足させた。

 この会社で、英二氏は映画の可能性に関して視野が非常に広くなり、多大な影響を受けた。


【カメラマンとして一本立ち】

 英二氏は、1927(昭和2)年3月公開の林長二郎のデビュー主演作『稚児の剣法』を一本立ちのカメラマンとして初めて撮影。

 三重露光など、最初の師である枝正義郎直伝の特撮の技術を駆使し、“特撮の円谷”としての最初の作品となった。





 本作は爆発的にヒットし、林長二郎は一躍スターとなった。

 その後も数多くの映画作品の撮影を行い、翌年5月の衣笠映画連盟の解消と同時に親会社でもあった松竹の京都下加茂撮影所に入社した。

 英二氏は、ロケ日数が足りずに撮影できなかった夜の港のシーンを自身で考案した日本初のホリゾントを使って撮影し、所長賞をもらうなど活躍した。


【マサノ夫人との結婚】

 京都を中心に、毎日ロケで駆けずりまわっていた英二氏。

 その頃、鉄道やトンネル建設などに伴う土木工事を請け負っていた荒木マサノ氏の家が京都に滞在していた。

 友人に誘われてロケの見学に来たマサノ氏は、英二氏の監督としての仕事ぶりに感銘を受けて、スタジオにまで顔を出すようになった。

 ある日、英二氏は自作の日本初の木製クレーンで撮影中に、カメラとカメラマンの重みに耐えきれずにクレーンが折れて落下して大怪我をして入院。

 退院後、自宅療養していた時に毎日看病してくれたのが縁で、1930(昭和5)年2月27日にマサノ氏と結婚した。

 マサノ氏との間には、1931年に長男の一(はじめ)氏、1935年に次男の皐(のぼる)氏、1944年に三男の粲(あきら)氏が誕生した。






【ロー・キートン】

 当時の画調は、フィルムの感光度が悪かったせいもあってハイキー・トーン全盛で、照明をやたらと明るくして画面の白黒の段階が強かった。

 役者の顔は真っ白になり、畳の筋目もどぎつくなるし、画面に味もそっけもない。

 英二氏はもっと情緒ある映像を撮ろうと、照明の技巧は複雑になるが白黒の段階が多くなり、役者の顔にも細かいニュアンスが出るローキー・トーンで撮影を行った。





 しかし、「天下の林長二郎の顔に陰影をつけるとは何事か」と経営陣に激怒され、撮影待遇をセットもロケも格下のB級に落とされ、照明すら制限された。

 喜劇俳優のバスター・キートンにひっかけた”ロー・キートン”という不名誉なあだ名もつけられた英二氏は自棄気味になり、酒ばかり飲んでいたという。

 酔っ払った勢いで夜鳴き蕎麦の屋台を引き回し、挙句にはオーバーコートを着たまま加茂川に飛び込むなど、荒れ具合はヒドいものだった。

 そんな中で、チープなセットを補うためにグラスワークやミニチュア合成、初歩的なスクリーンプロセスによる画面合成を試みるなど、特殊撮影の基礎を築いていった。


【時代劇時代の終焉】
 
 1927(昭和2)年10月6日、ワーナーブラザーズによる世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』が公開された。

 これまでサイレント映画しか作ったことがなかった映画業界は、トーキー映画への転換を迫られることになった。

 英二氏も1932(昭和7)年に、ロケでの雑音やカメラのモーター音に悩まされるなど悪戦苦闘しながら、日本で3番目のトーキー作品を作り上げた。





 そんな中、トーキー映画制作ノウハウの無い日活は、英二氏を含めた松竹のトーキー映画の技術者を引き抜き、英二氏は1932年11月に日活に移ることになった。

 しかし、「給料を倍にされた連中がやってくる」という噂は日活の中で瞬く間に広がり、英二氏はまた古株のやっかみを受けることになった。

 また、「ローキーで撮影した」という理由だけで自身の作品が試写会で酷評されたことをきっかけに、古い映画界の体質にウンザリしていた英二氏の不満が爆発。

 「枝正義郎によって叩き込まれた映画の未来や理想像は、こんな古ぼけた時代劇の世界ではどこを探しても見つからない」

 英二氏はついに退社を決意し、長い時代劇の時代が終焉を迎えた。


 キングコングに衝撃
 英二氏は、同じようなストーリーや似通った場面設定の時代劇の撮影を繰り返す毎日にマンネリを覚えていた。  そして、外国映画を鑑賞してはその高い水準を見せつけられて落胆する日々の中で、初めて飛行機を知って以来のショックが訪れる。  それは、1933(昭和8)年9月に公開された米映画『キング・コング』だった。              [出典 キング・コング(1933年)]   あくまで作品を陰から支える脇役だった特撮技術が主役となっており、特殊撮影が全面に出た作品に英二氏は衝撃を受けた。  同時に、自分が志している特殊撮影に大きな未来があることを知り、特撮の道へ進むことを撮影技師として決意した。

 英二氏33歳の時ことで、奇しくも叔母のツルが「この子は33歳になったら必ず出世する」と予言したまさにその年だった。




 また、映画館に何度も通って観返すばかりでは飽き足らなくなり、映画フィルムを独自に入手し、1コマ1コマ丹念にコングの特撮の研究分析を行うようになった。

 それは“特撮の神様”という名声を得た後も続き、最晩年に至るまで英二氏は『キング・コング』のフィルムを持ち歩いていたという。

   J.O.スタヂオ  松竹を退社した英二氏は、大沢善夫の勧誘で1934(昭和9)年2月にJ.O.スタヂオ (当時はJ.O.トーキー) へ入社。  自費で研究を進めていたスクリーン・プロセスオプチカル・プリンターの研究、試作などの技術研究もさせるという招きに応じたもので、撮影技術研究所主任として迎えられた。  松竹や日活でその必要性を説きながらも誰にも理解されなかったスクリーン・プロセスを費用の心配無しで研究できる環境に英二氏は喜んだ。  【かぐや姫】  翌年には、2月から8月まで連合艦隊の練習艦“浅間”のカメラマンとして香港からフィリピン、タイ、シンガポール、ハワイ、NZなどを撮影旅行。  この時撮影された映像は、帰国翌年に『赤道を越えて』というタイトルで公開され、この映画で撮影と監督を兼任した英二氏は、初めて監督としてクレジットされた。  また、11月には帰国第一作『かぐや姫』(英二氏撮影)が公開された。  


【新技術の本格使用】

 1935(昭和10)年に撮影された『百萬人の合唱』では、英二氏が設計・製作した日本初の撮影用鉄製大クレーンが使われた。

 翌年に撮影に入った日独合作映画『新しき土』では、松竹、日活、J.O.と映画会社を渡り歩きながら改良を重ねていたスクリーン・プロセスの技術を初めて使用。

 「このプロセスマシンを、自分達が本国から持参した撮影機材一式と交換してでも持ち帰りたい」

 ドイツ側代表の山岳映画の巨匠アーノルド・ファンクにこう懇願されるほどスクリーンプロセス装置は映像だけでなく、時間的、金銭的にも絶大な効果を上げた。  



 東宝東京撮影所


 1937(昭和12)年9月10日、写真化学研究所、P.C.L.映画研究所、東宝映画配給の3社とJ.O.スタヂオが合併し、東宝映画が設立された。

 これに伴い、写真化学研究所とP.C.L.映画製作所が東宝東京撮影所、J.O.スタヂオが東宝京都撮影所と改称された。


           


 また、スクリーン・プロセス装置を気に入った東宝の取締役・森岩雄氏の要望で、英二氏は同装置とともに同年11月27日付けで東京撮影所に転属になった。

 その後、同年12月27日に都内の借り住まいから、東宝が用意した祖師谷の一戸建て住宅に引っ越した。


【脅威の対象に】

 東宝東京撮影所に転属になった英二氏は、カメラマンの間でも名の知れた存在となっていたため、脅威の対象となった。

 「自分達の地位が危うくなり、職を奪われるのではないか」と恐れたカメラマン達が結束して英二氏が現場に出ることを妨げ、仕事ができないよう仕組んだのである。

 英二氏は「裏門からも入れず塀を越えたこともあり、この頃が一番辛かった」と語っている。

 裏門から出入りし、撮影をさせて貰えないでいるという噂はマサノ氏の耳にも入っていたが、英二氏は職場での愚痴一つこぼさなかったという。


【特殊技術課の初代課長】

 後に、英二氏の庇護者となる森岩雄氏。

 彼はP.C.L時代、1925(大正14)年にハリウッドを訪問して特殊技術の重要性に触れ、単なるコストダウンに留まらず、映画表現を広げるものだといういう見識を持った。

 帰国後、早速この分野の開拓に志を立てたが、技術家ではない上に当時の映画界も特殊技術に対する重要性を理解していなかっため動けないでいた。





 そんな中、社内で干されてカメラを回せずにいた英二氏を見て、”渡りに船”と東宝内に特殊撮影の技術部門「特殊技術課」を創設し、英二氏を課長に就任させた。

 しかし、部下は一人もおらず、スクリーン・プロセス技術を東宝の映画作品に提供する傍ら、皇室の記録映画を一人で黙々と撮るのが当面の仕事だった。

 英二氏は当時のことを“部下なし課長”と自嘲気味に回想するなど、不愉快な日々を過ごしながらも、特殊技術による映画製作の合理化を主眼にして研究を続けた。


 戦意高揚映画の制作


 1937(昭和12)年7月の日華事変勃発から日本は戦争への道を歩みだし、東宝が戦意高揚映画の制作に着手したことで、英二氏を取り巻く状況は一変する。

 海軍の依頼によって、1940(昭和15)年に英二氏として初めての戦争映画『海軍爆撃隊』を撮影し、この時初めてタイトルに英二氏の名が「特殊技術撮影」と紹介された。

 同年9月公開の『燃ゆる大空』では、日本カメラマン協会特殊技術賞を受賞。





 翌年12月には太平洋戦争が勃発し、開戦翌年5月には航空兵を募るための陸軍航空本部の御用映画『南海の花束』が公開。

 英二氏の特殊撮影は、国民の戦意高揚を目的とした戦争映画というフィールドで急速に需要を増していった。

 英二氏一人で始めた特殊技術課も、1942年には特殊撮影係、造形美術係、合成作画係、天然色係に事務係を加えた5係を擁する総員34名にもなっていた。


【ハワイ・マレー沖海戦】
 
 1942年5月、東宝は海軍省から開戦1周年記念作品『ハワイ・マレー沖海戦』制作の依頼を受けた。

 しかし、貸してくれたのは洋書の片隅にあった2cm角の地図だけだったため、後は新聞写真を頼りに真珠湾のセットを作ることになった。





 英二氏はまず、琵琶湖と浜名湖でのテストで撮影に最適な魚雷の水柱の高さを3mと決めて、その大きさから軍艦の寸法を定めた。

 そして、新聞の写真に写っていた軍艦上の人物の身長から真珠湾の建築物の大きさを割り出し、周囲の山を含めた地形の大きさに広げていった。

 最終的には第二撮影所のオープン敷地いっぱいに真珠湾を作り上げ、1800坪にも及ぶ大ミニチュアセットの壮観以上の出来栄えに見物客が後を絶たなかった。





 セットを見学した陸軍参謀が陸地測量部へ赴任した時、部下にこう言ったという。

 「お前たちの作っている真珠湾の地図はなっていない。東宝へ行ってみろ、素人が見事なものを模型に作っている」

 本作は日本映画史上空前の大ヒットとなり、国民必見とまで謳われた。

 さらに、本作の成功は日本映画界に特撮の重要性を認識させ、英二氏の業績は広く日本の映画界に認められ、“特技の円谷”としての名声を確立した。


 召集令状と終戦
 1945年8月1日、東宝最後の国策映画『アメリカようそろ』の特技撮影を担当していた英二氏の元に召集令状が届いた。

 『ハワイ・マレー沖海戦』以来、英二氏の技術を高く買っていた海軍省の計らいで進められていた召集免除の手続きが期日までに間に合わなかったためだった。

 軍関係の映画を製作中という理由で8月8日の入隊期日を一週間伸ばし、8月14日に駐屯地の仙台市に向け出発し、翌日到着したが終戦となった。





 しかし、動員解除の命令ががなかなか出ず、食事の度に兵舎である国民学校から烹炊所まで砲車に食器や食缶を乗せて通わなければならなかった。

 その時、町の人々から「信頼を裏切られた軍人への強烈な冷たい目」が英二氏たちに向けられた。

 それまで自分の純粋な映画技術に向けられていた人々からの称賛が、一夜にして戦争協力者への罵倒に変わってしまったことに対する世の人々への不信感。





 この体験は、後に“永遠に不変なもの”を求めて、英二氏がカトリックに入信する理由となった。

 また、東宝撮影所では、航空資料製作所のものだけでなく、一般作品のネガも含めて、軍と東宝の関係を示す証拠の一切を焼却する作業が行われた。

 現在残っている『ハワイ・マレー沖海戦』などの国策映画7作品のネガは、撮影所の敷地に埋蔵して焼却やGHQによる廃棄を逃れたものである。



 円谷プロダクションの燭光


 敗戦直後、東宝はしばし混乱の時期を迎える。

 1946年から労働争議によりストライキが敢行された上に、森岩雄を含む経営陣は戦犯として公職追放となって辞職し、映画制作どころではなくなったのである。

 ストライキは延々と続いて映画制作ができない状態が続き、1948年3月、ついに公職追放の指定を受けた英二氏は東宝を依願退職した。





【特殊映画研究所】

 自宅敷地内に平屋のプレハブ小屋を建てて「特殊映画研究所」(名称は諸説あり)を設立し、映画各社の特撮部分の下請けを始めた英二氏。

 円谷研究所は円谷英二邸の正門を入って左側、旧円谷一邸の場所にあった。


  


 戦後の混乱した映画業界の中で、英二氏はまた駆け出しに逆戻りしなければならなかった。

 また、下請けであるため収益性が低く、新たに始めた事業もうまくいかず、英二氏も弟子たちも英二氏の実家から送られてきた干し柿で飢えをしのいでいた。


【戦後の一番弟子の来訪】

 1948年6月、東宝の録音課での仕事が自分に合っていないと感じていた有川貞昌は、新しい仕事の伝手を紹介してもらうために円谷邸を訪ねた。

 妻が東宝でスクリプターをしていた関係で英二氏のことを知り、戦地での上映会で観た英二氏が撮影した戦争映画について聞いたみたいこともあったという。


    


 有川氏は当時のことを「特殊技術とは何か、素人で何の知識もない私に、丁寧に私の質問に答えて下さいました」と話している。

 有川は最初に自分が飛行機乗りだったことを告げると、英二氏もかつては飛行機学校にいたこともあり、しばし飛行機談義に花が咲いた。

 その後、有川氏は記録映画だと思っていた『電撃隊出動』が模型とミニチュアによって撮影されていたことに驚き、特殊撮影の魅力に引き込まれた。





 そして、英二氏の「我々は空を飛ぶことはできないが、映画で大空高く飛ぼう。そんな仕事を君も一緒にやらないか」という一言で、特殊技術の仕事に就くことを決意。

 翌日に東宝撮影所に辞表を出して、即日研究所に入所したという。

 有川氏はその後、数々の映画、テレビの特撮作品を手がけ、東宝の二代目特技監督になるなど昭和期における特殊撮影を代表する一人となった。


【円谷研究所の移設】

 1950年10月、公職追放解除となり東宝に復帰した森岩雄によって、東宝撮影所内に部屋を貰った英二氏は円谷研究所を移設。

 東宝作品全てのタイトル部分を撮影、予告編などの下請けを行った。東宝映画の「東宝マーク」も、この時期に有川氏とともに制作した。

 また、円谷研究所への外注という形で11月公開の『佐々木小次郎』の特殊技術を担当し、東宝に返り咲いた。





【東宝復帰】

 英二氏は1952年2月に公職追放解除となり、作品契約としての東宝復帰第1作『港へ来た男』(同年11月公開)で特殊技術を担当した。

 また、東宝特撮の黄金時代を築くことになる制作・田中友幸、監督・本多猪四郎、特技・円谷英二の三者が顔を揃えた第一作でもあった。


            


【東宝作品に専念】

 英二氏の特撮技術を取り入れたい映画会社は多く、特に松竹では大船の撮影所に「松竹映画科学総合研究所」を設置し、英二氏を特殊技術部門に常任嘱託として迎え入れた。

 しかし、東宝が『太平洋の鷲』の制作を打診してきたため、常任嘱託を辞任し、東宝作品のみに専任することとなった。

 戦後初の大作戦記スペクタクルである本作は、東宝に1億円を超える興収をもたらした初めての作品となった。






【ゴジラ】

 1954年には、英二氏が特撮を手掛けた日本初の怪獣映画『ゴジラ』が空前の大ヒットを記録し、一躍名声を高めた。

 英二氏はそれまで東宝撮影所まで歩いて通っていたが、ゴジラ公開以降は、黒塗りの車が迎えに来るようになったという。

 翌年の『ゴジラの逆襲』では一枚タイトルで”特技監督・円谷英二”とクレジットされるようになり、以後、特技監督としての地位を確立させた。


      


【円谷特殊技術研究所】

 ドル箱となった東宝特撮の撮影で多忙となった英二氏は1956年、自宅敷地内の研究所を再開する形で「円谷特殊技術研究所」を設立。

 東宝の現場ではできないような手間や時間のかかる合成やコマ撮りなどを、研究所の弟子たちに行わせるようになった。

 ここに、世界に冠たる「円谷プロダクション」の原型が誕生したのである。





 英二氏邸が研究所の事務所になっており、玄関を上がると若者でいっぱいで、「ウルトラQが生まれてくるにふさわしいホットな雰囲気だった」という。

 円谷昌弘邸の場所にあった研究所内には、1ヘッドのオプチカルプリンターや線画台、ミッチェル撮影機、コマ撮り用の機械が設置されていた。

 『キングコング対ゴジラ』(1962年)で、ゴジラが飛び上がってキングコングを蹴り飛ばすカットは、一コマずつモデルを動かして撮影したという。






【人材の弟子入り】

 1950年代末になると、その後の円谷作品を支える人材が続々と弟子入りする。

 日大芸術学部に入学した中野稔氏は1958年12月に英二氏宅を訪れて弟子入りし、研究所や撮影所でアルバイトをしながら合成を学んだ。

 同じく同学部の佐川和夫氏も翌年1月に英二氏宅を訪れ、研究所への出入りを許可され、その後は撮影現場のバイトを通じて特撮技術を学んでいった。





 1960年夏には玉川大学3年だった金城哲夫氏が英二氏宅を訪れ、研究所に参加。

 英二氏から紹介された東宝映画の脚本家・関沢新一氏や、TBS演技部のディレクターだった円谷一氏に師事してシナリオ執筆を学んでいった。

 また、ウルトラQで美術助手、ウルトラマン以降の作品では美術を務めた深田達郎氏も大学生で研究所に参加し、特撮のイロハを吸収した。


【自分のやりたい仕事】

 『ゴジラ』の大ヒットによって一躍時の人となり、“世界の円谷”となった英二氏。

 しかし、彼は映画製作に関する実働時間とそれに伴う実行予算、そして映画の作品内容をプロデューサーが管理する東宝のシステムに疑問を感じていた。

 「東宝の仕事はなかなか制約が多く、作りたいと思う作品が作れない。私も年なので、もうそろそろ自分のやりたい仕事をやっておきたい」




 英二氏は「東宝から独立して、自らが求める特撮映像をより追求したい」と、何度か東宝の取締役だった森岩雄氏に相談した。

 しかし、円谷特技を失うことは東宝の大損失になる上、経営者として不安な所があり賛同は得られなかったが、英二氏の熱意が固かったため妥協案が提示された。

 それは、東宝の特技映画は専属として担当しながら円谷プロを作り、東宝も出資して半分以上の経営の監督権を認めさせることだった。


 円谷特技プロダクション


 1963年4月12日、英二氏61歳の時、私設研究所だった円谷特殊技術研究所は「株式会社円谷特技プロダクション」として会社登記された。

 ここに、現在の「円谷プロダクション」の原型が誕生したのである。





 1964年3月に東宝が資本参加することになり、東宝の衣装部である京都衣装の倉庫が社屋として提供された。

 特技プロには、特撮技術の高野宏一氏、佐川和夫氏、光学合成の中野捻氏、企画・文芸の金城哲夫氏、特撮美術の深田達郎氏らが入社。

 『ウルトラQ』『ウルトラマン』『怪獣ブースカ』『ウルトラセブン』『マイティジャック』『怪奇大作戦』などの円谷作品を支えた。



[出典 Facebook | 大石一雄]


【子供たちに夢を】

 この建物こそ、2005年まで円谷プロダクションが本社を構えていた社屋。

 1968年には社名を「円谷プロダクション」に変更。この場所で、ウルトラシリーズを始めとした様々な作品を生み出し、世界中の子供たちに夢を与え続けたのです—―。







 エピローグ
 大阪万博用の映像撮影中に倒れた英二氏は、1969年12月に静岡県伊東市浮山の別荘での静養生活に入った。

 その最中の1970年1月25日、気管支喘息に伴う発作による狭心症のため死去。享年68歳で、その日に書かれた日記が絶筆となった。


 一月二十五日 曇 

 意味のない一日だった。完全静養のたいくつさを味はふ。

 今度もヒコーキ野郎の企画書脱稿に至らず。わが無能を嘆くのみ。明日は東京へ帰るので、今更ら止むを得ず、東京にて完成せん。

 今後は東京にあっても徒らに無益に過さず、徐々に出社し仕事に復帰したいと思ふ。

 1970年1月27日午後7時から、祖師谷の自宅で通夜。光学技師の中野稔氏は、英二氏の遺体にすがりついて号泣していたという。





 また、2月2日に東宝撮影所第二ステージで友人葬が盛大に執り行われ、“特撮の神様”として世界にその名を轟かせた円谷英二の功績を称え、その死を偲んだ――。







 編集後記


 ”人の運命は妙なチャンスで左右され、それぞれの進路が水の流れのように開けていく。どんなに望んでも無理なものは無理であり、人生に失敗することになる“

 これは晩年に英二氏が残した言葉ですが、飛行機乗りの夢破れ、玩具会社の花見の席での喧嘩から開けていった彼の映画人生そのものを現しているといえます。

 会社を転々としながら、不遇の環境下で自分が信じる映像表現にこだわり続け、『ゴジラ』『ウルトラマン』など後世に残る作品を製作、監修した英二氏。

 彼が遺したスピリットは、没後半世紀以上経った令和の時代にも脈々と流れています。


【運命の導き】

 円谷英二氏の人生は、“特撮の神様”になることを運命づけられていたように思います。

 子供の頃に夢見た飛行機乗りになるべく飛行学校に入学しましたが、墜落事故によって唯一の教官が亡くなり、一機しか無かった飛行機も壊れてしまい、学校が閉鎖に。

 その後に入社した玩具会社で、おもちゃ考案で莫大な特許料を得るなどしてアイディアマンとしての地位を確立していた英二氏。

 しかし、おもちゃ考案の儲けで社員たちと繰り出した花見の席で、隣の一行と喧嘩になり、その一行が映画会社の社員で、社長から映画の道に誘われる。

 玩具会社に入っていなければ飛鳥山での花見にも行っていないことを考えると、すべての出来事が英二氏を映画の道に進ませるべく仕組まれていたようにも思えます。


【師や理解者の存在】

 枝正義郎率いる天然活動写真の進歩的、革命的、技術尊重、高品質という企業理念が英二氏の根幹となったのも、“特撮の神様”への理想的な第一歩でした。

 また、衣笠貞之助の映像の自由な展開、特殊撮影の映像への違和感なき融合の新しい分野に挑戦する姿勢も英二氏を刺激し、映画人として成長させました。

「トリックみたいなものはアメリカ映画に任せておけばいいんだ。日本の映画には必要ないよ!」

 ゆく先々で特撮に対する無理解に苦しめられた英二氏でしたが、J.O.トーキーの大沢善夫やP.C.Lの森岩雄という理解者が登場。

 そして、日本が戦争への道を歩み始めたことで、戦意高揚映画の需要が高まり、英二氏の“特撮の神様”への道が拓いていくことになります。



【円谷英二邸跡地碑】

 世界に夢と感動を与えた“特撮の神様”の住居跡地には、生前の功績を顕彰する記念碑などはありません。

 英二氏の故郷である福島の生家跡には「生誕地碑」が建立されています。

 1937年に転居し、33年を過ごした“第二の故郷”である祖師谷の地にも記念碑があってもいいのではないでしょうか。




 祖師ヶ谷大蔵駅前広場に英二氏の胸像を建立したり、円谷邸があった通りを“円谷英二ロード”と命名するなどの顕彰方法もあると思います。

 “特撮の神様”の生きた証と功績を顕彰する取り組みに期待したいです――。







【出典】「特撮の神様と呼ばれた男」「翔びつづける紙飛行機 特技監督 円谷英二
    「写真集 特技監督・円谷英二」「円谷英二の映像世界」「小説 円谷英二
    「円谷英二特撮世界」「素晴らしき円谷英二の世界」「ウルトラQのおやじ
    素晴らしき特撮人生」「日本特撮技術大全
    「Wikipedia」「@Nakaken_UPAL | Twitter」「@momk12 | Twitter
    「円谷英二 日本映画界に残した遺産」「ウルトラマンティガ第49話 / ウルトラの星
    「ありがとう夢工房 円谷プロ砧社屋 ~ウルトラマンと共に歩んだ40年~


円谷英二邸跡と祖師谷 -特撮の神様が住んだ場所-

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 円谷英二邸跡と祖師谷


 小田急線「祖師ヶ谷大蔵駅」から程近い場所に住んでいた“特撮の神様”円谷英二

 ご住居は1999年12月に解体されて現在は駐車場になっており、隣にあった旧円谷一邸も解体され、一般住宅になっています。

 本日が円谷英二氏の123回目の誕生日ということで、祖師谷時代の英二氏の歴史と、のちに円谷作品を支える人材との出会いを振り返ります――。





目次    

祖師谷時代の幕開け

不遇の日々

戦意高揚映画の制作

召集令状と終戦

円谷研究所の創設

円谷特撮レジェンド誕生地

現在も残る遺構

編集後記

 ※本記事は「円谷英二と円谷プロダクション」から祖師谷時代の一部を抽出、追記したものです



 祖師谷時代の幕開け


 1937(昭和12)年8月26日、写真化学研究所P.C.L.映画製作所、東宝映画配給の3社と、英二氏が勤めていたJ.O.スタヂオ(京都)が合併し、東宝映画が誕生した。

 これに伴い、写真化学研究所とP.C.L.映画製作所が東宝東京撮影所、J.O.スタヂオが東宝京都撮影所に改称された。


           


 また、英二氏が開発したスクリーン・プロセス装置を気に入った東宝の取締役・森岩雄氏の要望で、英二氏は同装置とともに同年11月27日付けで東宝東京撮影所に転属。

 その後、同年12月27日に都内の借り住まいから、東宝が用意した祖師谷の2階建ての一戸建て住宅に引っ越した。

 1937年12月27日のこの日から、33年に及ぶ「円谷英二の祖師谷時代」が始まった――。





 不遇の日々
 東宝東京撮影所に転属になった英二氏は、カメラマンの間でも名の知れた存在となっていたため、脅威の対象となった。
 「自分達の地位が危うくなり、職を奪われるのではないか」と恐れたカメラマン達が結束して英二氏が現場に出ることを妨げ、仕事ができないよう仕組んだのである。
 英二氏は「裏門からも入れず塀を越えたこともあり、この頃が一番辛かった」と語っている。
 裏門から出入りし、撮影をさせて貰えないでいるという噂はマサノ氏の耳にも入っていたが、英二氏は職場での愚痴一つこぼさなかったという。


【特殊技術課の初代課長】

 後に、英二氏の庇護者となる森岩雄氏。
 彼はP.C.L時代、1925(大正14)年にハリウッドを訪問して特殊技術の重要性に触れ、単なるコストダウンに留まらず、映画表現を広げるものだといういう見識を持った。
 帰国後、早速この分野の開拓に志を立てたが、技術家ではない上に当時の映画界も特殊技術に対する重要性を理解していなかっため動けないでいた。

[出典] 現代の主役 ウルトラQのおやじ

 そんな中、社内で干されてカメラを回せずにいた英二氏を見て、”渡りに船”と東宝内に特殊撮影の技術部門「特殊技術課」を創設し、英二氏を課長に就任させた。
 しかし、部下は一人もおらず、スクリーン・プロセス技術を東宝の映画作品に提供する傍ら、皇室の記録映画を一人で黙々と撮るのが当面の仕事だった。
 英二氏は当時のことを“部下なし課長”と自嘲気味に回想するなど、不愉快な日々を過ごしながらも、特殊技術による映画製作の合理化を主眼にして研究を続けた。


 戦意高揚映画の制作


 1937(昭和12)年7月の日華事変勃発から日本は戦争への道を歩みだし、東宝が戦意高揚映画の制作に着手したことで、英二氏を取り巻く状況は一変する。

 海軍の依頼によって、1940(昭和15)年に英二氏として初めての戦争映画『海軍爆撃隊』を撮影し、この時初めてタイトルに英二氏の名が「特殊技術撮影」と紹介された。

 同年9月公開の『燃ゆる大空』では、日本カメラマン協会特殊技術賞を受賞。





 翌年12月には太平洋戦争が勃発し、開戦翌年5月には航空兵を募るための陸軍航空本部の御用映画『南海の花束』を公開。

 英二氏の特殊撮影は、国民の戦意高揚を目的とした戦争映画というフィールドで急速に需要を増していった。

 英二氏一人で始めた特殊技術課も、1942年には特殊撮影係、造形美術係、合成作画係、天然色係に事務係を加えた5係を擁する総員34名にもなっていた。



【ハワイ・マレー沖海戦】
 
 1942年5月、東宝は海軍省から開戦1周年記念作品『ハワイ・マレー沖海戦』制作の依頼を受けた。

 しかし、貸してくれたのは洋書の片隅にあった2cm角の地図だけだったため、後は新聞写真を頼りに真珠湾のセットを作ることになった。





 英二氏はまず、琵琶湖と浜名湖でのテストで撮影に最適な魚雷の水柱の高さを3mと決めて、その大きさから軍艦の寸法を定めた。

 そして、新聞の写真に写っていた軍艦上の人物の身長から真珠湾の建築物の大きさを割り出し、周囲の山を含めた地形の大きさに広げていった。

 最終的には第二撮影所のオープン敷地いっぱいに真珠湾を作り上げ、1800坪にも及ぶ大ミニチュアセットの壮観以上の出来栄えに見物客が後を絶たなかった。





 セットを見学した陸軍参謀が陸地測量部へ赴任した時、部下にこう言ったという。

 「お前たちの作っている真珠湾の地図はなっていない。東宝へ行ってみろ、素人が見事なものを模型に作っている」

 本作は日本映画史上空前の大ヒットとなり、国民必見とまで謳われた。

 さらに、本作の成功は日本映画界に特撮の重要性を認識させ、英二氏の業績は広く日本の映画界に認められ、“特技の円谷”としての名声を確立した。


 召集令状と終戦
 1945年8月1日、東宝最後の国策映画となる『アメリカようそろ』の特技撮影を担当していた英二氏の元に召集令状が届いた。

 『ハワイ・マレー沖海戦』以来、英二氏の技術を高く買っていた海軍省の計らいで進められていた召集免除の手続きが期日までに間に合わなかったためだった。

 軍関係の映画を製作中という理由で8月8日の入隊期日を一週間伸ばし、8月14日に駐屯地の仙台市に向け出発し、翌日到着したが終戦となった。




 しかし、動員解除の命令ががなかなか出ず、食事の度に兵舎である国民学校から烹炊所まで砲車に食器や食缶を乗せて通わなければならなかった。

 その時、町の人々から「信頼を裏切られた軍人への強烈な冷たい目」が英二氏たちに向けられた。

 それまで自分の純粋な映画技術に向けられていた人々からの称賛が、一夜にして戦争協力者への罵倒に変わってしまったことに対する世の人々への不信感。





 この体験は、後に“永遠に不変なもの”を求めて、英二氏がカトリックに入信する理由となった。

 また、東宝撮影所では、航空資料製作所のものだけでなく、一般作品のネガも含めて、軍と東宝の関係を示す証拠の一切を焼却する作業が行われた。

 現在残っている『ハワイ・マレー沖海戦』などの国策映画7作品のネガは、撮影所の敷地に埋蔵して焼却やGHQによる廃棄を逃れたものである。


 円谷研究所の創設


 敗戦直後、東宝はしばし混乱の時期を迎える。

 1946年から労働争議によりストライキが敢行された上に、森岩雄を含む経営陣は戦犯として公職追放となって辞職し、映画制作どころではなくなったのである。

 ストライキは延々と続き、映画製作ができない状態が続いた。そして1948年3月31日、ついに公職追放の指定を受けた英二氏は東宝を依願退職した。


     


【特殊映画研究所】

 自宅敷地内に平屋のプレハブ小屋を建てて「特殊映画研究所」(名称は諸説あり)を設立し、映画各社の特撮部分の下請けを始めた英二氏。

 戦後の混乱した映画業界の中で、英二氏はまた駆け出しに逆戻りしなければならなかった。

 また、下請けであるため収益性が低く、新たに始めた事業もうまくいかず、英二氏も弟子たちも英二氏の実家から送られてきた干し柿で飢えをしのいでいた。


【研究所の移設】

 1950年10月、公職追放解除になって東宝に復帰した森岩雄によって東宝撮影所内に部屋を貰った英二氏は研究所を移設。

 東宝作品全てのタイトル部分を撮影、予告編などの下請けを行った。東宝映画の「東宝マーク」も、この時期に有川氏とともに制作したという。





 また、円谷研究所への外注という形で11月公開の『佐々木小次郎』の特殊技術を担当し、東宝に返り咲いた。



【東宝復帰】

 英二氏は1952年2月に公職追放解除となり、作品契約としての東宝復帰第1作『港へ来た男』(同年11月公開)で特殊技術を担当した。

 また、東宝特撮の黄金時代を築くことになる製作・田中友幸、監督・本多猪四郎、特技・円谷英二の三者が顔を揃えた第一作でもあった。


            


【東宝作品に専念】

 英二氏の特撮技術を取り入れたい映画会社は多く、特に松竹では大船の撮影所に「松竹映画科学総合研究所」を設置し、英二氏を特殊技術部門に常任嘱託として迎え入れた。

 しかし、東宝が『太平洋の鷲』の制作を打診してきたため、常任嘱託を辞任し、東宝作品のみに専任することとなった。

 戦後初の大作戦記スペクタクルである本作は、東宝に1億円を超える興収をもたらした初めての作品となった。






【ゴジラ】

 1954年には、自身が特撮を手掛けた日本初の怪獣特撮映画『ゴジラ』が空前の大ヒットを記録し、一躍名声を高めた。

 英二氏はそれまで東宝撮影所まで歩いて通っていたが、ゴジラ公開以降は、黒塗りの車が迎えに来るようになったという。

 翌年の『ゴジラの逆襲』では一枚タイトルで”特技監督・円谷英二”とクレジットされるようになり、以後、特技監督としての地位を確立させた。


      


【円谷特殊技術研究所】

 1956年に自宅敷地内の研究所を再開し、名称も「円谷特殊技術研究所」となった。

 円谷特技研究所は平屋のプレハブで、正門を入って左側、旧円谷一邸の場所にあった。

 英二氏邸が研究所の事務所になっており、玄関を上がると若者でいっぱいで、「ウルトラQが生まれてくるにふさわしいホットな雰囲気だった」という。


 


 所内には、1ヘッドのオプチカルプリンターや線画台、ミッチェル撮影機、コマ撮り用の機械が設置されていた。

 東宝の現場ではできないような手間や時間のかかる合成やコマ撮りなどを、研究所の弟子たちに行わせていたという。

 『キングコング対ゴジラ』(1962年)の大ダコが人を掴まえるシーンや、ゴジラが飛び上がってキングコングを蹴り飛ばすシーンのコマ撮りもここで行われた。





 中野稔氏によると、英二氏の帰宅時に研究所の電気が点いていないと機嫌が悪くなるので、ムビオラにフィルムをかけないで音だけさせていたとか(笑)

 仕事をしていれば、帰宅後に和服に着替えて研究所にやってきてニコニコしていたという。

 この円谷特技研究所は1963年4月12日に「円谷特技プロダクション」として会社登記され、現在の円谷プロダクションへと発展していくことになる。



 円谷特撮レジェンド誕生地


 円谷英二邸は、特撮技術者を志す若者たちの駆け込み寺のような存在でもあった。

 1948年半ばには、のちに東宝の二代目特技監督となる有川貞昌が、1950年代末から初頭にかけては中野稔佐川和夫金城哲夫などが来訪。

 東宝撮影所や円谷研究所で働きながら、円谷特撮作品に不可欠な人材として成長していった。






【有川貞昌】 

 1948年6月、東宝の録音課での仕事が自分に合っていないと感じていた有川貞昌は、新しい仕事の伝手を紹介してもらうために円谷邸を訪ねた。

 妻が東宝でスクリプターをしていた関係で英二氏のことを知り、戦時中に観た英二氏撮影の戦争映画についても聞きたいことがあったという。





 有川氏は当時のことを「特殊技術とは何か、素人で何の知識もない私に、丁寧に私の質問に答えて下さいました」と話している。

 また、自分が飛行機乗りだったことを告げると、英二氏もかつては飛行機学校にいたこともあり、しばし飛行機談義に花が咲いた。

 その後、有川氏は記録映画だと思っていた『電撃隊出動』が模型とミニチュアによって撮影されていたことに驚き、特殊撮影の魅力に引き込まれた。



[怪獣島の決戦 ゴジラの息子より]

 英二氏は、有川氏に対して「我々は空を飛ぶことはできないが、映画で大空高く飛ぼう。そんな仕事を君も一緒にやらないか」と誘ったという。

  以下、山口理・著「ゴジラ誕生物語」より引用する。

 円谷の言葉には、大きな魅力と力があった。しかし、この場で即座に東宝を辞めるというわけにはいかない。

 「すみません。少し考える時間をください」

 と言って席を立った有川。門を開けて帰ろうとすると、「あれっ、……」円谷の家の門が、なかなか開かない。

 「門が私に『帰るな』と言っているのか……」

 くるっと向きを変えた有川は、また玄関まで戻って、「円谷さん」と大きな声で言った。(中略)

 「今、考えが決まりました。お世話になります。東宝はすぐに辞めますから」




[ウルトラQ第19話「2020年への挑戦」より]


 有川氏は、翌日に東宝撮影所に辞表を出して、即日研究所に入所したという。

 その後、数々の映画、テレビの特撮作品を手がけた有川氏は、東宝の二代目特技監督になるなど昭和期における特殊撮影を代表する一人となった。

 しかし、1971年に「オヤジ(英二氏の敬称)がいなくなっちゃったんじゃ、もう東宝にいる意味が無い」と東宝を退社し、系列会社の国際放映に移籍。





 晩年は映像関係の専門学校の講師として特撮技術の指導に当たっていたが、2005年9月22日に死去。享年80歳だった。

 「研究所時代のあのハングリー精神は、私にとっては不滅です」という言葉の通り、有川氏にとって円谷邸庭のプレハブ小屋が自身の原点だったのです――。






【中野稔】

 日大芸術学部に入学した中野稔氏は、将来は映像関係の技術職に就きたいと考えていた。

 「夢があって、なおかつ将来の職業として貫くなら、憧れていた円谷英二氏のところに弟子入りするのが一番だ」

 そう思った中野氏は、1958年12月のある土曜日、円谷邸をアポ無しで訪問した。


           


 すると、色の浅黒いがっしりした人が出てきて「オヤジ、明日ならいると思うよ」と教えてくれた。これが英二氏の長男の円谷一氏だった。

 翌日の日曜日、再訪すると英二氏は在宅しており、家に上がらせてもらった中野氏。

 「緊張して一気に話す、特撮に対する僕の思いをやさしい眼差しで聞いてくれたオヤジは、映画界のことを何一つ知らない僕に、撮影所の見学を勧めてくれました」





 東宝撮影所では、創立25周年記念映画『日本誕生』の特撮がクランクインしたところだった。

 翌年には撮影所でのアルバイトを許可され、『孫悟空』(1959年)が中野氏にとって初めて就いたプロの現場となった。

 また、室内作業といわれたオプチカルプリンターやアニメーションスタンドなどを駆使する合成作業全般を学ぶ傍ら、『モスラ』(1961年)では特撮助監督も務めた。





 大学卒業後は円谷特技プロに入社し、光学撮影技師として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『マイティジャック』などで視覚効果の腕を振るった。

 その後も、シネマディクトでビジュアル・エフェクツ・スーパーバイザーを務めるなどしていたが、2021年4月4日、肝不全のため死去。享年82歳だった。

 中野氏は生前、「俺の身体は円谷英二で出来ているようなもんなんです」と語っていたという。





 また、中野氏は亡くなるまでヒゲを生やしてたが、これは晩年の英二氏と交わしたある約束によるものだった。

 ヒゲが嫌いな英二氏は、心臓を悪くして入院した時も見舞いに来た中野氏のヒゲをからかうため、「じゃあ、オヤジが退院してきたらこのヒゲ剃りますよ」と約束した。

 しかし、英二氏はそのまま仕事に復帰することなく亡くなってしまったため、生涯剃れなくなってしまったという。






【佐川和夫】

 日大芸術学部2年だった佐川和夫氏は、1959年1月の正月3が日に円谷邸を訪問。

 アポイントを取っていなかったため会ってくれると思っておらず、玄関を開けたら英二氏が立っていて驚きでいっぱいだったとか。

 英二に「特殊技術の世界で働いてみたい」と話すと、「厳しい仕事場であり大変な社会だけど、それでよければやってみなさい」と言われたという。


            


 ご家族が教会に行っていて帰ってこなかったので、2時間余りも付き合ってくれて、「円谷研究所に遊びに来ていいぞ」とも言われた佐川氏。

 その後、研究所に出入りしているうちに、英二氏から「仕事を手伝ってみないか」と声を掛けられ、英二氏の紹介で特殊技術課にアルバイトで入ることに。

 英二氏は東宝で『日本誕生』と『孫悟空』を撮影しており、佐川氏は特撮の撮影部の助手として勉強させてもらうことになった。





 当時は最低でもカメラが3台回っており、カメラごとに撮影技師であるチーフがいて、助手が6人いたので、要は人手不足だった。

 ひと月ほどするとフィルムに触らせてもらえるようになり、しばらくするとフォーカス、露出の係になったという。

 佐川氏はその後、現場撮影から特殊美術、操演、特殊火薬、照明、室内作業、合成素材撮り、オプチカルプリンター合成などの特殊技術を学んでいった。





 そして、大学卒業後に円谷特技プロに入社し、『ウルトラマン』では特撮班チーフカメラマンとして活躍し、『マイティジャック』にて特技監督としてデビュー。

 マイティジャックでは、最初の特技企画段階からすべてに立ち会ったという。





 その後も、『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマン80』などで特技監督を務めた。

 円谷作品以外でも、『バトルフィーバーJ』『電子戦隊デンジマン』を始めとしたスーパー戦隊シリーズで迫力ある特撮映像を演出した。






【金城哲夫】

 1960年の夏に、玉川大学3年だった金城哲夫氏は円谷邸を訪問した。

 脚本家になることを志した彼は、在学中の玉川大学文学部の専任講師でシナリオ作家でもあった上原輝男に英二氏との面会を依頼したのである。

 その時の様子を山田輝子・著『ウルトラマン昇天』より引用する。


 上原が金城をともなった理由を説明すると、英二は片方の耳で聞くように大きくうなずきながら、目をじっと金城にそそいだ。

 眼鏡のおくのその視線は細く鋭く、金城の緊張感は次第にたかまっているように見えた。

 英二は上原の話を聞きおえ、二、三の質問をしたあと「それではなにか書いたものをもってきてごらん」と、金城の顔を見ながらいった。

 どうやら金城の弟子入り志願は聞きとどけられるようであった。ふたりはホッとして円谷家を辞した。







 金城氏は英二氏から紹介された東宝映画の脚本家・関沢新一氏や、TBS演技部のディレクターだった英二氏の長男の円谷一氏に師事することになった。

 円谷研究所に出入りしながらシナリオ執筆を学んでいった彼は、1962年にTBSのテレビドラマ『絆』で脚本家デビュー。

 その後、円谷特技プロへ参画し、企画文芸部の長として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などの企画立案や脚本を手掛けることになる。



[ウルトラQ 第2話「五郎とゴロー」より]


 20代の若さで企画立案、メインライターとしての脚本執筆、脚本家の台本修正、円谷プロ内外への連絡や調整などを仕切っていたのは驚きである。

 『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などで監督を務め、“鬼才”と呼ばれた実相寺昭雄氏は、彼のことを「天才」と称していたという。

 明るくて人懐っこい人柄から現場のムードメーカーでもあり、当時の関係者は「最初期のウルトラ作品の最大の功労者は金城氏」と口を揃える。



[ウルトラマン 第1話「ウルトラ作戦第1号」より]


 金城氏が円谷プロを退社し、1969年3月に沖縄に帰郷した際の送別会も英二氏邸で行われた。

 また、英二氏の死後、円谷プロの社長に就任した円谷一氏は1973年2月9日の朝5時頃、寝室で倒れ、搬送された隣の幸野病院で亡くなっている。

 盟友だった金城氏は通夜の日、円谷家の庭のテントに呆然と座りつくし、一氏の遺影の前で葬儀の翌々日まで泣き崩れていたという――。



[ウルトラセブン 第1話「姿なき挑戦者」より]



【1966年7月17日】

 『ウルトラマン』第1話の放映日である1966年7月17日には、英二邸の居間で、制作に携わったスタッフたちと一緒にテレビ放送を鑑賞した英二氏。

 英二氏の日記より引用する。

 1966年7月17日(日) 晴れ

 今夕は「ウルトラマン」第1回なので、楽しみに放映を待つ。

 高野、佐川、それに金城君達も来て一緒に見る。第1回は一の作品。仲々よく出来ているし色もよい。

 皆で乾杯して前途を祝う。





 現在も残る遺構
 1966年6月に放送された『現代の主役 ウルトラQのおやじ』で、在りし日の円谷英二邸前の様子が映ります。

 その映像では、円谷邸の扉の前が白いコンクリートで覆われていることがわかります。





 現在の円谷邸跡では、その白いコンクリート部分の一部が残っています。







 この場所を円谷英二をはじめ、有川貞昌中野稔佐川和夫金城哲夫満田かずほ高野宏一などのレジェンドたちが踏みしめていたんでしょうね。





 また、半円状の金属レールも残っていますが、これは隣にあった円谷一邸の扉の金属製ガードレールだと思われます。







 編集後記


 「円谷英二監督とのご縁ができた番組『現代の主役 ウルトラQのおやじ』を撮影したあの円谷家は夢と消えてしまった」(実相寺昭雄)

 東宝撮影所から祖師谷みなみ商店街を通って円谷英二邸まで続く道は、英二氏にとって特撮について思考する道でした。

 ある意味、円谷英二の特撮的哲学の道だったといえるでしょう。





 以下、鈴木聡司著『小説 円谷英二 天に向かって翔たけ・上巻』から引用します。


 その日の夕方、いつものようにマサノは買い物籠をぶら下げて、祖師谷大蔵の商店街にいた。  彼女が現在ボンヤリと佇んでいる商店街の通りは、この祖師谷大蔵の駅から東宝撮影所までを一本道で結んでいた。

(中略)

 宵闇が次第に迫りつつある黄昏刻、先ほどまで耳障りな音を響かせていた遮断機が開いて、家路を急ぐ人々が線路の向こう側からぞろぞろと押し渡ってくるのが見えた。
 彼女が見覚えある人影に気づいたのは、まさにそんな瞬間だった。

(あら、ウチの人やないの……!)
 路上に長い影を引き摺っている学生や腰弁の群れに混じって、いつものように鼠色のソフト帽を目深に被り、右手を上着のポケットに入れたままの恰好でやってくる夫の姿を彼女は女房らしい目敏さで見い出していた。






 英二氏の姿を見て、近づいて「お父さん」と声を掛けようとしたマサノ氏。

 しかし、英二氏はロクに顔も見ずに「あぁ、どうもご無沙汰しています」と軽い会釈をして、そそくさと自宅のある方向へと歩き去ろうとした。

 呼び止めて話を聞くと、撮影所を出た時からオプチカルプリンターを使ったアイリスワイプのテストショットについてずっと考え込んでいたとのこと。

 「考え事に夢中だったせいか、ひどく見覚えのあるのに何処の誰だか思い出せなくて、反射的に会釈だけ済ませたのが自分の女房だったというわけだ」

 と弁明した英二氏は、「こりゃ迂闊だったな」と笑ったという。

 このエピソードから、自分の妻の顔を忘れてしまうほどの常人離れした英二氏の思考の深度と思考に対する集中力を垣間見ることができます。



【英二氏の精神】

 英二氏は、東宝撮影所に転属になってからも苦労の連続でした。

 東宝のカメラマンから排斥され、戦争映画の特撮で実績を上げた矢先に公職追放で東宝を退職し、特撮の下請けで食い繋ぐという極貧生活。

 しかし、1954年の『ゴジラ』の大ヒットにより“世界の円谷”としての名声を得て、不朽の名作『ウルトラマン』の監修によって“特撮の神様”まで登り詰めました。

 円谷英二邸跡地には、そんな英二氏の喜怒哀楽の精神が染み込んでいるようです。


【円谷英二の作品の一つ】

 英二氏の自宅には、後に円谷プロの作品を支える数多くのレジェンドが訪問しています。

 当時はまだ無名だったにも関わらず、アポ無しで訪ねてきた見ず知らずの若者を快く迎え入れ、話に耳を傾け、その後の世話までした英二氏の器の大きさに驚かされます。

 タモリが故・赤塚不二夫の葬儀で「私もあなたの作品の一つです」と述べました。


 


 有川貞昌金城哲夫中野稔佐川和夫を始めとしたレジェンドたちも、円谷英二の作品の一つなのかもしれません。

 英二氏が東宝で制作した数々の怪獣映画は、若かりし頃のスティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスも夢中になって観ていたそうです。

 スピルバーグは1968年に来日した際、アポ無しでウルトラセブン撮影中の美センを訪れ、撮影手法についてあれこれと尋ねていったとか。


【円谷英二邸跡地碑】

 特撮作品の制作や監修し、特撮文化の発展に多大な貢献をし、世界に夢と感動を与えた“特撮の神様”が暮らした祖師谷。

 残念ながら、その第二の故郷とも言うべき場所に、生前の功績を顕彰する記念碑などは建立されていません。





 英二氏の故郷である福島の生家跡には「生誕地碑」が建立されています。

 1937年に転居してから亡くなるまでの33年間を過ごした“第二の故郷”である祖師谷の地にも、記念碑があってもいいのではないでしょうか。



[作曲家・清瀬保二の居宅跡碑 / 世田谷区砧]


 記念碑の建立が難しいのであれば、円谷邸があった通りを“円谷英二ロード”と名付けるとか、駅前の広場に英二氏の胸像を建立するという顕彰方法でもいいと思います。

 今の時点では、世界の人々に夢と感動を与えた“世界の円谷英二”の存在を街を挙げて無視されているようで、「ウルトラファンとして悲しい」と言わざるを得ません――。









【出典】「昭和30年代・40年代の世田谷
    「特撮の神様と呼ばれた男」「翔びつづける紙飛行機 特技監督 円谷英二
    「写真集 特技監督・円谷英二」「円谷英二の映像世界」「ウルトラマンの現場
    「特撮円谷組 ゴジラと、東宝特撮にかけた青春」「ウルトラマンの東京
    「円谷英二特撮世界」「素晴らしき円谷英二の世界」「ウルトラQのおやじ
    「日本特撮技術大全」「証言!ウルトラマン」「Pen / 2011年9月1日号
    「空撮特撮シリーズ ウルトラQアルバム
    「ウルトラマンティガ第49話『ウルトラの星』


【ウルトラマンの日】「ウルトラマン」伝説の全39話<前篇>

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「ウルトラマン」伝説の全39話<前篇>


 1966年7月17日に本放送を開始した国民的特撮番組『ウルトラマン』。

 特撮シーンの撮影遅れで制作スケジュールが切迫し、スタッフの疲労も限界を超えていたため、高視聴率だったにも関わらず39話で放送を終えました。

 本日7月10日は“ウルトラマンの日”ということで、制作の裏話とともに全話 (まずは19話まで) を振り返ります――。






目次  

   第1話「ウルトラ作戦第1号」

第2話「侵略者を撃て」

第3話「科特隊出撃せよ」

第4話「大爆発五秒前」

第5話「ミロガンダの秘密」

第6話「沿岸警備命令」

第7話「バラージの青い石」

第8話「怪獣無法地帯」

第9話「電光石火作戦」

第10話「謎の恐竜基地」

第11話「宇宙から来た暴れん坊」

第12話「ミイラの叫び」

第13話「オイルSOS」

第14話「真珠貝防衛指令」

第15話「恐怖の宇宙線」

第16話「科特隊宇宙へ」

第17話「無限へのパスポート」

第18話「遊星から来た兄弟」

第19話「悪魔はふたたび」

18話・19話 裏話

編集後記

  ※第20話~第39話はこちらをご覧下さい

 

 第1話「ウルトラ作戦第1号」


 科学特捜隊のハヤタ隊員は、小型ビートルでパトロール中に謎の青い球体を発見。

 追跡を開始した矢先、続いて出現した赤い球体と衝突して森に落下。ビートルは大破し、ハヤタは命を落としてしまう。

 しかし、M78星雲から来た宇宙人に命をもらって生き返り、ウルトラマンと一心同体となったハヤタにベータカプセルが託され、宇宙怪獣ベムラーとの闘いが始まった――。





【制作裏話】

 ベムラーの回は第1話となっているが、1966年3月16日のクランクインから2か月後の制作第5話として撮影された。

 また、第1話の最終脚本は、金城哲夫氏が1966年5月11日から13日にかけて祖師ヶ谷大蔵にあった旅館はなぶさに泊まり込んで書き上げた。





 著名な脚本家に依頼した脚本が不評で、ほとんどを書き直すことになったためで、最終的には共同脚本という形になった。

 水のシーンは美センのプールのあるステージで撮影しており、普段は水を抜いてその上に平台を置いて使っていた。

 ベムラーがいる所だけ水深が1.8m位で、ベムラーが潜る時に浮いてしまうため、スタッフ総出で押し込んだという。




 第2話「侵略者を撃て」


 宇宙から強烈な怪電波を発する物体が飛来し、科学センターの上空でレーダーから消えた。

 科学センターに調査に向かった科特隊の前に宇宙忍者バルタン星人が現れ、スーパーガンで応戦するが攻撃が効かないため、一旦退却することになった。

 さっそく防衛会議が開かれ、ムラマツキャップの発案でバルタン星人と話し合いを行うことになり、交渉役のハタヤ隊員とイデ隊員が夜の科学センターに向かうが――。





【制作裏話】

 ウルトラマンは、本作と『ミロガンダの秘密』『科特隊出撃せよ』の3本持ちで、飯島敏弘監督によってクランクインした。

 バルタン星人は、飯島監督から「ウルトラQに出てきたセミ人間に角をつけてハサミを持たせてくれ」という注文を受けて成田亨氏がデザインした。

 造形の経費節約の苦肉の策だったという。





 ちなみに、ハサミに窓の様なものがついているのは、ハサミのままだとただの蟹になってしまうため、宇宙人らしくするためにつけたという。

 クランクイン直後の飯島監督の最初の3本は、本編も特撮も同じ1班体制だったが、日程的に1班では無理だとわかり、次の組から本編と特撮が別になった。

 作品中に出てくる科学センターの建物は、川崎にある長沢浄水場が使用された。





 光学撮影の中野稔氏によると、バルタン星人の分身は正面の映像を重ねて複数に見せ、その間を歩く姿を白黒フィルムで何回も重ねたとのこと。

 カラーの上に白黒の映像を何回も重ねたことで全体が青くなり、幻想的な映像に仕上がった。

  アフレコ時に初めてこの映像を見た科特隊のメンバーが感動し、「この素晴らしい合成技術に負けない演技をしよう」と誓い合ったという。




 第3話「科特隊出撃せよ」


 城の古井戸から恐ろしい音が聞こえるという通報が科特隊に寄せられ、フジ隊員とホシノ少年が調査に向かった。

 調査中に突然、山崩れが起きて水力発電所が破壊され、発電所の職員は消えていく怪獣を見たという。さらに、近くの送電所で送電事故が発生。

 それは、電気を吸い取ってエネルギーにする透明怪獣ネロンガの仕業だった――。





【制作裏話】

 ホシノ少年が井戸の底から見上げた井戸の内壁は描いた絵を合成している。

 ネロンガの名前は“皇帝ネロ”から名付けられており、怪獣スーツは東宝怪獣のバラゴンを改造して使われた。





 ネロンガに入っているのはゴジラを演じた中島春雄氏で、中島氏が動きの段取りを組んだ。

 ウルトラマンとネロンガの戦うシーンは数百カット撮ったが、実際に放送されたのは60カットほどだったという。

 また、古谷氏は一度ネロンガの中に入ってみたが重すぎて立てず、接着剤やゴム、ウレタンなどの臭いで気持ち悪くなり、自分の声も外に伝わらず恐怖を感じたとのこと。

 「怪獣に入って颯爽と演技している中島春雄さんは本当に凄いと思った」と自著『ウルトラマンになった男』で述べている。




 また、フジ隊員役の桜井氏が撮影の空き時間に特撮ステージで初めてウルトラマンと怪獣の格闘シーンの撮影を見たのはこの回だった。

 休憩時間に、体全体から湯気を出しながらガックリと木箱に座る古谷氏の姿とウルトラマンの長靴から「ザァーッ!」と大量の汗が捨てられる光景に驚いたという。

 古谷氏と中島氏の姿は桜井氏の気持ちを打つものがあり、「主役はこの人たちだわ」とはっきりと思ったという。

 なお、冒頭の城は小田原城天守閣 、水力発電所は静岡の須川発電所 、洞窟内は伊豆シャボテン公園がロケ地になっている。




 第4話「大爆発五秒前」


 木星開発用ロケットが打ち上げに失敗して太平洋に墜落した。

 ロケットに搭載されていた水爆の一つが海底で爆発し、放射能を浴びた海底原人ラゴンが巨大化し、巡視艇を襲った。

 行方不明だった水爆を肩にぶらさげたラゴンは海上を北上し、休暇を楽しんでいたフジ隊員らが宿泊する千葉の葉山アリーナに上陸したーー。





【制作裏話】

 『ウルトラQ』第20話で海底原人ラゴンを演じたのは古谷敏氏だが、今回の巨大化したラゴンを演じたのはガメラ役の泉梅之助氏。

 身長と恰幅がある体形に合わせて、高山良策氏によってスーツを造形し直したとのこと。





 第5話「ミロガンダの秘密」


 都内で新聞記者と地質学者が次々と窒息死する事件が起き、死因の特殊性から科特隊に調査が依頼された。

 事件現場には緑色の謎の液体が残されており、地質学者の温室からはオイリス島から持ち帰ったミロガンダが消えていた。

 調査の結果、放射線による品種改良の実験中にミロガンダが幼年期の巨大食虫植物に姿を変え、人間を襲っていることが判明し、科特隊にも魔の手が迫る。





【制作裏話】

 この回は、古谷敏氏が初めてウルトラマンを演じた撮影だった。

 マスクが顔に密着していて空気が口の周りくらいしか無かったため、最初の頃は息をするだけで精一杯で、演技プランまで頭が回らなかったという。





 また、光線を出すのは決まっていたが、形やどこから出すかが決まっていなかったため、古谷氏と飯島監督、中野氏、高野氏で話し合ってポーズを決めた。

 それから、古谷氏は三面鏡の前でスペシウム光線のポーズの練習を毎日300回行うようになったという。





 作品中に出てくるミロガンダが植えられていた地質学者の研究室の温室は、伊豆コスモランドの地球儀大温室が使用された。

 また、この回の科特隊の指令室でのシーンが飯島組の本編の初撮影だった。

 イデが台本に書かれていた「兎に角(とにかく)」の読み方がわからず、アラシに聞いたところ、冗談で「ウサギにツノ」と教えた。

 すると、リハーサルと本番でも「ウサギにツノ」と言うので、ふざけていると勘違いした飯島監督が怒ってスタジオを出ていってしまったという(笑)





 第6話「沿岸警備命令」


 横浜沖で体長20mもあるサメが噛み傷を負って浮かんでいるという通報が科特隊に入った。

 東京湾でもよく船が沈んでおり、何かの事件の前触れではないかとハヤタが心配するのをよそに、ホシノ少年は横浜に遊びに行っていた。

 港で怪獣を目撃したホシノ少年たちだったが、密輸犯に囚われてしまい、科特隊が救出に向かった先で海獣ゲスラが襲ってきた――。





【制作裏話】

 ゲスラは『ウルトラQ』のピーターの改造。

 ゲスラは元々毛虫の怪獣という設定で、モスラの幼虫を改造する予定だったが、ウルトラマンと格闘しずらいという理由でトカゲの怪獣に変更された。

 ゲスラに詳しい船員は『ウルトラQ』の「2020年の挑戦」の宇田川刑事役、「あけてくれ!」では沢村を演じた柳谷寛氏。





 ウルトラマンのスーツアクター・古谷敏氏は、初めて仮面をつけて水中に入ったが、目の穴から水が仮面の中に入ってきて苦しくて恐ろしかったと話す。

 劇中でも、口から大量の水を吐き出していたり、頭が全て水の中に沈んだりしていて、観ている側も心配になるほどの格闘シーンになっている。





 第7話「バラージの青い石」


 中近東に巨大隕石が落下して以来、不思議な事件が次々と起こり、科特隊パリ本部から日本支部に出動要請が来た。

 隕石が落下した謎の街バラージがあるといわれている場所にジェットビートルで向かった科特隊は、強力な磁力線に襲われ墜落。

 バラ―ジに向かう途中で遭遇した磁力怪獣アントラーから逃げた科特隊一行は、ウルトラマンの姿をしたノアの神と青い石に守られるバラ―ジに到着した――。





【制作裏話】

 川崎の生田に作られた東宝映画「奇厳城の冒険」のオープンセットで撮影が行われ、このセットを基にストーリーが考案された。

 スペシウム光線が効かない神出鬼没の強敵だけに、ジェームス・ディーンを参考にしたというウルトラマンのファイティングポーズから緊張感が伝わってくる。







 フジ隊員役の桜井浩子氏は「奇厳城の冒険」に出演していたため、この回には出演していない。

 なお、アントラーは高山良策氏が最初に手掛けた怪獣で、蟻地獄を意味するアントリオンが由来となっている。




 第8話「怪獣無法地帯」


 火山噴火により無人島になっていたタタラ島で2年半ぶりに定点観測所が再開され、4人の先発隊が島に向かったが、音信不通になった。

 気象庁から測候所員の救出を要請された科特隊はタタラ島に向かったが、レッドキングやチャンドラーなどが暴れ回る無法地帯になっていた。

 また、測候所は何者かに破壊されて無人になっており、ジャングルや天然の洞穴の捜索をすることになった科特隊の前に怪獣や怪奇植物が立ちはだかる――。





【制作裏話】

 レッドキングとスフランのみ新造怪獣で、チャンドラーはぺギラ、ピグモンはガラモン、マグラーはネロンガの改造。

 レッドキングは高山良策氏が手掛けた2体目の怪獣。レッドキングとの戦いではスペシウム光線ではなく、背負い投げで倒している。





 スフランをスパイダーの炎で焼くシーンは、アラシの下にLPガスのボンベを用意し、ガスの管を衣装の内側に通して本物の炎を撃っているという。

 しかし、スフランに引火した炎が上へ上へと燃え広がったため、助監督の東條昭平氏が慌てて自分の着ていたジャンバーを被せて火を消したとか(笑)




 第9話「電光石火作戦」


 猛烈な勢力の台風13号が伊豆半島に上陸した。

 台風の翌日、復旧作業中に地中からウラン怪獣ガボラが現れ、鉱物のウラン235が貯蔵されている隣町へ向かった。

 戦車による火炎放射で進行方向を変えることに成功した科特隊だったが、ガボラが向かった先にはキャンプ中の高原少年団のバンガローがあった――。





【制作裏話】

 ガボラはマグラーのボディからトゲのついた外皮をはがし、ネロンガの角と背びれを外し、新規造形のヒレを付け加えられている。

 ガボラは初代ゴジラのスーツアクターの中島春雄氏が演じており、ダイナミックな動きを見せている。




 第10話「謎の恐竜基地」


 ある山奥のふだん人が来ない湖で魚が異常発生し、釣り人が大勢訪れるようになった。

 それは、湖のほとりに住んでいるモンスター博士が湖で育てていた襟巻怪獣ジラースに餌として大量の魚を与えていたためであった。

 科特隊が調査に訪れる中、魚をたくさん獲ろうとした釣り人が魚が死ぬ薬剤を湖に流したことで暴れ出したジラースと科特隊、ウルトラマンの闘いが始まった――。





【制作裏話】

 怪獣の着ぐるみ制作の費用を抑えるために、円谷英二監督が東宝から借りてきたゴジラに襟巻をつけることになった。

 そして、脚本担当だった金城氏が高田馬場にある沖縄料理の店「次郎亭」で飲んでいる時、南極に置き去りにされた犬、タロとジロのことが話題に上った。

 「ゴジラを太郎とすれば、エリマキをつけた今度の怪獣は次郎ってところかな」

 ということで、沖縄方言で“次郎叔父さん”を意味するジラースーに絡めて、怪獣の名前はジラースになったという。

 また、ジラースの闘いでは、西部劇をモチーフとしたコミカルなやりとりが繰り広げられる。





 ブルース・リーが監督・主演を務めた『ドラゴンへの道』(1972年)では、このジラース戦のラストの演出がオマージュとして捧げられている。

 「ウルトラマン不滅の10大決戦」で明らかになったもので、敗者にも敬意も捧げる武士道が描かれていると衝撃を受けたという。





 この回ではホテルのボーイ役で古谷敏氏、釣り人役でウルトラQの西条康彦氏が出演。また、エキストラとして高野宏一氏も出演している。

 ロケ地は伊東の一碧湖で、ロケ日が1966年7月17日だったため、スタッフと出演者が揃ってウルトラマン第1話をホテルのロビーで鑑賞した。

 放送終了後には拍手が沸き起こったという。

 なお、この回から、特技監督というクレジットが特殊技術に変更になっている。東宝から「特技監督は円谷英二だけのもの」というクレームが入ったためだった。




 第11話「宇宙から来た暴れん坊」


 空き地で友だちと遊んでいたホシノ少年の前に、“欲しいと思ったものに姿を変える不思議な石”が空から落ちてきた。

 その石は科学センターで分析され、地球上に存在しない元素でできている生きている石であることが判明したが、謎の男にその石が盗まれてしまう。

 その男は、石をギャンゴと名付けた怪獣に変身させて人々を驚かせて楽しんでいたが、「もっと大きなギャンゴになれ」と言ったとたん巨大化してしまう――。





【制作裏話】

 ギャンゴはベムラーの改造で、尻尾を取り、腕とアンテナ状の耳を付けた。

 腹部のカラフルでインパクトのあるデザインは、満田監督の「トテームポールみたいなデザイン」というアイディアから生まれた。

 水中からウルトラマンが飛び出すシーンで、仮面に水が入ってきて死にそうになった古谷敏氏。





 Aタイプのマスクは口が開く仕様だったため、口から水がどんどん入ってきてマスクの中に溜まって、マスクの中で溺れてしまう恐怖を感じたそうです。

 撮影後に高野監督に、「息ができなくなって死にそうになって恐ろしいので、水のシーンを減らしてくれ」とお願いしたとのこと。


 第12話「ミイラの叫び」


 洞窟から7000年前のものと思われる人間のミイラが発見され、科学センターに運ばれた。

 研究室に安置したその夜、装置の電源がひとりでに作動し、電気ショックを受けたミイラは蘇生し、行方をくらました。

 ミイラのテレパシーによって洞窟に眠っていたミイラ怪獣ドドンゴが目を覚まして暴れ始めたため、科特隊とウルトラマンが立ち向かう――。





【制作裏話】

 小さなステージでの撮影だったため、ホリゾントの見切れ防止でステージの土の床をショベルカーで2、3mほど掘って床を低くした。

 下に降りる時、はしごを何本も使って降りるほど深かったせいで空気が薄く、古谷氏は息苦しく、倒れそうになりながら撮影を行った。

 ドドンゴは前後の二人の演者が入る仕組みになっており、鳴き声はモスラを加工して作られた。


 第13話「オイルSOS」


 中近東の国々で原因不明の油田火事が起こり 航行中のタンカーが炎上、爆発する事件が相次いで起こった。

 数週間後、東京湾でもタンクローリーの爆発炎上事故が発生。現場検証中にタンカーが爆発炎上し、油獣ペスターが現れて船を沈めて海中に姿を消した。

 科特隊がペスターを東京湾からおびき出そうとしたところ、イデが誤って湾内で発砲し、怒り狂ったペスターの火炎でコンビナートは火の海に――。





【制作裏話】

 「オイルSOS」は、ガソリンと火薬を使った非常に危険な撮影となった。

 ペスターのスーツアクターを務めた荒垣氏と清野氏は、「水と火が同時に襲いかかってきた。苦しくなって怖くなって、もうだめかと思った」と話す。

 古谷氏も、熱風が覗き穴から入ってきて目が熱くなり、周りが炎だらけで体も熱くなってきて息苦しくなってきたが、夢中で演技したという。





 天井付近でカメラを構えていた佐川和夫氏は、熱で溶けて上から垂れてきた照明用部材によって火傷を負い、飛んできたブリキの蓋で火傷をしたスタッフもいた。

 爆発する石油タンクを真俯瞰で撮るために天井付近でカメラを構えていたスタッフは、爆発時の熱風で眉毛や髪の毛がチリチリになってしまったとか。

 ちなみに、ウルトラ水流のシーンでウルトラマンの右足にホースが映ってしまっており、DVD版にはそのまま収録されているが、ブルーレイ版では消されている。





 低予算だったため、いつも醤油がかかっていない同じおかずのロケ弁当を朝昼晩、深夜にも食べさせられて、うんざりしていたとか。

 ウルトラマンのロケ弁を作っていた増田屋食堂の入り口に大きな赤ちょうちんがぶら下がっていたため、“赤チン弁当”とも呼ばれていた。

 ちなみに、冒頭に出てくる酔っ払いが持っているのが赤チン弁当。


 第14話「真珠貝防衛指令」


 科特隊の月給日に、イデ隊員を連れて宝石店にやってきたフジ隊員。

 しかし、今年に入って突然、養殖真珠が全滅に近い打撃を受けて真珠が値上がりしていて、ネックレスは買えそうにない。

 「海流や気候は例年と同じなのにおかしい」と疑問を感じたフジ隊員。女の意地とプライドを懸けた戦いが始まる――。





【制作裏話】

 冒頭の宝石店は銀座にある「宝石専門店ミワ」で、実相寺昭雄監督がウルトラマンの監督になって初めての撮影場所だった。

 また、ラストシーンでフジ隊員とイデ隊員が銀座の街を歩くシーンは、三愛ビル3階からの隠し撮りで撮影された。

 実相寺監督は銀座を歩く度に、「自分の“ウルトラ”はこの辺りから始まったんだ」と微笑んでしまうらしい。





 三浦半島の剣崎での撮影の休憩時間に喉の渇きを癒すために近くの売店へ向かった科特隊一行。

 清涼飲料水を買うつもりがキャップの「おっ!冷えた缶ビールあるぞ!」の一言で、スタッフに内緒で全員で冷え冷えの缶ビールを飲みほした。





 しかし、焚火のシーンでアルコールがアラシとイデの舌を直撃し、呂律は回らないは顔は茹でダコのように赤くなるわで、監督がセリフを短くしたとか(笑)

 ちなみに、ガマクジラとウルトラマンが戦うシーンも撮影されたが実相寺監督によってカットされてしまったという。

 なお、この回からウルトラマンのマスクとスーツがBタイプに変わった。


 第15話「恐怖の宇宙線」


 少年が土管に描いた怪獣ガヴァドンが特殊な宇宙線と太陽光線を浴びて、実体化した。

 しかし、寝てるばかりの姿に失望した子供たちは、太陽が沈んで土管に戻った怪獣をもっと強そうな姿に描き直した。

 日の出とともに実体化するガヴァドンだったが、またいびきをかいで寝てばかり。科特隊は経済生活の邪魔になっているガヴァドンとの決戦に挑むが――。





【制作裏話】

 ガヴァドンAの足音には、ガラス板に太いマジック・インキを擦らせた音が使われている。

 また、ウルトラマンとガヴァドンBが戦ったのは多摩川緑地公園グラウンドから和泉自動車教習所辺りで、特撮のミニチュアもその付近を再現しているとのこと。

 ハヤタが流された宿川原堰堤も健在で、子供たちが星になったガヴァドンを見上げるシーンも多摩川河川敷の川崎側の土手で撮影された。





 この回のラストシーンは、月島第二児童公園で撮影が行われ、子供たちに集まってもらって好き勝手に落書きをしてもらったという。

 しかし、あとから制作や美術のスタッフたちに「落書きを消すのが大変だった」と文句を言われたとか(笑)


 第16話「科特隊宇宙へ」


 人類最初の金星探検を目指して、宇宙開発研究所の毛利博士が乗った宇宙ロケット「オオトリ」が打ち上げられた。

 万一の事故に備えて救助体制をとっていた科特隊だったが、オオトリから送られてきた映像が乱れ、バルタン星人が画面に登場した。

 ウルトラマンによって全滅したと思われていたが、生き残りが地球征服を狙っていたのだ――。





【制作裏話】

 初代バルタン星人を造形した東宝の佐藤保氏に代わり、二代目は佐々木明氏が造形。地球を襲うバルタン星人の大群は、マルサン製ソフビ人形と鉛製の人形を使用。


 第17話「無限へのパスポート」


 探検家のイエスタディ氏が砂漠から持ち帰った青い隕石を研究中に、隕石とともに行方不明になって1週間が経った。

 科特隊の事情聴取中に地震が起き、青い隕石とともにイエスタディ氏が屋外の草むらに現れた。もう一つの赤い隕石は親友の福井氏に預けたという。

 福井氏の赤い隕石と川口研究所で預かっていた青い隕石を科特隊で保管、調査することになったが、二つの隕石が融合し、四次元怪獣ブルトンが誕生してしまう――。





【制作裏話】

 この回の脚本を書いた藤川佳介氏によるとブルトンのイメージはテトラポットだったそうだが、成田氏はイソギンチャクをイメージしてデザインしたという。


 第18話「遊星から来た兄弟」


 東京に放射能を含んだ霧が発生し、人々は次々に倒れた。それは地球征服を企む第8銀河系のザラブ星人の仕業だった。

 地球と友好関係を築くと見せかけて科特隊と宇宙局を懐柔しつつあったが、拠点にしていた土星探検ロケットの偵察に来たハヤタに本性を暴かれる。

 怒ったザラブ星人はハヤタを監禁してウルトラマンに変身できなくさせ、にせウルトラマンとなって街を破壊し始めた――。





【制作裏話】

 古谷敏氏は、にせウルトラマンの頭に軽くチョップをするシーンで、距離感を間違えて思い切り仮面に手刀を当ててしまった。

 小指を骨折したと思ったほどの痛さで、右手を振って全力で痛みを堪える人間的な動きになってしまったが、高野監督の意向でそのまま使われている。




 ザラブ星人のスーツは、ラゴンで使われたものを改造して使用。

 宇宙局での会議のシーンで画面左端に座っているのは、円谷プロの企画文芸室長で、ウルトラマンのメインライターの金城哲夫である。

 また、作品の冒頭の霧に覆われる東京の街は、東宝撮影所の北側にあったオープンセットで撮影されたという。





 第19話「悪魔はふたたび」


 東京のビル工事現場から金属製のカプセルが発見され、中には金属板と青い液体が入っていた。

 金属板と青い液体は研究所で検査が行われ、金属板の古代文字を解読すると「3億5000万年前にカプセルに怪獣を封じ込めた」と書かれていた。

 そんな中、工事現場に埋められていたもう一つの赤い液体が入ったカプセルからバニラ、鉱物試験場からアボラスが出現し、暴れ始めた――。





【制作裏話】

 アボラスはレッドキングの頭を挿げ替えて造形された。バニラはタツノオトシゴを怪獣にしたという。

 クライマックスシーンは国立競技場とその周辺でロケが行われた。

 国立競技場のセットの図面は池谷仙克氏が作成。当時は国立競技場の資料が無かったので、自分でロケハンして写真をとって図面をひいたとのこと。


 18話・19話 裏話


 番組制作が放送に間に合わなくなり、円谷英二監督が自ら特撮班を編成し、特撮の指揮をとったのが第18話と第19話。

 しかし、当時は「ゴジラ・エビラ・モスラ南海の大決闘」の特技監修、「キングコングの逆襲」の特技監督として準備段階に入るという極めて多忙な時期だった。





 にも関らず、円谷監督は朝9時には撮影所に来て、スタッフに自分で描いた撮影コンテを渡して指示をしていたという。

 英二氏の日記や現場写真、セットの特徴から、18話の冒頭の街中シーンと19話のバニラ登場のシーン、国立競技場のシーンが英二氏が現場で指揮をとったものと思われます。



 編集後記


 今回、記事を作成するために、久しぶりに『ウルトラマン』を観返しました。

 その結果、子供時代は「カッコいい」「面白い」「楽しい」「怖い」といった表面的で単純な感じ方しかできていなかったことに気付きました。

 大人になってから、ストーリーや台詞に込められたメッセージ、出演者の演技、美術、造形、制作裏話などを含めて多面的に観ると、作品の素晴らしさをより深く感じます。

 半世紀以上前の作品にも関わらず、古さをあまり感じず、大人の鑑賞にも十分に耐え得る作品であることも再認識しました。





 喜怒哀楽に富んだ脚本、卓抜した演出や音楽、特撮、美術、造形、そして俳優の演技力の高さと人間的魅力などが相まって、時代を超えて支持される作品になっているのでしょう。

 他のウルトラ作品と見比べることで、作品の根底に沖縄の太陽の様な力強い明るさも流れていることにも気付きました。

 8頭身の古谷敏氏がマスクをつけて人間の体で一番美しいプロポーションである7頭身になり、ウルトラマンのカッコ良さに芸術性が加わったことも大きかったといえます。

 また、ホシノ少年が怪我で後半から出演しなくなり、シリアス路線に移行したことで、大人の視聴者も巻き込んで盛り上がっていったんだと思います。

 初回から最終話まで安定した高視聴率が続いたため、視聴者に媚びたり迎合する必要性がなく、監督の思い描く演出が出来たともいえます。

 “特撮の神様”円谷英二の名の下に、予算をオーバーして赤字になることも厭わず、ミニチュアセットや映像合成に徹底的に拘ることができたこともあるでしょう。

 ただ、やはり一番大きいのはCGを一切使わないことで撮影現場の空気感、物体の重量感がリアリティとなって画面から伝わり、子供心を捉えたのではないでしょうか。





 ウルトラマン放送当時は、テレビは“電気紙芝居”と呼ばれて馬鹿にされていたため、「偏見を見返してやる」という反骨精神もありました。

 主題歌のクレジットの一番最初に“監修・円谷英二”と表示されるため、「オヤジに恥をかかせるわけにはいかない」というスタッフの責任感もありました。

 円谷プロダクションとTBS、東宝の才能のぶつかり合いによる化学反応もありました。

 つまり、キャスト、スタッフ、責任者が「良い作品を作ろう」と同じ方向を向いて仕事をしたことが、一つ一つの小さな川の流れを大河にしていったんだと思います。

 ウルトラマンは、庵野秀明氏が評しているように「あらゆる才能の集合体で作られた奇跡の番組」なのですーー。




⇒ ウルトラマン再考<後編>はこちら



【出典】「ウルトラマン研究読本」「大人のウルトラマン大図鑑」「ウルトラマンの現場
    「ウルトラマンになった男」「ウルトラマン誕生」「ウルトラマンの東京
    「ウルトラマンの飛翔」「ウルトラマン1966+ -Special Edition-
    「特撮と怪獣」「ウルトラマン創世記」「ウルトラマン青春記 フジ隊員の929日
    「写真集 特技監督・円谷英二」「ウルトラマンはなぜシュワッチと叫ぶのか

【関連商品】「TSUBURAYA IMAGINATION」「ウルトラマン Blu-ray BOX

ウルトラマンゆかりの地 / 祖師ヶ谷大蔵

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 ウルトラマンゆかりの地 / 祖師ヶ谷大蔵

 
 小田急線「祖師ヶ谷大蔵」。  駅周辺にはかつて、円谷プロダクションが本社を構え、ウルトラシリーズの撮影所だった美セン(東宝ビルト) があり、“特撮の神様” 円谷英二も住んでいました。

 栄スタジオでマグマ大使やマイティジャックの特撮シーン、国際放映ではウルトラマンAやマイティジャックの本編の撮影が行われるなど、まさに “特撮の街” でした。

 そんな祖師ヶ谷大蔵の『ウルトラマンのゆかりの地』を紹介します――。


 

目次  

祖師ヶ谷大蔵駅構内

祖師谷大蔵駅周辺

ウルトラマン商店街

円谷プロダクション初代本社(砧社屋)跡

旧増田屋食堂・パナシェ跡

東宝ビルト(旧東京美術センター)跡

世田谷区体育館・砧公園

東宝スタジオ(旧東宝撮影所)




 祖師ヶ谷大蔵駅構内 【ウルトラマンの柱】 

 駅構内の柱には、歴代のウルトラ戦士がペイントされている。なお、電車接近時の音楽は上りはウルトラマン、下りはウルトラセブンになっている。


  
    

 祖師谷大蔵駅周辺


【ウルトラマンシンボル像】

 駅前広場には、ウルトラマンのシンボル像が立っている。





 毎時00分ちょうどになると、ウルトラマンの目とカラータイマーが3分間だけ光る。シンボル像の足元には、「ウルトラマンの歌」のプレートが設置されている。






【ウルトラマン交番】

 広場には、ウルトラマンの目をモチーフとした窓の祖師谷大蔵交番がある。






【ウルトラマン案内板】

 駅前には、ウルトラマンをモチーフにした案内板が立っている。





 ウルトラマンがスペシウム光線を発射している案内板は、駅前と祖師ヶ谷大蔵駅バス停前に設置されている。

 祖師ヶ谷大蔵駅バス停前にある案内板の光線部分の裏側には、ウルトラ作品のオープニングのシルエットが描かれている。






【デザインマンホール】

 駅前周辺には、5種類のデザインマンホールが設置されている。




 【デザインポール】  改札正面の高架下にある車止め用のポールの天面に、ウルトラマン、ウルトラセブン、ガラモンの装飾が施されている。

 

【ウルトラマンモニュメントサイン】  高架の南側に、ウルトラマン風のモニュメントサインが設置されており、カラータイマー型のボタンを押すと、ウルトラマンの主題歌が流れる。     

 ウルトラマン商店街
 『ウルトラマン商店街』は、世田谷区役所の世田谷売り込み隊の働きかけと円谷プロの協力によって、2005年4月に祖師谷大蔵駅前に誕生。

 ウルトラヒーローをモチーフにした街灯や、ウルトラマン、ゾフィー、帰ってきたウルトラマンのアーチなどが設置されている。

 ウルトラマンのオリジナルグッズ&フードも購入できる。(こちらの看板は、CoCo壱小田急祖師ヶ谷大蔵駅前店の裏手にある)
 




 祖師谷昇進会商店街

 祖師ヶ谷大蔵駅の西に延びる商店街。通称「ウルトラ・ウェスト・ストリート」。

 ウルトラマンタロウをモチーフとした街灯にカネゴンのフラッグが掲げられており、商店街の西端にはゾフィーのアーチが設置されている。

 また、ウルトラマン公式ショップや円谷英二邸跡、AZ跡などがあり、カネゴン像も建立されている。






【ウルトラマンタロウの街灯】

 こちらの商店街は、ウルトラマンタロウを模した街灯がメイン。






【ウルトラマン川柳】

 街灯の柱には「新型コロナウィルス感染拡大3密防止啓もう川柳」が貼られており、ウルトラマンにちなんだ川柳も見受けられる。





 街灯の柱に設置されているカラータイマーをモチーフとしたガラスケースの中には、ウルトラ作品の写真が貼られている。

 夕方になると、街灯とともにケースの中にも明かりが点灯する。





 商店街の中ほどにある「とき整体」の店頭ウィンドウには、ウルトラマンのフィギアが飾られている。






【Cafe Melogy】

 ウルトラマン公式グッズの販売もしている喫茶店「Cafe Melody」。平日のみ、数量限定でカスタードクリーム入りのウルトラパンを販売している。






【ウルトラマンクッキー】

 「ニシキヤ洋菓子店」のレジ前ではウルトラマンクッキー(330円)を販売。裏がホワイトチョコでコーティングされ、生地も柔らかく、優しい味と食感が特徴。






【円谷英二邸跡】

 “特撮の神様”円谷英二の自宅があった場所。

 東宝映画の京都撮影所から東京撮影所に転属となった英二氏は、1937年12月27日にこの地に引っ越した。

 建屋は1999年12月に解体され、現在は駐車場になっている。

 


 英二氏は、1948年に戦意高揚映画の製作などを理由にGHQから公職追放の指定を受け、東宝を依願退職した。

 同年、自宅の庭にプレハブ小屋の「特殊映画研究所」(名称は諸説あり)を設立し、映画各社の特撮部分の下請けを始めた。

 研究所は、1950年に東宝撮影所内に移転したことで一旦閉鎖したが、1956年に研究所を再開させる形で自宅敷地内に「円谷特殊技術研究所」を設立。

 手間や時間のかかる合成やコマ撮りなどを所員に行わせるようになった。(研究所は平屋のプレハブで、旧円谷一邸があった場所に建っていた)





 そして、1963年4月12日に研究所を法人化して、現在の円谷プロダクションの前身となる「円谷特技プロダクション」が誕生。

 英二氏邸の応接間が事務所になっていたため、玄関を上がると若者で一杯で、「ウルトラQが生まれてくるにふさわしいホットな雰囲気だった」という。





 英二氏は、自宅から東宝撮影所まで徒歩で通っていた。

 しかし、1954年に『ゴジラ』が大ヒットして広く名が知られるようになってからは毎朝、黒塗りの車が迎えにくるようになったという。






【円谷特撮レジェンド誕生地】

 円谷英二邸は、円谷特撮作品で活躍したレジェンドたちの誕生地でもある。

 1948年半ばに有川貞昌、1958年から1960年にかけて当時大学生だった中野稔佐川和夫が英二氏邸を訪れて弟子入り。

 また、ウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブンなどの企画立案や脚本などを手掛けた金城哲夫も、1960年夏に来訪して弟子入りしている。


   


 金城氏が円谷プロダクションを退社し、1969年3月に沖縄に帰郷した際の送別会もここで行われている。

 1970年1月27日午後7時からは、英二氏の通夜も執り行われた。






【円谷一逝去の地】

 また、英二氏の死後、円谷プロの社長に就任した円谷一は1973年2月9日の朝5時頃、寝室で倒れ、搬送された隣の幸野病院で亡くなっている。

 盟友だった金城氏は通夜の日、円谷家の庭のテントに呆然と座りつくし、遺影の前で葬儀の翌々日まで泣き崩れていたという。

 ちなみに現在は、英二邸の敷地内を舗装していたアスファルトと、旧円谷一邸の扉門のガードレールが遺構として残っている。



[出典]「現代の主役 ウルトラQのおやじ」(1966年)



【AZ(エーゼット)跡】  円谷プロのスタッフやキャストの溜まり場だった喫茶店「エーゼット」があった場所。

 小さなカウンターとボックス席が3、4つの喫茶店だったそうで、現在は「キッチンマカベ」というレストランになっている。

 『ウルトラセブン』のアンヌ隊員役のひし美ゆり子氏のブログでも、この場所にエーゼットがあったと述べている。





 常連だった金城哲夫、中野稔 、高野宏一、佐川和夫 らは、コーヒーと紅茶では我慢できず、ビールやウィスキーを置かせていたとか。

 また、ウルトラマンやセブンの撮影が終わると、円谷一を始めとした監督やスタッフたちもこの店に集まってよく飲んでいたという。


【カネゴン像】

 祖師谷ふれあいセンター前に、カネゴンが居る。(2019年2月3日設置)





 カネゴン像の設置日に駅前広場でお披露目イベントが開催され、商店街に現れたカネゴンの周りは人だかりになり、大人気だったという。






【ゾフィーアーチ】

 カネゴン像から歩いてすぐの所に、ゾフィーのアーチが設置されている。






【砧図書館】

 ゾフィーアーチから徒歩1分ほどの所にある世田谷区立の図書館。

 ウルトラ作品の地元だけあって、ウルトラマンや円谷英二監督、特撮に関する本専用のウルトラマンコーナーがあり、レア本が揃っている。






 祖師谷商店街

 祖師ヶ谷大蔵駅の北に伸びる商店街。通称「ウルトラ・ノース・ストリート」。

 円谷スタッフご用達の「旅館はなぶさ」や、『マグマ大使』や『マイティジャック』の特撮撮影が行われていた「栄スタジオ」がかつて存在した。

 商店街の北端にはウルトラマンアーチが設置されており、とんねるずの木梨憲武の生家の「木梨サイクル」もある。





 商店街の前半はウルトラマンタロウ、後半はウルトラマン、所々にウルトラセブンをモチーフにした街灯が設置されている。






【ウルトラまんじゅう】

 商店街の入り口付近左手にある「やまと屋」には、お店を入って左側にウルトラまんじゅう(170円)が売られている。

 カスタード味とチョコ味の2種類で、表面にウルトラマンの焼き印が押されている。






【ウルトラマン金太郎あめ / 缶バッジ】

 また、やまと屋の向かい側付近にある「高橋茶舗」のレジ前にて、ウルトラマン商店街限定のウルトラマン缶バッジが販売中。

 また、秋冬にはウルトラマンのキャクターが描かれたウルトラマン金太郎飴が登場する。






【旅館はなぶさ跡】

 「さか本そば店」の裏にあった円谷プロご用達の旅館。

 金城哲夫をはじめとした円谷プロ文芸部の脚本家や、飯島敏宏などの円谷作品の監督が打ち合わせや脚本書きなどに利用していた。

 ※下記画像(1963年)中央の林に囲まれている所が「はなぶさ」の建屋





 ウルトラマン第1話「ウルトラ作戦第1号」の最終脚本は、金城哲夫が1966年5月11日から13日にかけて、はなぶさに泊まり込んで書き上げたもの。

 ウルトラマンの企画書作りでは、1965年の夏から秋にかけて山田正弘氏と金城氏が3日、4日と連泊することもあったとか。

 1966年3月16日のウルトラマンのクランクイン時には午後3時から夜9時まで、はなぶさで飯島組の打ち合わせが行われている。



[出典 ウルトラマン 1996+ Special Edition / 金田益実・編


 ウルトラマンの企画作りが行われ、第1話の脚本が書かれ、クランクイン当日に打ち合わせが行われたこの場所は、“ウルトラマン創世の地”といえる。

 金城氏や上原氏がはなぶさに籠って脚本書きをする時、夜は大抵「焼き鳥たかはし」で焼き鳥を食べていたという。


      


 こちらには、中野稔氏を始めとした円谷プロのスタッフも仕事終わりによく飲みに来ていた。

 ちなみに、ウルトラマンなどで監督を務め、“鬼才”と呼ばれた実相寺昭雄監督は、たかはしの裏手の通りにある「平八」という居酒屋がお気に入りだったとか。


【栄スタジオ跡】

 祖師谷団地の北側に「栄スタジオ」というトタン張りの貸しスタジオがあった。

 第一スタジオが観音院、第二スタジオが保坂工務店付近にあり、『マグマ大使』や『マイティジャック』などの特撮撮影が行われていた。




 マイティジャックは当初、円谷英二監督が第1話の特技監督を担当する予定だったが、東宝の作品がクランクインしていたため実現しなかった。

 最初の特撮企画段階から全てに関わった佐川和夫氏は「それだけ円谷英二が力を入れた作品だった」と話している。

 マイティジャックの特撮撮影は第二スタジオで行われており、仮設の床の下が浅いプールになっていて、そこで海上シーンの撮影をしていたという。



[出典 Facebook | 大石一雄]


 こちらのお写真は、スタッフのご遺族の方から提供して頂いた1968年12月13日に第二スタジオ前で撮影された『戦え!マイティジャック』の集合写真。

 前日に円谷プロが大幅人員削減を発表しており、スタッフの多くは“これが最後”との意識があったのかもしれないとのこと。

 左から2番目が金城哲夫氏で、その右上が円谷プロの初期作品群で美術を務めた深田達郎氏。



[出典 Twitter | @fukafuka_9]


【ウルトラマンのソフビ人形】

 1957年創業の老舗の山陽堂靴店にはウルトラマンのソフビ人形が飾られている。





 祖師ヶ谷大蔵駅から徒歩10分ほどのところにある城南信用金庫のウィンドウには、ウルトラマンや怪獣が勢ぞろいしている。





 他にも、「とんかつ新宿さぼてん」のカウンターや「hairsalon shu」のウィンドウに、ウルトラマンの人形を見つけることができる。






【ウルトラマンアーチ】

 商店街の北端にある交差点付近に、ウルトラマンのアーチが設置されている。






 祖師谷みなみ商店街
 祖師ヶ谷大蔵駅の南に伸びる商店街。通称「ウルトラ・サウス・ストリート」。商店街の南端のアーチはウルトラマンジャック。

 円谷監督が東宝撮影所に通った道であり、通り にあった村田電器 というお店でよくツケで電化製品を買っていたという。

 国際放映ではマイティジャックの本編やウルトラマンAの撮影が行われ、商店街の先に円谷プロ旧本社と東宝ビルトがあった。






【バルタン星人の街灯】

 商店街にはバルタン星人をモチーフにした街灯が6基設置されており、バルタン星人のフラッグが数多く設置されている。





 柱に設置されている円形の窓の真ん中には、ゴモラ、ガラモン、ジェットビートル、ゼットン、シーボーズ、ダダのミニチュアが飾られている。

 日大商学部砧キャンパスの近くにもバルタン星人の街灯があり、そこにはウルトラマンとバルタン星人がいる。






【ウルトラセブンモニュメント】

 ウルトラセブン55周年を記念して製作され、2023年11月3日に砧8丁目児童遊園にて除幕された。
 除幕式にはウルトラ警備隊のモロボシ・ダン役の森次晃嗣氏も駆けつけ、「多くの人々に親しまれてほしい」と語った。

 なお、毎時30分になると、数分間セブンの目とビームランプが光る仕様になっている。





 なお、公園の手前に「ダガシヤ373(みなみ)」というウルトラマンだらけの駄菓子屋がある。(店内は写真撮影自由)

 ウルトラマン商店街のアンテナショップにもなっており、商店街で売られているウルトラマンにちなんだグッズや食べ物が紹介されている。





【村田電器跡】

 円谷英二氏がお気に入りだった電器店があった場所。

 英二氏は帰宅後、着物に着替えて「ちょっと行ってくる」と言って財布も持たずに直行し、ツケで色々な電化製品を買っていたという。






【旧・国際放映】

 祖師谷みなみ商店街の東側にある撮影スタジオで、現在の東宝の前身である東宝映画が1939年に「東宝映画第二撮影所」として開設した。

 現在は、東宝が最大株主である関係会社「国際放映」が所有し、東京メディアシティとして稼働している。





 こちらでは、『マイティジャック』の本編の撮影が行われていた。

 『ウルトラセブン』第48話「史上最大の侵略 前編」で、ダンがソガ隊員とパトロールを交代する場面もマイティジャック用に造られたセットで撮影が行われた。

 『ウルトラマンA』で主人公の北斗星司を演じた高峰圭二氏によると、タックアローやファルコンのコクピットシーンの撮影もここで行っていた。



【円谷プロご用達のお店】

 日大商学部の東門の前にあった「コーヒー高野」というコーヒーショップが撮影スタッフのご用達だったという。





 また、近くにある「さかなや」というお店は、TDG(ティガ・ダイナ・ガイア)の頃、スタッフが飲んでいたお店だという。





 そして、通りの裏手にある「東華飯店」のかけご飯は、円谷プロ制作部の出前の定番で、満田監督は三目そばとロースライスと東華重の繰り返しだったとか。






【ウルトラマンジャックアーチ】
 商店街の端に設置されている『帰ってきたウルトラマン』のアーチ。






 円谷プロダクション初代本社(砧社屋)跡


 円谷プロダクションの本社があった場所。建屋は現存せず、敷地内にはマンションが建っている。





 1956年に円谷英二氏が祖師谷の自宅に円谷特技研究所を設立したのが始まりで、1963年4月12日に法人化して「円谷特技プロダクション」を設立。

 1964年12月に、東宝から衣装部の倉庫が提供されたことで、この場所が世界に冠たる「円谷プロダクション」の本丸となった。

 倉庫内に沢山の怪獣スーツが保管されていたため、”怪獣倉庫”とも呼ばれ、“ウルトラファンの聖地”として親しまれていた。





 また、フジ隊員とアンヌ隊員の面接もここで行われ、カメラテストが中庭や道路を挟んだ向かいにあった原っぱで行われている。





 しかし、2008年2月に閉鎖となり、翌年4月に解体された。

 閉鎖時には、これまでの感謝を込めた宴が開催され、ウルトラヒーローと供に夢を見た人達が集まり、別れを惜しんだ。

 建屋が無くなっても、この場所はウルトラマンを始めとした様々な作品を生み出し、世界に夢と感動を与え続けてくれた伝説の“聖地”であり続けます。





 ちなみに、円谷プロの関係者がよく出前をとっていた紅葉家(もみじや)というお店が近くにあったが、2014年に狛江に移転している。

 実相寺昭雄監督は、この店の蕎麦を好んでいたという。





 旧増田屋食堂・パナシェ跡


【旧増田屋食堂】

 ウルトラシリーズの撮影陣のロケ弁を作っていた食堂(現在は閉店)で、入り口に大きな赤提灯がぶら下がっていたため、「赤チン弁当」と呼ばれていた。

 しかし、低予算のためおかずがいつも同じで、朝昼晩、深夜食とも同じロケ弁でうんざりしていたとか。

 ちなみに、ウルトラマン第13話「オイルSOS」の冒頭に出てくる酔っ払いが持っているのが赤チン弁当だという。






【パナシェ跡】

 裏手の世田谷通りに90年代から2000年代にかけて存在した「パナシェ」という洋食屋さんは、東宝スタジオや円谷プロのスタッフのご用達だったお店。

 オムライスやデミグラスソースのかかったハンバーグが人気だったとか。

 東宝ビルトでの八木組のウルトラマン撮影時のケータリングは必ず、パナシェの牛すじカレーを頼んでいたという。





 東宝ビルト(旧東京美術センター)跡  1962年10月に東宝撮影所の美術工房・東京美術センターとして誕生した撮影所「東宝ビルト」があった場所。

 この場所で幾多の怪獣たちがウルトラマンと戦い、数多くの戦闘機が発進し、たくさんの隊員たちが指令室に集っていた。  

  1964年秋の『ウルトラQ』の撮影開始からウルトラシリーズを生み出してきた東宝ビルトは、拠点合理化のため2008年2月をもって閉鎖。

 往時の建物は全て解体されており、現在は集合住宅になっている。 

  
 なお、東宝ビルト近くにスタッフご用達の「玉蘭」という台湾料理屋があったが、2023年に閉店した。



 世田谷区体育館・砧公園
 東宝ビルト跡地から徒歩8分ほどのところにある世田谷区総合運動場体育館と、砧公園。  体育館の外は、ウルトラセブン第6話「ダーク・ゾーン」、中ではウルトラマン第22話「地上破壊工作」、ウルトラセブン第48話「史上最大の侵略(前編)」などのロケで使用された。
 なお、白い色だったイスはオレンジ色にリペイントされ、天井にはエアコンのダクトと思われる構造物が新設されている。

    砧公園も、ウルトラセブン第12話「遊星から愛をこめて」などのロケ地として使われている。  


 東宝スタジオ(旧・東宝撮影所)  1937年8月の「東宝映画」の設立以降、映画の工場「東宝撮影所」として運営されていた。

 しかし、1970年から1971年にかけて、美術部門を東宝美術、技術部門を東宝映像、制作部門を東宝映画、撮影所を東宝スタジオに分離。それぞれ独立採算制を取る形となる。

 さらに、2004年からのスタジオ改造計画によって大幅リニューアルされたが、撮影スタジオとしては日本一の広さを誇る。





 ウルトラマンのスーツアクター・古谷敏氏は、東宝ビルトでの撮影が終わると、毎日、東宝撮影所の演技課に定期報告に行っていたという。

 昔は成城六間通りまで敷地が広がっていたが、現在は南側の一部が道路で区切られ、サミットストアやヤマト運輸の敷地になっている。






【ウルトラマン】

 本館の建物では、ウルトラマン第28話「人間標本5・6」や第36話「射つな!アラシ」の屋上でのシーンが撮影された。

 『ウルトラQ』や『帰ってきたウルトラマン』、『ウルトラマンA』などでも使用されている。

 下記写真の右側に写っているのは、旧・吉岡モータース(現在は成城ホンダに名称変更)で、『ウルトラQ』の頃から劇場車などを借りていたという。




  ウルトラマン第18話「遊星から来た兄弟」で科特隊がザラブ星人と遭遇するシーンは、撮影所の北側にあったオープンセットで撮影が行われたという。

 1963年の東宝撮影所の航空写真を見ると、撮影所の北側にかなり広いオープンスペースがあったことがわかる。






【ウルトラセブン】
 ウルトラセブン第15話「ウルトラ警備隊西へ」(後編) の神戸港での格闘シーンは、No.1ステージで撮影された。

 また、第28話「700キロを突っ走れ!」の冒頭で、ダンとアンヌが映画を観ているシーンは、東宝撮影所の試写室での撮影だった。

 なお、この試写室で『ウルトラQ』のラッシュフィルムを観た当時のTBSのプロデューサーの栫井氏が、怪獣路線への変更を決断している。






【帰ってきたウルトラマン】

 『帰ってきたウルトラマン』は、久しぶりのウルトラシリーズということで、第1話のセットはNo.1ステージに組まれて撮影された。

 MAT本部の作戦室も同ステージに組まれていたが、2カ月ほどで東宝ビルトに引っ越したという。






【ウルトラマンA】

 『ウルトラマンA』第19話「河童屋敷の謎」では、春山夫婦の庭の池に北斗が飛び込むシーンが小プールでの撮影。

 デスカッパーの頭の皿のプールに飛び込んだ南が、北斗とウルトラタッチをするシーンは大プールで撮影が行われている。

 なお、小プールと大プールは現存していない。(小プールは最近まで仙川沿いから確認できたが、現在は駐車場になっている)




 
 なお、ウルトラマンAとウルトラマンタロウは特撮パートは東宝撮影所のNo.3、No.5ステージで撮影されている。(煽りカットは、美センのオープンで撮影)





【ウルトラマンレオ】

 ウルトラマンレオ第1話「セブンが死ぬ時!東京は沈没する!」では、東京の街が津波に襲われるシーンで、No.8、No.9ステージ周辺がロケ地として使用されている。

 No.8、9ステージは現存しているため、仙川沿いの遊歩道から外観を見ることができる。





 なお、No.1、No.2ステージは写真化学研究所時代の1932年竣工の歴史ある建物だったが、東宝スタジオ改造計画に伴い、2010年に解体されている。






【キヌタ・ラボラトリー】

 円谷英二は1937年に東宝撮影所に異動になり、森岩雄によって創設された特撮の技術部門「特殊技術課」の初代課長に就任した。

 ゴジラ壁画がある建屋付近に、ウルトラ作品などのタイトルバックでお馴染みの「キヌタラボラトリー」がかつて存在し、2階に特殊技術課の課長室があったという。   そのため、英二氏はよく裏門から東宝撮影所に入門していたとか。








【出典】「ウルトラマン商店街」「Mapio.net
    「ありがとう夢工房 円谷プロ砧社屋 ~ウルトラマンと共に歩んだ40年~
    「ありがとう東宝ビルト ~ウルトラマンと共に歩んだ40年~
    「@Nakaken_UPAL | Twitter」「@momk12 | Twitter
    「コバリョウの気ままブログ」「Analo-Blog
    「ウルトラマンを創った男―金城哲夫の生涯
    「特撮円谷組 ゴジラと、東宝特撮にかけた青春」「写真集 特技監督・円谷英二
    「ウルトラシリーズロケ地探訪」 「日本特撮技術大全
    「世田谷に花開いた映画・映像文化」 「ウルトラQの誕生
    「特撮黄金時代 円谷英二を継ぐもの」「ゴジラ 特撮メイキング大寫眞館」 

【ムー文明の痕跡】ハワイ周辺の海底に存在する巨石群

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 ハワイ周辺の海底に存在する巨石群

 臨死体験中に太古の地球の姿を見たという木内鶴彦氏によると、当時の地球は海が1/3ほどしかなく、ほとんどが陸地だったそうです。
 それを裏付けるように、ハワイ諸島周辺の海底には人工的に並べたとしか思えない列石が偏在しています。
 つまり、太平洋の真ん中に存在した文明が海底に沈んでいることになります。今日は、ノアの方舟がアララト山に漂着した日ということで、考察しますーー。





 3つの列石
 ハワイ諸島周辺の海底には、3つの列石が存在しています。

 1つ目は、約400kmの長さでカルナック列石と同じ方角に延びる列石。2つ目は、約27kmの長さで、夏至の日の入の方角と冬至の日の出の方角を結ぶラインに延びる列石。

 3つ目は、春分・秋分の日の出・日の入りを結ぶライン上に約270kmに渡って延びる列石です。






 列石①

 ハワイ諸島(モロカイ島)の北側、約250kmの地点

 ここから東側に、長さ300m前後の巨石と思われる楕円形の物体が確認できるだけで400kmに渡って直線状に連なっています。





 400kmというのは、直線距離で東京から大阪までというかなりの距離です。











 巨石の大きさは、ほとんどが300m前後のようです。





 巨石の方角は、「夏至」の日の出の方向より角度が浅い方角となっています。

 フランスのカルナック列石と巨石が並んでいる方角が同じであることから、何か関連性があるのかもしれません。





 列石②
 列石①から南に150kmほど下がった場所にも同様のものが見られます。







 物体の大きさは同程度ですが、距離が27km程度とかなり小規模です。







 なお、直線状に並んでいる巨石の方角は、ハワイ諸島付近の「冬至」の日の出の方角と一致しているようです。




 



 列石③
 カウアイ島の南にも同じような列石があるのを確認できます。こちらの巨石は、ほぼ東と西を結んだライン上に並んでいます。

 これは岐阜県にも同様のものがあるため、真東から昇って真西に沈む春分と秋分の太陽光を観測するために造られたものだと考えられます。

 











 列石は、流れ出た溶岩によって一部が埋もれているように見えます。火山の噴火によって滅亡したムー文明の痕跡なのかもしれません。

 溶岩の幅は約85kmもあり、相当な大災害だったことが推測されます。




 
 なお、ハワイ諸島周辺の海底には、太陽を模したと思われる放射状の列石も存在しています。

 【人類史を覆す大発見?⑤】ハワイ周辺の海底に太陽信仰の祭祀場跡 にまとめていますので、興味のある方はご覧下さいーー。






 編集後記
 太平洋の真ん中には、かつてムー大陸があり、高度な科学技術を持ったムー文明があったとされています。

 しかし、物的証拠から、ムー文明は太陽信仰を持った巨石文明だったといえます。    また、巨石のサイズが200mオーバーと巨大なので、そこに住んでいた人たちは巨人だった可能性が高いです。    つまり、ムー文明は、太陽信仰を持った巨人による超巨石文明だったといえます。
   さらに、放射状の列石が、地面に描いた太陽が天を照らしているように見えることから、ムーで暮らしていた人たちはアマテラス族の祖先なのかもしれません。


 



【彗星の爆発による大洪水で沈没?】

 太平洋の平均水深は、約4000mといわれています。

 つまり、巨石遺跡は海面から4000m下にあるわけですが、4000m級の地盤沈下が起こるとは考えずらいので、過去に人智を超えた大洪水があったのではないでしょうか。

 つまり、ムー文明は火山の噴火と大洪水によって滅亡したということです。

 ムー文明が滅亡したとされる1万2000年前に、直径約100kmの彗星が地球の大気中で爆発した証拠も見つかっています。

 彗星は、約8割が水(氷の状態)であるため、彗星の氷が一気に溶けたことで大洪水が発生して、海に沈んだのではないでしょうか。






【巨人文明】

 大きさ300mほどの物体は、重機を使っても移動させるのは不可能なので、必然的に巨人の関与が浮かび上がってきます。

 古代の地球は水の惑星ではなく、ほとんどが陸地だったため、惑星の質量は現在より軽く、植物も多かったため酸素濃度も高かったそうです。

 そのため、「重力は惑星の質量に比例する」「酸素濃度が高いと生物は巨大化する」という惑星科学、生物学の観点から、低重力・高酸素だった古代の人類は巨人だったといえるのです。

 巨石文明は海洋民族が世界に伝えたといわれていますが、その巨石文明は、海底に沈んで滅んだ古代(巨人)文明の遺産なのかもしれません――。





【出典】「Forbes JAPAN」「中日新聞 (2023年4月26日)

【暑中お見舞い】北極海の海底に眠る古代都市を発見!

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 海底に眠る古代都市の痕跡<北極海周辺>
 グーグルマップでは、地球上の海底の地形を確認することができます。

 かつて地球上で栄えた古代文明は、海面上昇や地殻変動によって陸地が沈没するなどして、滅亡を繰り返してきました。

 その歴史的事実を元に北極海周辺の海底の地形を調査したところ、海底に沈んだ古代都市の痕跡のようなものが見つかったので、紹介します――。






 北極海




 上の画像は、グーグルアースで北極の真上から見た北極海。本記事では、グーグルマップの北極海の画像を使って、4区画に分けて紹介します。

 なお、構造物の形をわかりやすくするために、コントラストや明るさを調整しています。






 北極海①  

 半島のように出っ張っている箇所の大陸棚では、グリーンランド周辺の海域と同様の形状をした構造物が見られます。

 構造物は真北の方角に揃っているように見えます。ただ、ボカシが凄いのではっきりとは見えません。



















 北極海の海底の形状も、東京湾の埋め立てられた海岸のようです。





 ちなみに、北の方角には、方位磁針が指す磁北と、北極星がある真北の2種類あります。

 北極海の海底にある構造物は全て真北の方角、つまり北極星と正対するように造られているように見え、北極星信仰があったことを伺わせます。



[出典:メガソフト株式会社]



 北極海②



 こちらの海域も、海岸線?が人口の埋め立て地のような形になっています。









 幅約6~7kmの道路跡 (列石にも見える) のようなものも見えます。Φの形をしているのはなんなんでしょう。。






 北極海③



 写真中央の構造物の高さを図ってみると、約4kmありました。城壁かなにかだったのでしょうか。

 城壁だった場合、凄まじい高さの壁がそびえ立っていたことになります。





 この海域にも、自然にできたとは思えない直線状の形をした構造物を確認することができます。

 1辺の長さが5kmほどで、スケールが現生人類ではなく、巨人に対するそれのように思われます。







 左下に複雑な形をした1辺が10kmほどの構造物が確認できます。(その部分まで綺麗にボカシが入っているのが逆に気になります)









 構造物の形状が、シュメール人が築いた都市国家ウルの建物に似てるような気もします。





 また、このエリアでも、幅約7kmの道路のような痕跡が見られます。







 拡大すると、巨石を2重に並べているようにも見えます。






 北極海④


 
 こちらの海域でも、海底に四角い形をした構造物が偏在しています。人工的な構造物と思われる箇所にだけボカシが入っているのが面白いです。













 編集後記
 北極海の海底にある構造物と、グリーンランド周辺の海域にある構造物の形が似ています。

 その事実は、海底が陸地だった時代があったことと、古代に北極海からグリーンランドにかけて統治していた巨大な国があったことを示唆しています。




 それを証明するかのように、2万年前に北極には「ミトラム大陸」という陸地があったともいわれています。

 しかし、構造物のスケールが巨大すぎるので、巨人の都市だった可能性も考えられます。

 旧約聖書に書かれている巨人・ネフィリムがノアの大洪水で絶滅したという記述を裏付ける物的証拠なのではないでしょうか。

 また、シベリアやアラスカ、グリーンランドの巨人伝説は、北極海が陸地だった頃に住んでいた巨人が移り住んだことによるものなのかもしれません。






 しかし、都市のような構造物が北極海を覆っている氷床の下に広がっていることは何を意味しているのでしょうか。

 過去に、北極に氷床が作られないほどの温暖な時代があったのか、それとも地軸の傾きによって温暖な地域から北極に移動したのか。謎はつきません。


 


【出典】「Google Map」「北極域の氷河と氷床」「Forbes Japan
 

『ビーチボーイズ』 伝説の全12話

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『ビーチボーイズ』 伝説の全12話


 反町隆史と竹野内豊のW主演で1997年7月7日から9月22日にかけて放送され、最高視聴率26.5%、平均視聴率23.7%を記録したドラマ。

 四半世紀以上も前のドラマですが、何故か夏になると無性に観たくなる不思議な中毒性があるので、毎年視聴してしまいます。

 今年も『ビーチボーズ』から27回目の夏を迎えたということで、紹介させて頂きます。(まずは第6話まで) 「夏はやっぱ、海だねぇ!!」



第1話 「夏、へんなヤツがやってきた、同時に2人も」


 東京でヒモ暮らしをしていた桜井広海は、恋人の富士子の家から追い出され、車中泊をしながら暮らしていたが、“夏”ということで海へ向かう。

 一方、大手商社に勤めていた鈴木海都は、自らのミスで大事なプロジェクトから外され、休暇を取って当てのない傷心旅行へと旅立った。

 その後、海都はひょんなことから、ガス欠の車を押していた広海を助けることになったが、坂道で車が暴走し、2人は海辺にある民宿「ダイヤモンドヘッド」に辿り着いたーー。






 第2話 「私、ここにいたい」


 真琴の母親の慶子から「東京で真琴と2人で暮らしたい」という手紙が届いたため、民宿の経営者で祖父の和泉勝は、真琴を母親の元に返すために民宿を閉めることにした。

 勝の娘である慶子は、民宿を出て上京。10年何ぶりに戻ってきたと思ったら離婚していて、真琴を置いてあっという間に帰って行ったという。

 しかし、経営苦で民宿を閉めると勘違いした広海は営業作戦を開始。そこへ海都の恋人の桜が訪れ、富士子も駆け付け、民宿は賑やかになるがーー。






 第3話 「彼が残した忘れ物」


 休みを終えて会社に戻った海都は、自身が手掛けていたプロジェクトに復帰し、周囲が驚くほど活き活きと仕事に取り組んでいた。

 一方その頃、海都が宿泊していた部屋を掃除していた真琴は、ベッドの下から海都が忘れていった「ある物」を発見する。

 ちょうどその頃、勝から東京の税理士へ書類を届けるお使いを頼まれた広海は、車で東京へ向けて走り出したがーー。






 第4話 「優しさのある場所」


 ある朝、洗濯係の真琴は、広海のズボンから母親の慶子の住所が書かれたメモを見つけて、不信感を募らせる。

 そんな中、海都の元上司の大崎部長が家族連れで民宿にやって来た。彼は、海都にこう言った。

 「部下が商社マン生活がこれからという時に、急に辞めると言い出す。聞けば、民宿で働くという。一流商社をスパッと辞めさせる所がどんな所なのか、見てみたくなった」






 第5話 「やってきた渚のライバル」


 夏本番にになり、民宿ダイヤモンドヘッドの前の潮騒海岸は海水浴客で賑わっていた。    広海と海都は、潮騒海岸に出店した屋台「渚2号店」の店員として缶ビールの箱を運んだり、焼きそばを作ったりと大忙し。    そんな中、泥酔状態で民宿に運び込まれてきた清水という男の放った言葉によって、広海の思いもよらない過去が明らかになり、町は大騒動となるーー。 





 第6話 「それは花火で始まった 」
 毎年恒例の「潮騒海岸納涼花火大会」が明日に迫り、広海や真琴はウキウキ。打ち上げ花火担当のタクシー運転手の蓑田や郵便配達員の殿村は、会場の下調べに勤しむ。    そんな中、口には出さないが浴衣に憧れている真琴のために、真琴に内緒で自分の浴衣を真琴用に繕い直すことにした春子。    しかし、花火大会当日は生憎の雨で花火大会は中止になってしまう。そんな中、真琴宛に母親の慶子から宅配便が届いたーー。





to be continued...



 編集後記
 今回、ブログ記事を作成するために久しぶりに『ビーチボーイズ』を見返しましたが、今まで感動しなかったシーンで感動している自分にびっくりしました。

 登場人物の言葉の重みや、背負っている物の大きさも感じることができるようになっていて、作品をより深く感じることができました。





 『ビーチボーイズ』を何度も観たくなるのは、色々な物を背負い、様々な想いを抱きながら生きる各々の人生がしっかり描かれているからだと思います。
 (シーンにマッチした劇伴の良さもありますが)

 千葉の海岸に実際に民宿を建てて撮影しているので、リアリティがあって作品に入り込みやすいのかもしれません。

 「夏のある国に生まれて、幸せだと思う。だって、夏には夏だけの時間の進み方があるような気がするから」という真琴の言葉に、深く頷きますーー。






【出典】「Wikipedia」「ゲオ宅配レンタル」「オリコンニュース
    「ビーチボーイズ DVD BOX」「ビーチボーイズ Blu-ray BOX

【GLAYの日】 GLAYジャンボ

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 GLAYジャンボ
 「20万人ライブ」のオフィシャルエアラインとなったJALが、函館ー羽田線就航10周年を記念して、GLAYをペイントした特別塗装機『GLAYジャンボ』を就航。

 当初は、札幌・函館と羽田間のみで8月までの運行でしたが、好評なため日本各地で就航するようになり、就航期間も9月まで延長されました。

 今日は、伝説の20万人ライブが開催された“GLAYの日”ということで、GLAYジャンボについて紹介させて頂きますーー。






 史上初の人物塗装
 1999年6月30日、GLAYジャンボの発表記者会見が羽田空港の格納庫で開催されました。

 人物の特別塗装機は史上初ということで、約500人もの報道陣が集まり、メンバーはGLAYジャンボを見た感想や20万人ライブへの意気込みを語りました。



[出典]「HAPPY SWING vol.14


 大勢の見物人
 当初は、7月1日~7月15日が羽田-札幌間、7月16日~8月31日が羽田ー函館間の予定でした。

 しかし、搭乗者数が好調なことや、他の空港でも就航してほしいという要望を受けて、日本各地の空港での就航も決定。期間も9月15日まで延長されました。

 各地の空港では、GLAYジャンボを一目見ようと、連日大勢の見物人が訪れました。







[出典] 離陸する GLAY JUMBO JA8170 (東京国際空港 1999年)


 特別編集映像
 乗客には紙コップやクリアファイル、ポストカードなどが配られ、機内ではGLAYのPVや特別編集された東京ドームライブの映像が上映されました。

 紙コップは薄い紫色で、GLAYのメンバーのシルエットが白抜きで印刷されていました。



[出典]  GLAY EXPO ’99 SURVIVAL LIVE IN MAKUHARI [VHS]
          
          



 編集後記
 GLAYジャンボには、一度だけ搭乗したことがあります。

 1999年7月31日に開催された20万人ライブに感動して、「GLAYが育った函館の空気を感じてみたい」と思い立ち、8月末に搭乗して来函。

 函館夜景の綺麗さに衝撃的感動を受け、やきとり弁当に舌鼓を打ち、TERUの叔母さんがママをしているスナックに行って、楽しいひと時を過ごしました。

 あの頃のGLAY人気は、社会現象化していて本当に凄かったですーー。



【出典】「HAPPY SWING vol.14
    「GLAY EXPO ’99 SURVIVAL LIVE IN MAKUHARI [VHS]

「民宿ダイヤモンドヘッド」

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 民宿ダイヤモンドヘッド
 反町隆史と竹野内豊のW主演で1997年7月7日から9月22日にかけて放送され、最高視聴率26.5%、平均視聴率23.7%を記録した『ビーチボーイズ』。

 房総半島の先端にある布良(めら)海岸に、実際に「民宿ダイヤモンドヘッド」の建物を建てて撮影が行われました。

 作品中の映像から、物語の舞台となった民宿の1階の間取りを考察してみます——。





 建物全体
 和泉勝が建てた民宿で、真琴の家でもあります。

 1階にダイニングルームやキッチン、洗面所、2階に真琴の部屋や従業員部屋、宿泊者用の部屋などがあります。
















 建物左側












 玄関














 玄関ホール
 玄関を入って正面に、2階に上がる階段があります。階段の裏側がキッチンになっていて、階段右側の廊下からキッチンに行くことができます。









 階段の右側は、作業部屋になっているようです。






 ダイニングルーム
 玄関ホールの左側がダイニングルームになっています。






 













 ダイニングルーム / 奥方向
 奥に小上がりがあって、机の上に無線機が置かれています。椿(?)のステンドグラスも見えます。














 ダイニングルーム / 海側








 ダイニングルーム / 砂浜側
 角にテレビが設置されており、壁には写真が飾られています。















 2階が吹き抜けになっていて、入口側の壁の左端に丸い窓が開いているのを確認できます。










 キッチン






 第1話の映像から、ダイニングルームの奥にキッチンがあることがわかります。











 左側の出入り口から、玄関ホールにある消火器の赤いプレートが見えるので、階段の右側からもキッチンに行ける構造になっていることがわかります。





 物置






 編集後記  千葉県には、ビーチボーイズファンが、ドラマで使われた設計図に基づいて建てた民宿ダイヤモンドヘッドがあり、喫茶店として営業しています。

 『ビーチボーイズ』の放送開始から20周年を迎えた2017年7月7日には、マイク眞木さんによる20周年記念ライブが開催されたそうです。

 反町隆史も令和元年に初訪問。最近も訪れており、「よく作ったね~」と驚いていたとか 笑





 民宿ダイヤモンドヘッドがあった布良浜では、撮影時は見物客が押し寄せ、中には、大阪からスクーターを走らせてきた強者もいました。

 彼は高3で夏休みを利用して来ており、撮影場所はわからなかったが「海岸線を走っていればいつか着くだろう」という楽観的な思いだったとか。

 そして、現場にいた美術スタッフに「何でもやるからしばらく置いてもらえないか」とお願いし、夏休み期間だけの特別スタッフに任命されたという。

 民宿ダイヤモンドヘッドには、スタッフたちのドラマもあったのです—―。
 





【出典】「Wikipedia」「FOD (第3話まで無料配信中)
    「ゲオ宅配レンタル」「オリコンニュース
    「ビーチボーイズ DVD BOX」「ビーチボーイズ Blu-ray BOX」    「ビーチボーイズ作品メモリアルアルバム


尾崎豊“伝説のダイブ”から40年

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 尾崎豊 “伝説のダイブ”

 
 日比谷野外音楽堂で1984年8月4日に初開催された反核・脱原発フェス「アトミックカフェ・ミュージック・フェス '84」。

 このコンサートで、まだ新人アーチストだった尾崎が、のちに伝説となる衝撃的なパフォーマンスを披露しました。

 “伝説のダイブ”から今日で40年目ということで、紹介しますーー。





 
 照明イントレからダイブ


 まだ無名の新人アーチストだった尾崎は、ギターを抱えて朝霞の自宅から電車で会場入り。
 
 6番目に出演した彼は、タバコを吸いながらステージに登場した。彼に与えられていた持ち時間は17時から約30分間。

 尾崎は、ピアノの前に座って歌い始めた。1曲目の『反核』は、のちの『核 (CORE) 』の原曲。




 
 そして、2曲目の『Scrambling Rock'n' Roll』の曲中に、のちに伝説になる事件が起きた。
  
 演奏中に、 高さ7mの照明イントレによじ登り、そこからコンクリートのステージに飛び降りて、左足の踵を骨折してしまったのだ。

 一旦ステージ裏にはけ、救急車が呼ばれたが、尾崎は救急車を待機させてステージを続行。


      


 最初は片足を浮かせながら歌っていたが、次第にスタッフに抱えられて歌うようになり、最後はステージに這いつくばって激痛に耐えながら予定曲を歌い切った。





 
 全治3カ月の重傷


 その後、本人の希望もあり、出自した自衛隊中央病院に搬送され、右蹠(あしうら)捻挫・左踵(かかと)骨圧迫骨折で全治3カ月と診断される。

 左踵の骨が一部陥没しており、整復手術のため2週間入院することになり、翌日の吉川晃司とのジョイントライブも含めて、以降のスケジュールは全て白紙となった。
  
 退院後は松葉杖での生活が続き、ギブスが取れたのは11月下旬、ボルトを抜いたのは翌年2月だったという――。
 
 
 <SET LIST>
 
  1. 反核
  2. Scrambling Rock' n' Roll
  3. 十七歳の地図
  4. 愛の消えた街






【出典】「OZAKI50」「尾崎豊 十代の真実」「Freeze Moon
 

「知覧特攻平和会館」

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 知覧特攻平和会館


 神風特別攻撃隊の遺品や遺書、関係資料が展示されている「知覧特攻平和会館」。

 1975年4月に鹿児島県南九州市知覧町郡に「知覧特攻遺品館」として開館し、45年経った2020年に、入館者数が2000万人を突破しました。

 戦争の悲惨さ、平和の尊さを再認識するために、自らの命を犠牲にして祖国を守った特攻隊員の生きた証を紹介させて頂きます——。



オンラインミュージアムでデジタルアーカイブも見れます



 生き永らえた意味と使命


 館内には、元特攻隊員で初代館長の板津忠正氏が集めた特攻隊員の写真、遺書などの遺品約4500点、遺影1036柱などが展示されています。

 板津氏は、1945年5月に陸軍特攻第213振武隊として特攻出撃しましたが、エンジントラブルにより徳之島海岸に不時着し、知覧に帰還。

 その後、2回出撃しましたが、2回とも土砂降りの雨により中止となりました。





 4回目の出撃は8月15日の予定でしたが終戦となり、とうとう出撃することなく生き永らえることになりました。

 板津氏は「自分の命が永らえたのは、自分にしかできない何かがあるからだ」との強い思いを抱き、特攻隊員の遺族や親類を捜し出して、名簿の確認や資料収集を始めます。

 これが、知覧特攻平和会館設立へと繋がることになったのです——。






 特攻隊員の生きた証


【各隊別の写真】



【遺影】



【特攻基地への前進】



【出撃前のひととき】 



【出撃前のひととき】



【絶筆/最期の便り】



【第52振武隊】 



【出撃20分前の腹ごしらえ】



【別れの盃】



【第1特別振武隊(飛行第101戦隊)発進】



【遺品】



    【覚書】
     


【遺書】



【遺書】
        


【絶筆】
       


【絶筆】



【遺書】


   
     
【遺書】
    

【絶筆/遺書】
      


     【絶筆】
      


     【絶筆】
      


     【絶筆】
       
   
        
    【出撃予定時刻の2時間前に撮られた特攻隊員の写真】
        


【遺筆】



【ゼロ戦】



【不時着して大破したゼロ戦】
      

     


【三角兵舎】





 特攻隊員が寝起きしていた半地下式の宿舎を復元したもので、ここで家族への遺書や手紙、絶筆を書いたりしていました。





     【特攻勇士の像「とこしえに」】
     






・知覧特攻平和会館
 鹿児島県南九州市知覧町郡17881 
 ※バス停「特攻観音入口」下車徒歩5分




 編集後期


 来館前は、軍の洗脳で自己喪失に陥った人たちによる日本を過剰に崇拝する内容の遺書ばかりだと思っていましたが、個性的で人間味溢れるものがたくさんあって驚きでした。

 使命感に溢れたもの、ユーモアのあるもの、弱気なもの、家族への感謝を表したものなど、死を義務付けられた若者の諦観や決意が文面から滲み出ていて、胸に迫るものがありました。

 それと同時にすごい親近感が沸き、まるで自分の友達が書いた遺書を見ているような気分にもなりました。

 なので「散歩に行く様な、遠足に行く様な気分なり。皆元気で、あと3、4時間で死ぬとは思えない」という死への実感のない無邪気な遺書に、戦争の無情さを痛感。



        



 特攻隊のほとんどが学生で、わずか1年ほどの訓練で出撃を命じられ、4000人余りの未来ある若者たちが海に散っていきました。

 特攻隊員は、知覧の飛行場を飛び立った後、左手に見える開聞岳を日本の象徴・富士山に見立てて「祖国への別れ」の意味を込めて、山が見えなくなるまで敬礼していたそうです。



           



 なお、館内は撮影禁止ですが、市街地から路線バスで1時間半もかかる山奥にあって来館できない人がたくさんいると思い、「雰囲気だけでも伝えられたら」とあえて紹介させて頂きました。

 ただ、ここに載せたものは館内の展示物のほんの一部で、目の前に立って肉眼で見ることでしか感じられないものがたくさんあります。

 皆さんの周りにいるような普通の少年達が、日本という祖国を守るために自分の命と未来への可能性を犠牲にして死んでいったという歴史的事実。

 そして、愛する人たちを遺して若くして死ななければならなかった彼らの無念さと生きた証を受け止めに、ぜひ一度足を運んでみて下さい――。
 






【出典】「知覧特攻平和記念館」「Wikipedia」「photoAC

【戦後79年】千鳥ヶ淵戦没者墓苑

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 千鳥ケ淵戦没者墓苑


 1959(昭和34)年3月に国によって建設され、第二次世界大戦の戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡せなかった遺骨を安置している墓苑。

 戦後79年を迎えたということで、千鳥ヶ淵戦没者墓苑について簡単に紹介させて頂きます――。






 無名戦士の墓


 太平洋戦争では広範な地域で戦闘が展開され、海外地域の戦場において多くの日本人兵士や一般市民が亡くなりました。

 その数は、軍人・軍属で約210万人、戦火に巻き込まれて死亡した一般邦人が約30万人で、合わせて約240万人といわれています。





 戦後、政府と民間団体が海外で収集した引き取り手のない遺骨は厚生省が保管していましたが、無名の遺骨は増え続け、収納施設が必要となりました。

 靖国神社側は、同神社と無関係の納骨施設ができると神社の衰退に繋がると反対しましたが、1959年3月に無宗教の墓苑が建設される運びとなりました。





 ご遺骨は、六角堂の中央に置かれた胸棺の下の地下納骨室および、1991年3月及び、2000年3月に増設された六角堂正面の地下納骨室に安置されています。

 胸棺は、海外の6個戦域から持ち寄った砂・砂利を1700度の高熱で焼き上げた重さ5トンの世界最大級の胸棺。

 その中に、昭和天皇から下賜された金銅製の納骨壺が収められています。





 2024年5月27日に硫黄島、マリアナ諸島、ロシア等において収容した戦没者のご遺骨のうち、ご遺族に引き渡すことのできない301柱が新たに納骨されました。

 これにより、墓苑に奉安されているご遺骨の累計は370,700柱となりました。





 天皇の歌碑


 墓苑内には、左手に昭和天皇、右手に平成天皇が詠まれた歌が刻まれた歌碑が建立されています。


【昭和天皇御製の碑】

 くにのため いのちささげしひとびとの
 ことをおもえば むねせまりくる






【平成天皇御製の碑】

 戦なき世を歩みきて 思い出つ
 かの難き日を 生きし人々






 パネル展示


 墓苑入口の左右には、昭和天皇を始めとした歴代天皇が来苑した時の写真や、遺骨収集の様子などを紹介したパネルが展示されています。



             





【天皇陛下・皇族殿下のご来苑】




【遺骨収集】

 現地情勢を加味しつつ遺骨収集の取り組みが進められていて、今年度もマリアナ諸島やインドネシア等での現地調査や遺骨収集が実施されています。










 戦後強制抑留・引揚死没者慰霊碑


 旧ソ連による戦後強制抑留、終戦直後の混乱した状況下における外地からの引揚げによって、命を落とした人々を追悼する慰霊碑。




 
 太平洋戦争終結後の悲劇の歴史を後世に継承することにより、永遠の平和を祈念しています。

 



 慰霊碑は、六角堂の入り口手前にある手水鉢を左折したその先にあります。場所を事前に知っていないと見落としてしまうので注意。







【平和記念碑】

 終戦後、外地から祖国に引揚げてきた人々は約320万人にも及びました。

 しかし、終戦の混乱による心労と疲労困憊の極限状態にあった20万人あまりの人々が引揚げの途中で命を落としました。





 これら引揚者の過酷な体験を記憶し、後世に伝えるとともに、犠牲となった人々への哀悼の意と恒久の平和を祈念して建立されました。





【追悼慰霊碑】

 旧ソ連は終戦後、約57万5千人もの軍人軍属および民間の日本人をシベリアや中央アジアなどに強制抑留し、鉄道建設や森林伐採などの過酷な重労働に従事させました。

 1日の配給がパン1個とスープ1皿のみという食生活で栄養失調に陥り、マイナス50度にもなる極寒で劣悪な環境下で疲弊し、約5万5千人が命を落としました。





 この悲惨な事実を風化させずに後世に伝えるとともに、犠牲となった人々への哀悼の意と恒久の平和を祈念して建立されました。





東京都千代田区三番町2
 ※半蔵門線「九段下駅」2番出口より徒歩9分




 編集後記


 この墓苑には、35万人もの名も無き戦没者の遺骨が納められています。

 しかし、靖国神社のすぐ近くにあるにも関わらず、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れる人の数はまばらで、閑散としています。

 愛する人たちを祖国に残したまま、見ず知らずの場所で人知れず命を落とすのはさぞ無念だったことでしょう。

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会の入会のご案内にはこう書かれています。

 「平和日本の礎となった戦没者への鎮魂、敬意、感謝を示すことは、国民の大切な務めです」

 なぜなら、現在の平和な世の中は、祖国のために命がけで戦った戦没者の屍の上に成り立っているからです――。


【出典】「国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑」「昭和天皇御製の碑」「平成天皇御製の碑

【戦後79年】 しょうけい館 / 戦傷病者資料館

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 しょうけい館 / 戦傷病者資料館

 
 2006年3月に開館した東京・九段下にある入館無料の国立の戦傷病者史料館
 
 銃弾を受けた眼鏡や長靴などの展示や、写真・イラストを通じて、戦場で受傷した兵隊や戦傷病者が体験した様々な労苦を紹介しています。

 周辺の再開発計画に伴い、2023年10月に移転してリニューアルオープンしました。






 しょうけい館 館内案内

 
 2階と3階がしょうけい館のフロアで、2階が受付になっていて、企画展も開催されています。

 3階にある常設展フロアは、受付でもらうQRコードが印刷された紙をゲートの読み取り機にかざして入室する形になっています。








【2階】 企画展示室 / シアター / 図書室


 2階では、戦傷病者とその家族の様々な労苦を伝える企画展示が行なわれています。

 




 戦傷病者の体験を伝えるシアターもあり、図書室では、戦傷病者の体験記や従軍体験者の回想記などの本を読むことができます。






【3階】 常設展

  
 3階では、徴兵から入営、出征、戦地での様子や、受傷者の証言、戦傷病者とその家族の労苦などが紹介されています。

 展示スペースが増えて、戦場で受傷した時の様子を説明する液晶画面も複数設置されていて、かなり見やすくなっています。

 - イントロダクション:一人の若き兵士の紹介
 - 戦地へ向けて:徴兵 / 入営 / 出征 / 戦地での生活
 - 搬送、戦時下の療養生活:搬送 / 病院戦 / 戦時下の療養生活 / 退職後の社会復帰
 - 家族とともに:生活の困窮 / 傷病とともに生きる





 戦場で銃弾を受けた眼鏡や軍帽、長靴、体内から摘出した銃弾、戦傷病者が使用していた義手や義足などの展示もあります。






【野戦病院のジオラマ】

 洞窟内に作られた野戦病院で麻酔なしで手術を受けている兵士や、受傷や伝染病に苦しむ兵士の等身大のジオラマも設置されています。





 ・東京都千代田区九段北1-11-5 グリーンオーク九段 2階 / 3階 
  東京メトロ半蔵門線「九段下駅」より徒歩9分



 編集後記


 しょうけい館は、戦争の怖さ、悲惨さ、絶望感を実感できる場所です。

 企画展で展示されている戦場で機銃掃射を受けたり、爆風に巻き込まれながら生き残った人の体験記は衝撃的すぎて、ちょっと気分が悪くなるくらいです。

 常設展で紹介されているシベリア抑留で足を凍傷で失った人の体験記も壮絶すぎて、救いのない絶望的な出来事に絶句します。

 なにより、野戦病院のジオラマがリアリティがありすぎて、トラウマになりそうなくらい兵士の絶望感が伝わってきます。

 しかし、戦争の怖さ、悲惨さ、絶望感を実感することで初めて平和の尊さ、有難さを実感することができます。

 入館無料なので、靖国神社参拝のついでに来館してみてはいかがでしょうか――。



【出典】「しょうけい館 / 戦傷病者資料館

【戦後79年】 戦中・戦後のくらし「昭和館」

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 戦中・戦後のくらし「昭和館」


 東京・九段下にある戦中、戦後の生活を中心とした資料を展示している国立の博物館。7・6階の常設展以外は入場無料。

 1999年3月27日に開館し、今年で開館25周年を迎えた昭和館には、延べ約3000人の方々から寄贈された6万点の資料が収蔵されています。

 




 7階・6階 / 常設展示室


 7階と6階は常設展示室になっており、日本国民が経験した戦前・戦中・戦後の生活上の労苦を次世代に伝えるための実物展示を行っています。

 受付は7階で、常設展の入場料は、大人400円、高校・大学生200円、小・中学生は無料。





 7階は、戦争が激しくなる少し前の1935年から1945年8月15日までの戦中の暮らしの紹介。







 6階では、1945年の終戦から1955年頃までの復興に向けた暮らしの移り変わりを伝える資料を紹介しています。






 5階 / 映像・音響室


 映像・音響室では、戦中・戦後の人々の暮らしを主とした記録写真や映像、音声など、様々な資料をタッチパネルから呼び出して視聴できます。






 4階 / 図書室


 図書室では、戦中・戦後の国民生活を中心とした文献・資料を自由に閲覧できます。






 3階 / 特別企画展会場


 毎年夏に、3階の特別企画展会場で入場無料の企画展が開催されています。

 今年は「慰問 ~銃後からのおくりもの~」と題して、戦地へ送られた手紙や物品、慰問団の活動など、戦中の慰問についての実物展示による紹介。

 展示されている資料の一部はこちら


   


 2階


 昭和館の2階にある広場において、戦後75年特別企画写真展「写真家たちが見つめた戦前・戦中」が開催中。

 日本写真家協会が撮影した戦前・戦中の報道写真の中から、40点が展示されています。
 

    




・昭和館
 東京都千代田区九段南1丁目6−1
 ※地下鉄「九段下駅」4番出口より徒歩0分

 



 編集後期


 「慰問~銃後からのおくりもの~」は、全て当時モノの実物が展示されているので、戦時中の生活感や時代の空気を感じることができます。

 『あの花が咲く丘で、また君と出会えたら。』の千代ちゃんが作った人形を彷彿とさせる慰問人形の展示もあり、アマプラで観たばかりだったのでタイムリーでした。

 『あの花』と同じく戦地の兵士へのプレゼント用に自分をかたどって作られたもので、あのエピソードはこの慰問人形が元になっているのかもしれません。





 戦地の兵士と市民の間に交流があったことも初めて知って、ちょっと目からウロコでした。

 「写真家たちが見つめた戦前・戦中」で、金属供出令によって市民から集めた自転車が山積みになっている写真も結構衝撃でした。

 「国家総動員法」や「国民精神総動員運動」、「国民徴用令」など、過度に抑圧された全体主義によって、生活や人生を国に支配され、自由を奪われた時代がありました。
 
 再びそのような軍事的全体主義の時代に逆戻りしないように、日頃から反戦意識を醸成し続けることが大切なのかもしれません――。



【出典】「昭和館
 

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