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街路樹 / 尾崎豊

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●街路樹
※1988年9月1日リリース
 
 尾崎豊の4枚目のオリジナル・アルバム。
 
 制作の遅れ、ツアー中断、逮捕などによる度重なる発売延期によって、十代最後のアルバム「壊れた扉から」から約3年の月日が流れていた。
  
 
●曲作り難航
 
 当初は1987年4月リリース予定だったが、所属事務所が設立したレコード会社への移籍により須藤氏と離別したことで曲作りに難航。
 
 「レコーディングがどうしてもうまくいかない...」と一度、レコーディングをしていた須藤氏を訪ねてきたこともあったという。
  
 「あるところまでは来るんだけど、それ以上進まないというか、どうしていいかわからなくなる」
 




 須藤氏に十曲近いデモ段階の曲を聞かせながら、一曲が終わるごとに「どうでしょうか?」と彼の顔を真剣に覗き込む尾崎。
 
 しかし、レコード会社がCBSソニーからマザー&チルドレンに移籍になった尾崎には契約上、助言をすることができない。
 
 「やっぱり、須藤さんと一緒にやりたいんです。お願いします。どうかまた一緒にできるようにしてくれませんか?」
 
 そう懇願した時の尾崎のすがるような眼が、須藤氏の胸の奥深くまで刺したという。
  
 
●無期限延期
 
 その後、アルバムがリリースされないまま1987年7月1日から「TREES LINING A STREET TOUR」が始まる。
 
 しかし、9月28日の新潟県民会館の開演前の楽屋で倒れているところを発見されてツアー中断、そして入院。
 
 さらには覚醒剤取締法違反による逮捕もあり、アルバムリリースは一時、無期延期となる。
 




 その後、1988年6月21日に「太陽の破片」をリリース。翌日には、初めてテレビの歌番組「夜のヒットスタジオDELUXE」に生出演した。
 
 こうした数多くの紆余曲折を経て、アルバムが完成したのは1988年7月のことだった――。
 
  
 <収録曲>
 
  1. 核(CORE)
  2. ・ISM
  3. LIFE
  4. 時
  5. COLD WIND
  6. 紙切れとバイブル
  7. 遠い空
  8. 理由
  9. 街路樹
  



   
【記事引用】「再会 ―封印を解かれた10万字」 「尾崎豊 覚え書き」 「Wikipedia
 
 

江戸幕府 最後の闘い

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●江戸幕府 最後の闘い
※2018年3月31日~5月6日開催

 今年は、明治維新150周年という節目の年ということで、国立公文書館に所蔵されている幕末関連の展示が行われました。

 入場無料、写真撮影自由だったので、撮影写真を紹介します――。


●江戸幕府の公式書類

 本展示では、近代日本へと繋がる幕末期の江戸幕府に焦点を当て、当館所蔵の幕末の江戸幕府公文を中心に紹介。

 黒船来航や大政奉還に関連する江戸幕府の公式書類が時系列で展示されました。






















●編集後記

 徳川慶喜・直筆の「大政奉還」を告げる公文書の実物は震えました。。

 黒船来航の様子を伝える幕臣の記録書を間近で見ると当時の時代の空気を感じられて、ちょっとしたタイムスリップ感覚が味わえました。

 税金が投入されているとはいえ、歴史の転換点となった国宝級の書物を無料で見れて写真まで撮れるというのは凄いことです。

 「平成の書」の実物展示もあり、平成の書を模したクリアファイルも売っているので、機会があれば足を運んでみるのもいいかも。
 




【記事引用】 「国立公文書館
 
 

戊辰戦争 菊と葵の500日

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●戊辰戦争 菊と葵の500日
※2018年5月26日~6月30日開催
 
 「戊辰戦争150年」を記念して、国立公文書館で開催された展示会。

 王政復古によって誕生した新政府軍と、旧幕府軍との間で500日以上にわたり各地で展開された闘いの関連資料が展示されました。


●幕末クライマックス

 戊辰戦争は、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いに始まり、翌年5月の五稜郭の戦いが終結するまでの一連の戦いをいいます。

 今回の展示では、鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、上野戦争、会津戦争、五稜郭の戦いなど8つの戦いの関連資料を紹介。
























     

























     

















●編集後記

 幕末ファンにとって、個性溢れる登場人物がステージから去った大政奉還後は「DRAGON BALL」や「SLAM DUNK」の連載が終わった少年ジャンプ状態。

 戊辰戦争については京都を皮切りに各地で戦争が起きて、函館で終戦したという認識しかなかったけど、改めて学んでみると結構奥深い。

 時勢に乗って快進撃を続ける新政府軍と、滅びの美学を漂わせながら敗走する旧幕府軍の闘いがなんとも切ない。

 「明治維新150年スペシャル 決戦!鳥羽伏見の戦い~日本の未来を決めた7日間~」もおススメ!



【記事/画像引用】 「国立公文書館
 
 

品川区指定史跡「伊藤博文墓所」

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●伊藤博文墓所
※2018年11月4日(金)~6日(日) 一般公開

 品川区西大井にある日本の初代内閣総理大臣・伊藤博文のお墓。

 品川区指定文化財で伊藤家の専用墓所でもあるため通常は非公開ですが、11月の文化財ウィークに数日限定で一般公開されます。

 
●初代内閣総理大臣

 伊藤博文は、幕末から明治時代にかけて活躍した政治家。





 吉田松陰に師事して高杉晋作と行動を伴にし、尊王攘夷運動に身を投じたが、イギリス留学ののちに開国論者に転じる。





 明治維新後、政府の要職を務め、1882(明治15)年にはヨーロッパに渡って、憲法や政治制度などの調査を行った。





 その成果をもとに大日本帝国憲法の制定や内閣制度の採用など、近代日本の政治制度の基礎を築き、1885(明治18)には初代内閣総理大臣となった。

 



 1905(明治38)年から5年間韓国統監を務めたあと、1909(明治42)年10月に中国のハルピンで朝鮮の独立運動家によって暗殺され、69歳で没した。

 



 伊藤博文の別邸が品川区大井3丁目18番地付近にあったことから、国葬ののちに品川区西大井にあるこの墓所に埋葬された。





 高さ約2mの円墳の前に配した神式の墓所で、右隣のやや小型のものは梅子夫人の墓。






●編集後記

 幕末の頃は高杉晋作の子分という小人物的な印象だった伊藤博文の明治維新後の栄達ぶりには、目を見張るものがあります。

 農民という最底辺の身分から日本の初代内閣総理大臣にまで登り詰めるという半端ない立身出世を果たした伊藤博文にあやかりたい方は、ぜひ足をお運び下さい――。


【記事引用】 「伊藤博文公墓所

月刊カドカワ / 1990年7月号

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●月刊カドカワ/1990年7月号
※1990年7月1日発行
 
 当時、月刊カドカワの編集長だった見城徹氏は、1980年代末のある日、新宿のヒルトンホテルのジムで尾崎豊と偶然再会した。
  
 最後に会ったのは渡米前だったが、彼はその頃の面影もないほどに落魄していた。
 
 
●復活したい
 
 所属のレコード会社も芸能事務所も金も無くしていた尾崎は、久し振りに会った見城氏に向かってこう呟いた。
  
 「見城さん、どうしても僕は復活したい」
 
 その頃、見城氏は編集長という立場になったことで、編集者としても人間としても堕落しており、そんな自分に嫌気が差していた。
 
 そんなこともあり、尾崎のその言葉に「尾崎の復活に自分の編集者としての復活を賭けてみよう」と一念発起。
 
 専属トレーナーになって彼をサポートし、人や金を集めて彼の個人事務所「アイソトープ」まで設立した。
 
 雑誌の編集長の範疇を超えており、会社にバレたらクビだった。
 
 
●巻頭での大特集
 
 さらに、月刊カドカワの1990年7月号で、巻頭70ページぶち抜きの尾崎豊大特集を組んだ。
 
 当時、月刊カドカワの総力特集に選ばれるのは、松任谷由美や佐野元春、米米CLUBなど現役バリバリのトップアーチストばかり。
 
 そのため、薬物事件で社会的制裁を受け、音楽活動も休止していた尾崎豊の大特集を組むことに、角川書店のあらゆる人間が大反対した。
 
 しかし、見城氏はその反対を押し切り、強引に雑誌を発売した。全ての責任を引き受け、尾崎の復活に賭けたのだ。
 
 もし、70ページもの大特集をやって売れなければ、とんだ赤っ恥を掻き、責任問題になる。尾崎豊を再デビューさせるという途方もない企ても、全て水泡に帰する。
 
  
●九万部完売
  
 しかし、この特集号は雑誌に羽が生えたかの如く飛ぶように売れた。
 
 九万部刷ってほぼ完売し、返品率はキズモノとして返ってくる3~4%ほどだった。それは、見城氏が月刊カドカワの編集長をやっていた7年半で最も低い返品率だったという。
 
 突如世間から消えた尾崎豊の言葉を、読者は渇望していたのだ――。
 

 
【記事引用】 「たった一人の熱狂」「編集者という病い
 
 

ダイヤモンドダスト in KAWAYU

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●ダイヤモンドダスト in KAWAYU
※2019年1月25日(金) ~ 2月28日(木) 開催

 毎年2月に弟子屈で開催されているイベント。川湯温泉の特殊な自然環境とワックスキャンドルが幻想的な美を創出。

 レインボー・ダイヤモンドダストなど、様々な催しも開催されています。






●森の中に灯る小さな灯り

 川湯温泉の大きな自然の中、森の中にそっと小さな灯りが灯る。

 数は少ないけれど、一つひとつは小さいけれど、毎晩、人の手で150個の蝋燭に灯りを灯す。一人ひとりの思いが蝋燭の炎のゆらめき、形となって現れます――。
























photo by seiji nakamura



●編集後記

 釧路在住時の30年前位は、川湯はいつも賑わっている印象があったけど、今は周辺地域の人口減少もあって寂れつつあるということです。。

 ブログでイベントを紹介することで、少しでも人手が戻ってくれると幸いです。





 「ダイヤモンドダスト」という言葉を聞いたことはあっても、実際に肉眼で見たことがある人は少ないはず。

 現地でダイヤモンドダスト体験をするのもいいかもしれません――。






【画像引用】「中村誠司」「釧路愛好会~くしろよろしく~
【記事引用】「ダイヤモンドダスト in KAWAYU 2018」「ダイヤモンドダスト実行委員会

 

小樽雪あかりの路

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●小樽雪あかりの路
※2019年2月8日~17日開催

 今年で21回目を迎える「小樽雪あかりの路」が、今年も2019年2月8日(金)~17日(日)に渡って小樽市内の各会場で開催されます。

 毎年50万人近くの観光客が訪れる小樽の冬の風物詩を紹介します――。
 
 
●運河会場

【浮き玉キャンドル】

 小樽雪あかりの路のシンボルでもあり、運河の水面で揺らぐ浮き玉のキャンドルの灯りが、ノスタルジックな雰囲気を演出します。







【おもてなしロード】

 約300基ものスノーキャンドルが、運河沿いの散策路を優しく照らします。




















●手宮線会場

 北海道で最初に開通した幌内鉄道の廃線跡地。

 細く長く続く雪道をスノーキャンドル、ワックスボックス、 雪のオブジェなどの灯火がより一層、幻想的な効果を演出。

 木の枝にワックスボックスが設置されていて、雪あかりが空中に点在しているように見える「天使の迷い道」が見所。
























●朝里川温泉会場

 朝里川のほとりや、川の中にキャンドルの灯りがともる幻想的な風景で、運河会場や手宮線会場とはひと足違った雰囲気を楽しめます。














●天狗山会場

 雪原に佇む天狗桜がライトアップされています。

 山頂からは小樽の夜景も楽しめますが、交通の便が悪いこともあって人がほとんどいないので穴場かもしれません。








●サンモール会場

 商店街の通路の真ん中にロウソクが灯されたワックスボックスが一直線に並んでいます。






●編集後記

 「さっぽろ雪まつり」というメインディッシュを食べた後は、「小樽雪あかりの路」というデザートをどうぞ。

 運河会場では、散策路に灯るガス灯やライトアップされた倉庫群に浮き玉キャンドル、おもてなしロードの雪あかりがコラボレーション。

 あまりの絵画的美しさに、『メトロポリタン美術館』の「大好きな絵の中にとじこめられた」という歌詞のごとく、絵画の中に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥ります。

 手宮線会場でスノーキャンドル、ワックスボックス、 雪のオブジェなどの賑やかな雪灯りを楽しんだ後は、朝里川会場で川辺に浮かぶ静かな雪灯りで心を静めましょう。

 寒いからと言って家の中に閉じ籠るのではなく、冬にしか味わえない景色を楽しむのもいいかもしれません――。



【記事引用】「小樽雪あかりの路

藤子不二雄A展 -Aの変コレクション-

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●藤子不二雄A展 -Aの変コレクション-
※2018年10月19日~2019年1月6日開催

 六本木ヒルズ森タワー52階で開催された藤子不二雄A氏の作品展。

 館内の展示物はすべて写真撮影自由だったので、今回の作品展に来れなかった人のために館内の様子を紹介します――。



●エントランス

 等身大の藤子不二雄A氏の蝋人形や、「笑ゥせぇるすまん」に出てくるBAR魔の巣の展示。藤子不二雄A氏の似顔絵は、嵐の大野智氏の作品。












      



●トキワ荘

 上京後に藤子不二雄氏が住んでいたトキワ荘の一室を再現。

 当時のトキワ荘の写真や、自伝作品「まんが道」「愛・・・しりそめし頃に…」の原画、取り壊されたトキワ荘の室内の壁の展示も。




      

















      

































●ポップゾーン

 「怪物くん」「プロゴルファー猿」「忍者ハットリくん」の展示コーナー。原画の展示がメインで、ファミコン「忍者ハットリくん」のプレイも可能。


      

      















      







      



      



      







●ブラックユーモアゾーン

 藤子不二雄A氏の作品のうち、ブラックユーモア・ダークファンタジー系の作品の原画紹介。実体験を元にした「BJブルース」の上映も。


      



      

      

      

      

      

      

      

      







      





●笑ゥせぇるすまんゾーン

 日本の漫画界にブラックユーモアという新しいジャンルを切り拓いた「笑ゥせぇるすまん」の原画展示と体感展示のコーナー。


      









      

      



●Aの変コレクション

 作品のグッズ、ポスターや参考文献、スケッチ、造形家・竹内隆之氏によるシルバークロスの衣装、影絵作家・里美氏による作品の展示。


      







      

      

      









      























      













































●編集後記

 藤子不二雄A氏は、曹洞宗49代目住職の息子として富山県氷見市の光禅寺に誕生。

 本来であれば、お寺の住職としての道を歩むはずでしたが、小5の時に父親が亡くなり、高岡市に引っ越したことが彼の運命を大きく変えました。

 転校先の小学校で、のちに藤子不二雄として漫画を共作することになる藤本弘氏と出会うことになったのです。

 それ以来、共同ペンネーム「足塚不二雄」(のちの藤子不二雄)として漫画を描き始め、その後上京してプロの漫画家として数々の名作を生み出すことになります。

 いわば、彼の父親が亡くならなければ藤子不二雄A氏はお寺の住職として生涯を終えていたわけで、数々の名作も誕生することはなかったといえます。

 VTRで、藤子不二雄A氏は「運命が僕を漫画家にしてくれた」と語っていました。

 彼の言う通り、戦後の日本の漫画文化の発展のために人智を超えた何かしらの大きな力が働いたとかいいようのないような気がしてなりません――。

 

【記事参照】 「藤子不二雄A展 -Aの変コレクション-


「まんが道」

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●まんが道(みち)
※1970年~1991年連載

 藤子不二雄Aによる自伝的漫画作品。

 満賀道雄(安孫子素雄)と才野茂(藤本弘)の二人の少年が出会い、漫画家という夢に向かって共に成長する姿を描く長編ロマン。


●漫画入門からまんが道へ

 1970年に、週刊少年チャンピオンの編集部から「毎週4ページで漫画入門を描いてくれ」と頼まれた藤子不二雄A。


       


 そこで彼は、2ページをマンガ入門講座の「チャンピオンマンガ科」、あとの2ページは付録のつもりで自伝漫画「マンガ道」を描くことにした。

 すると、本編のマンガ入門講座より、マンガ道のほうが人気になっていったという。


      


 2年間の連載終了後、「中途半端に終わるのももったいない」と思った藤子不二雄Aは、少年キングで1977年から「まんが道」として本格連載を開始。

 少年キングの休刊に伴って1982年に未完のまま終わったが、その後「藤子不二雄ランド」の巻末連載まんがに引き継がれた。


      


 その後「まんが道」は、1995年からビッグコミックオリジナル増刊で「愛…しりそめし頃に…」とタイトルを変えて、計43年も続くことになる――。


       


●編集後記

 まだ何者でもない藤子不二雄少年が、手塚治虫に憧れながら漫画家として成長していく姿。

 そして、夢と現実、期待と不安、成功と失敗、出会いと別れの間で揺れ動く心情も丁寧に描かれていて、まるで当時の時代を一緒に生きている気分になります。

 子供の頃、絵を描くのが好きだった人は共感できる部分がたくさんあり、どんな巨匠の漫画家の先生も、最初は僕らと同じだったことを実感します――。



【記事引用】 「Wikipedia」 「小学館eコミックストア」 「まんが道大解剖
【画像引用】 「まんが道
 
 

「愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春」

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●愛…しりそめし頃に…
※1995年12月号~2013年5月号連載(全12巻)

 「まんが道」の続編として、ビッグコミックオリジナル増刊に連載された作品。

 藤子不二雄がトキワ荘に住み始めて1年半が経った1956(昭和31)年2月からのトキワ荘での日常が描かれている。


●まんが道・青年編

 連載雑誌が少年誌から青年誌に変わったため、登場人物の風貌が年相応なものに変更され、ネオン街でのエピソードなども出てくる。


        


 登場人物はまんが道に引き続き、満賀道雄(安孫子素雄)をはじめ、手塚治虫、才野茂(藤本弘)、寺田ヒロオ石ノ森章太郎赤塚不二雄がメイン。

 そこに、石ノ森章太郎の姉や、ラーメン屋・松葉のしのぶちゃん、上海ローズのリリーなど、多彩な脇役が物語に色を添えている。


       


 「愛…しりそめし頃に…」は、ビッグコミックオリジナル増刊1989年12月号と翌年4月号に読み切りとして掲載後、1995年12月号から連載を開始。

 連載中に藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫が亡くなる中、連載は18年続き、2013年5月号で完結。

 「まんが道」から通算して、43年の自伝漫画連載の歴史に幕を下ろした。


       


 本作は、エピソードの最後が必ず詩で締めくくられる。実在の詩が引用されることもあったが、ほとんどが藤子不二雄Aが変名で自作したもの。

 
     



●編集後記

 子供の頃は、30分番組のドラえもんの他に「藤子不二雄ワイド」という藤子不二雄作品詰め合わせの1時間番組も放送されていて、藤子作品の洗礼を受けまくっていました。

 他にも、赤塚不二夫の天才バカボンやおそ松くんもーれつア太郎、石ノ森章太郎原作の仮面ライダー覇悪怒組魔隣組マシンマンバイクロッサーなどの特撮番組などなど。。

 この様な80年代のアニメや特撮作品に多大な影響を与え、時代の寵児となった人達がトキワ荘という同じマンションに住んでいたことは奇跡という他ありません。

 そんな日本を代表する作品たちが誕生する前の、量が質に変わる前の悩みや苦労、試行錯誤の下積み期間を漫画で知ることができます。

 トキワ荘復元計画もあるようで、楽しみでなりません――。







【記事引用】 「Wikipedia」 「まんが道大解剖
【画像引用】 「愛…しりそめし頃に…

尾崎豊デビューライブ / 新宿ルイード

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●尾崎豊デビューライブ / 新宿ルイード
※1984年3月15日開催

 1984年3月15日。卒業を間近に控えた1月末に自主退学した青山学院高等部の卒業式の日に、尾崎豊のデビューライブが新宿ルイードで開催。

 伝説のデビューライブ35周年を記念して、MCをまとめてみました――。
 

●卒業おめでとう


        



 卒業おめでとう。

 君たちは従った。僕は従わなかった。どっちが正しい、間違っているかは関係ない。

 ついこの間、僕は学校を辞めました。やっぱり、学校を辞めることは学生だった僕にしてみれば、死ぬか生きるかってくらいのホントに大変なことだったんで。

 考えてみれば、学校なんてそんな大したものじゃないのかもしれない。

 僕の行ってた学校には礼拝っていうものがあって。これが結構いい話をして、悪人も必ず最後は救われる、そんな話を僕は最初は本気で信じて一生懸命お祈りしてました。

 だけど、学校を辞める間際になって、僕は礼拝を聞きながら、新宿のイカレた連中のことや、ボロ着てる乞食のことや…

 何かそんなことを考えているうちに、祈ってることがすごく陳腐に思えて。一番俺に何が必要かって言ったら、やっぱり「強く生きていけるか」ってことだと思ったんです。

 この街の熱いハートと熱いビートが、いつも俺の胸に聞こえてきます。







【十七歳の地図】


      



 俺はただ、自由になりてぇだけなんだ!

 俺はもう、偽善的な礼拝なんか絶対受けやしねぇぜ!

 自由じゃなけりゃ意味がねぇんだ!
 おまえらホントに自由か?

 腐った街で埋もれてくなよ…

 俺達が何とかしなけりゃよぉ
 何にもなんねぇんだ…



尾崎豊 / 十七歳の地図 (新宿ルイード)



【15の夜】


       



 俺は、15の時に家出をして。

 たった一夜のことだったんだけど、中学の時に「頭の毛を切ってこい」って言われて。俺はそれが物すごく嫌で、10人の友達と家出しました。

 バイクを盗んだり、冬で寒かったからジーパン屋のジーパンとか着るものを山ほど盗んでみんなでわけたりして、訳わかんないことやってた。

 俺は、それが良いことだなんて今は決して思ってない。

 最後に辿り着いたのが隣町の車のスクラップ置き場で、俺たちはそこで寒さを凌ぐために、そのスクラップの車の中で眠ることにしたんだ。

 ちょうど明け方の頃だった。

 1時間か2時間、みんなでそこで横になっていて。結局、俺たちのこと見回りに来てた先生に見つかって、みんな連れ戻されてしまったんだけれど。

 俺はあの時、10人の友達があの車の中でどんな夢を見ていたのか知らないけれど。

 でも、ああやって「無理やり髪の毛を切られるのは間違ってる」って思って、それを跳ね除けて正しい道へ、自分の思った正しい道へ進もうとしたっていうことは、僕は大切なことなんじゃないかと今でも思ってるし。

 そういったあいつらの気持ちを今でも、あいつらに、また僕自身にこれからもずっと、そういう気持ちは大切にしていかなくちゃいけないと思っています。



尾崎豊-15の夜(1984年3月新宿ルイード)



【終演後】






 僕が本当に心から僕の同世代の人間に伝えたいのは、「いろんな生き方があっていい」ということなんだ。

 周りの人間は、ホントにいろんなことを言うかもしれない。また俺の話になるけど、俺が高校を辞めたってことで、親はずいぶん四苦八苦して。
 
 雑誌とかに載ったりして「まぁ、お宅のお子さん高校辞めちゃったの?」なんて言われると、「いえいえ、そんなことないんです」なんてごまかしたりして。
 
 なんか、親って、大人って、そうやって臭いものにすぐ蓋をかぶせて物事をわかったような気になろうとしてるけど、本当はそうじゃないと思うんだ。
 
 もっと大切なことってあると思うんだ。
 
 それを俺たち若い連中が、これから作り上げていかなくちゃ、俺たち同じような大人になってしまうんじゃないかと思うんだ。
 
 今の俺達に「反戦の歌を歌え」とか「革命を起こせ」とか、そんなどでかいことを言っても無理かもしれないけれど。
 
 些細なことを…些細なことをいい加減にして過ごしていかないで、もっと真っ直ぐな目を向けてほしいと思います――。




    


 【セットリスト】

   1. 街の風景 
   2. はじまりさえ歌えない 
   3. Bow! 
   4. 傷つけた人々へ 
   5. 僕が僕であるために
   6. I LOVE YOU 
   7. OH MY LITTLE GIRL
   8. ハイスクールRock'n'Roll
   9. 十七歳の地図 
   10. 愛の消えた街 
   11. 15の夜
 
 <アンコール1> 
   12. シェリー 

  <アンコール2>
   13. ダンスホール 



●編集後記

 尾崎豊が、1984年3月15日にデビューライブを行った新宿ルイード
 
 ライブ当日、キャパ300に対して倍近い観客が押し寄せ、入りきれなかったファンのために急遽、外にモニターが設置されました。

 若干18歳で後世に歌い継がれる数々の名曲を作り、デビューライブで鬼気迫るパフォーマンスを披露し、伝えたいメッセージを真剣に語る姿はまさに圧巻。

 自分の高校卒業時に同じことが出来るかと問えば、その凄さを改めて再認識します。

 尾崎は高校に入学する前に、高校卒業後に大学に進学し、将来は学校の先生になるという目標も立てています。

 退学後の夜に、友人の家で開催されたパーティで、ギターの弾き語りの最中に突然泣き崩れて、歌えなくなってしまった尾崎。

 学校を退学したのは、先生の言動に対して人としてどうしても許せない感情があったにせよ、自分の夢の一つが閉ざされたことに対する無念さもあったように思います。

 なお、新宿ルイードは振動・騒音問題で1987年に閉店し、現在は新宿の別の場所で新宿ルイードK4として営業中。
  
 2016年2月21日には、尾崎豊の一人息子の尾崎裕哉が初のワンマンライブも行っています。
 


   



【記事引用】 「OZAKI LOVERS ~尾崎豊と愛すべきものたち~
【画像引用】 「YUTAKA OZAKI 10th Anniversary of DEBUT 尾崎豊伝説のデビューLIVE」 
       「OZAKI18

「BIRTH」に賭けた復活

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    ●「BIRTH」に賭けた復活   1988年9月12日の東京ドーム公演を終えた尾崎は、所属事務所に辞表を提出した。   尾崎は、事務所が設立したレコード会社に所属していたため、契約が切れるまでの約1年間、音楽活動を停止せざるを得なくなった。   ちょうどその頃、月刊カドカワの編集長になっていた見城徹氏は、編集者として堕落した自分に危機感を抱いていた。     ●ジムでの再会   1985年、新宿の街を歩いていた見城氏は、耳に飛び込んできた『シェリー』に衝撃を受けた。   自分を感動させてくれた人と仕事をしたいという信念を持っていた彼は、尾崎とアポイントをとり、一席を設ける。   アルバムを聴き込み、コンサートにも足を運んだ上で、自分なりの感想を熱く尾崎に洗いざらい話した見城氏。   それを聞いた尾崎は、所属事務所に届いていた7社もの仕事依頼を断り、見城氏と仕事をすることを決める。   そして、1985年10月に尾崎にとって初めての著書「誰かのクラクション」を出版した。   尾崎の渡米後は音信不通になっていたが、ある日、都内のジムで運命的な再会を果たす。見城氏が走っていたランニングマシーンのすぐ横で、尾崎が走っていたのである。   しかし、彼はその頃の面影もないほどに落魄しており、最初は横で走っていた男が尾崎豊だと気づかなかったという。   尾崎から声をかけられた見城氏は、汗びっしょりの彼と約1時間、床に座って話し続けた。     ●僕は復活したい   「見城さん、どうしても僕は復活したい」と呟く尾崎。   「僕は何もかも失くした。所属のレコード会社も、事務所も金もない。でもどうしても、もう一度ステージに立ちたい。アルバムを出したい」   彼は、うわ言のようにそう訴え続けたという。   尾崎のその言葉を受けた見城氏は、“尾崎豊の復活に、落ちぶれてしまった自分の編集者としての復活を賭けること”を決意する。   その後、社内の猛反対を押し切り、月刊カドカワで巻頭70ページぶち抜きの尾崎特集を組み、人や金を集めて尾崎を社長に据えた個人事務所「アイソトープ」の設立にも尽力した。   クビ覚悟で編集者としての範疇を超えて尾崎をバックアップし、毎日のように一緒にいた。まさに、共依存的な状態だったという。     ●チャート1位   1990年11月15日、尾崎豊の再起を賭けた2年ぶり5枚目のアルバム「誕生」がリリースされた。   尾崎も見城氏も、「1位でなければ意味がない」と思っていた。業界にいると、オリコンチャートの結果がORICON WEEKLYの発売2日前にわかる。   結果は、初登場で堂々の1位だった。   12月1日の夕刻、見城氏は尾崎にその結果を伝えるために彼が宿泊していた新宿のヒルトンホテルを訪れた。   そして、ホテルのフロントから尾崎の部屋に電話を入れた。アルバム「誕生」が一位だったことを伝えると、尾崎が電話口で震えているのが息遣いでわかった。   見城氏は「とにかく降りてこいよ。下のバーで待ってるから」と言って電話を切った。     ●光の中を歩く尾崎   エレベータの扉の真っ直ぐ先にバーがある。   真っ暗なバーの入り口に向かって座っている見城氏に、入り口の扉から強烈な西日が入ってきていた。 エレベータを降りた尾崎は、その西日を背にゆっくりと近づいてくる。   尾崎は逆光となってシルエットだけになり、まるで光の中を歩いてくるように見えたという。   そして、バーに入った尾崎は、人目をはばからずに見城氏に抱きついて号泣し、見城氏も泣いた。そして、ビールを頼んで二人だけの乾杯をした。   「僕には忘れられない人生の一コマ一コマがあるけれど、“僕と尾崎の復活は成った”と思って飲んだあのビールの味は、忘れられない」   そう語る見城氏の目には、光るものがあった――。       【関連サイト】 「見城徹」「ORICON WEEKLY 1990年12月3日号」 「人生の歩き方~見城徹×尾崎豊~」 「編集者という病い」「月刊カドカワ/1990年7月号」  

「BIRTH」に賭けた復活

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●「BIRTH」に賭けた復活

 1988年9月12日の東京ドーム公演を終えた尾崎は、所属事務所に辞表を提出した。

 尾崎は、事務所が設立したレコード会社に所属していたため、契約が切れるまでの約1年間、音楽活動を停止せざるを得なくなった。

 ちょうどその頃、月刊カドカワの編集長になっていた見城徹氏は、編集者として堕落した自分に危機感を抱いていた。


●ジムでの再会

 1985年、新宿の街を歩いていた見城氏は、耳に飛び込んできた『シェリー』に衝撃を受けた。

 自分を感動させてくれた人と仕事をしたいという信念を持っていた彼は、尾崎とアポイントをとり、一席を設ける。

 アルバムを聴き込み、コンサートにも足を運んだ上で、自分なりの感想を熱く尾崎に洗いざらい話した見城氏。

 それを聞いた尾崎は、所属事務所に届いていた7社もの仕事依頼を断り、見城氏と仕事をすることを決める。





 そして、1985年10月に尾崎にとって初めての著書「誰かのクラクション」を出版した。

 尾崎の渡米後は音信不通になっていたが、ある日、都内のジムで運命的な再会を果たす。見城氏が走っていたランニングマシーンのすぐ横で、尾崎が走っていたのである。

 しかし、彼はその頃の面影もないほどに落魄しており、最初は横で走っていた男が尾崎豊だと気づかなかったという。

 尾崎から声をかけられた見城氏は、汗びっしょりの彼と約1時間、床に座って話し続けた。


●僕は復活したい

 「見城さん、どうしても僕は復活したい」と呟く尾崎。

 「僕は何もかも失くした。所属のレコード会社も、事務所も金もない。でもどうしても、もう一度ステージに立ちたい。アルバムを出したい」

 彼は、うわ言のようにそう訴え続けたという。

 尾崎のその言葉を受けた見城氏は、“尾崎豊の復活に、落ちぶれてしまった自分の編集者としての復活を賭けること”を決意する。

 その後、社内の猛反対を押し切り、月刊カドカワで巻頭70ページぶち抜きの尾崎特集を組み、人や金を集めて尾崎を社長に据えた個人事務所「アイソトープ」の設立にも尽力した。

 クビ覚悟で編集者としての範疇を超えて尾崎をバックアップし、毎日のように一緒にいた。まさに、共依存的な状態だったという。


●チャート1位

 1990年11月15日、尾崎豊の再起を賭けた2年ぶり5枚目のアルバム「誕生」がリリースされた。

 尾崎も見城氏も、「1位でなければ意味がない」と思っていた。業界にいると、オリコンチャートの結果がORICON WEEKLYの発売2日前にわかる。

 結果は、初登場で堂々の1位だった。





 12月1日の夕刻、見城氏は尾崎にその結果を伝えるために彼が宿泊していた新宿のヒルトンホテルを訪れた。

 そして、ホテルのフロントから尾崎の部屋に電話を入れた。アルバム「誕生」が一位だったことを伝えると、尾崎が電話口で震えているのが息遣いでわかった。

 見城氏は「とにかく降りてこいよ。下のバーで待ってるから」と言って電話を切った。


●光の中を歩く尾崎

 エレベータの扉の真っ直ぐ先にバーがある。

 真っ暗なバーの入り口に向かって座っている見城氏に、入り口の扉から強烈な西日が入ってきていた。エレベータを降りた尾崎は、その西日を背にゆっくりと近づいてくる。

 尾崎は逆光となってシルエットだけになり、まるで光の中を歩いてくるように見えたという。

 そして、バーに入った尾崎は、人目をはばからずに見城氏に抱きついて号泣し、見城氏も泣いた。そして、ビールを頼んで二人だけの乾杯をした。

 「僕には忘れられない人生の一コマ一コマがあるけれど、“僕と尾崎の復活は成った”と思って飲んだあのビールの味は、忘れられない」

 そう語る見城氏の目には、光るものがあった――。



【関連サイト】 「見城徹」「ORICON WEEKLY 1990年12月3日号
        「人生の歩き方~見城徹×尾崎豊~
        「編集者という病い」「月刊カドカワ/1990年7月号

ラフ∞絵

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●ラフ∞絵
※2019年4月2日~4月16日開催

 秋本治天野喜孝大河原邦男高田明美

 「こち亀」、「FF」、「装甲騎兵ボトムズ」「機動戦士ガンダム」、「機動警察パトレイバー」などを生み出してきた4人のアーティストたち。

 アニメ制作会社「竜の子プロダクション」で働いていたことが縁で、4人のアーティストのラフ絵、約800点を一挙公開。



【チェンジ・アンド・チャレンジ】

 さらに、「チェンジ・アンド・チャレンジ」と題して、 4人のアーティストがそれぞれ他のアーティストの代表作品を描く。










    



     

     



   

      

     



【アーツ千代田3331】

 ラフ∞絵の会場になっている「アーツ千代田3331」は、2005年に廃校になった練成中学校をリノベーションして作られています。

















 
●編集後記
 
 アーツ千代田3331は、廃校になった中学校をリノベーションした建物で、当時の黒板や水飲み場、下駄箱などがそのまま残っています。

 「ニルスの不思議な旅」の絵コンテや、タツノコ時代の秋本治が描いたセル画、ヤッターワンの初期デザインなど貴重な展示も見れます。

 子供の頃、タツノコアニメやボトムズ、ガンダム、FF、こち亀にハマった人にはお勧め。


【記事/画像引用】「3331 ARTS CYD

「尾崎豊 追悼式 / 1992.4.30」

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●享年を越える年月

 今年、尾崎豊の享年を越える27年の年月が流れました。

 彼の追悼式の様子が描かれた「Say good-by to the sky way」「尾崎豊 夢のかたち」の2冊を参考にして、当時の様子をまとめてみました――。

 

●尾崎豊追悼式
 
 1992年4月30日木曜日。

 昨日とは打って変わったように肌寒い朝だった。空は重たい雨雲で覆われて、今にも泣き出しそうな子供の顔のように見えた。

 深夜に降りだした雨はいったん止んだが、朝になってまた降り出してしまった。まるで真冬に逆戻りしたかのような冷たい風が、暗い扉の隙間から忍び寄ってくる。

 黒い喪服姿の女性や、普段着姿の男性グループ、白い花束を抱えたカップルは誰も皆、無口にうつむいていた。

 自分ではわからない何かの力に背中を押されながら歩いているようにも見える。

 営団地下鉄・有楽町線の護国寺駅へ向かう電車の中で、停車の度に追悼式に参列すると思われる人々が続々と乗り込んでくる。

 「こちら側の出口は通れません!あちら側へお回り下さい!」

 「護国寺へ行かれる方は、もう一つ手前の駅で下車し直して下さい!尾崎豊さんの葬儀の参列者の列の最後尾は、東池袋と江戸川橋のどちらの駅にもあります!」

 他の喪服姿の人達と並び、一斉に護国寺の駅で下車すると、駅のホームで駅員がメガフォンを通して叫んでいた。ヒビ割れたような乾いた大声だった。

 ホームには、身動きができないほどの人間が溢れ返っていた。

 そして、駅員の言う「こちら側」も「あちら側」も、全く見当がつかないほどの人垣に埋もれていて、立ち往生するしかなかった。



●4万人を超える参列者

 何度も繰り返される駅員の指示に従って、一旦下車した人達は電車に乗り直したり、反対側の出口へと渦を巻いて移動してゆく。

 文句を言う人は一人もいない。先を急ごうと人波を押しのける人もいない。

 黙々と下を向いて歩く人。不安気な瞳を泳がせて人波についてゆく人。何か重大なイベントに出向くかのように緊張している人。友人や恋人に肩を抱かれて倒れそうになりながら歩く人。

 それぞれが自分の気持ちを整理しかねているようにも見えた。

 きっと尾崎は、自分の最期がこんな形で騒がれ、掻き分けなければ辿り着けない人波を周りに作られようとは、予想だにしていなかっただろう。

 正午からの追悼式のために、平日にも関わらず午前8時には徹夜組200人を含む5000人が詰め掛け、最終的には4万人を超える人々が、たった一人の男のために押し寄せたのだから。

 雨は追悼式が始まる正午にはさらに強くなって、全ての世界に叩きつけるように降り続いていたが、ファンの出足は衰えなかった。

 傘の行列は、護国寺を起点に、北はサンシャインシティを越える約2.5キロ、南は江戸川橋を越える約1キロに広がり、3.5キロの長さに連なった。

 彼らはみな、学校を休み、仕事を休み、子供を預け、友人との約束を取り消し、確かな自分の意志でやってきたのである。



●『卒業』の大合唱






 正午から、護国寺本堂前の祭壇で追悼式が始まった。

 アストロビジョンに映し出された尾崎豊の遺影に吸い寄せられるようにして、それぞれの人々がうごめいていた。
 
 「間隔を開けずに詰めて並んで下さい!傘はささないで!」
 
 そんな警備員の指示に従い、傘をささずににずぶ濡れになって立ち尽くすファン達の唇は、何かを決意したように蒼ざめて震えていた。

 本堂前に設置された巨大なアストロピジョンに彼のライブ映像が映し出されており、映像の中の尾崎は、今にもギターを持って飛び出してきそうだった。

 ファン達は皆、その映像をじっと見つめながら次々に献花を続けた。

 だが、カーネーションを献花したファン達はなかなかその場を立ち去ろうとしない。何かに縛りつけられたように動けないでいる。

 そのために人の流れは止まり、後に続く献花の列は遅々として進まない。それでもファンの間から不満の声は出なかった。

 激しい雨に打たれて、ある者は献花の順番を待ち続け、ある者は足りないカーネーションを次に待っているファンに渡してあげようとしている。







 そして、しばらくすると誰かが『卒業』を歌い始め、誰もタクトをふらないのに4万人のファンが大きくはないがためらわず、はっきりと歌い、それがいつしか美しい大合唱になった。

 この追悼式をじっと見つめていた葬儀社のある関係者はこう咳いた。
 
 「こんなことは初めてです。大きな葬儀は何度も経験しましたが、ここまで大きな葬儀も初めてならば、たばこの吸い殻ひとつ落ちていない整然とした葬儀も初めてです。私は感激しました」

 彼は60歳を過ぎた年齢だったが、「これを機に尾崎さんのCDを聴いてみることにします。これだけ多くの人たちを厳粛にさせる尾崎さんの歌をどうしても聴いてみたい」
 

 
●通夜

 記帳場所は四つに分けられ、それぞれ「遺族」「友人」「音楽関係者」「マスコミ関係者」と大きな文字で書かれていた。
 
 控え室へ曲がる通路の右手正面に、彼の遺影が高々と掲げられ、両脇に愛用のギターを立てかけた棺が置かれている広い部屋が目に入った。

 入口の扉の周りには、関係者や友人からの花輪が飾られていた。

 パイプ椅子がたくさん並べられた関係者専用の控え室には、彼の遺影を常時映し出しているモニターテレビが前後に二つ置かれ、静かな音楽が流れていた。
 
 葬儀が始まる旨のアナウンスが入った。
 
 正午を少し回っていた。まわりを見渡すと、ぎっしりと関係者がつまった控え室のあちらこちらからすすり泣きが漏れていた。

 マイクを通した合図で一斉に頭を垂れ、沈黙を保つ。





 一分間の黙祷が済むと、「故人の思い出深い曲をお聴き頂きたいと思います」と、彼の生前のヒット曲『I LOVE YOU』が静かに流れ出した。

 この曲は、テレビドラマ「北の国から」で挿入歌としても、またストーリーの中にも盛り込まれて使用されている。

 1991年春にはJRのコマーシャルソングとしても使用され、リバイバルヒットを果たしている。

 すすり泣きが漏れる中、初めに葬儀委員長であるソニー・ミュージックエンタテインメントの松尾修吾社長の挨拶があった。



●風になった少年

 松尾氏は「風になった少年」と題し、弔辞を読み上げた。その内容は、要約すると次のようなものであった。

 「風になった少年。紺色の制服姿の君と初めて会った時は、まだ幼さの残る礼儀正しく、無口な少年だった。まだ高校生だった。

 うつむきかげんではにかんだ様子で、周囲を警戒するような目で我々を見ていた。

 君が「僕は、自分の悩みや生活、心の奥にあるものを歌いたい。そんなこと日本でもできますか」と尋ねたので「君がやればいい」と答えたら、初めて大きな真っ白い歯を見せてくれました。

 君は与えられたフィールドを全力で走った。そのフィールドは君にとって狭すぎたのかもしれない。

 君は無謀と思えるほどの全速力で十年間を駆け抜け、疲れも知らずに飛び続けて、とうとう風になってしまった気がする。(中略)

 君が遺した6枚のアルバム、音楽的業績は不滅のバイブルになることは必至だろう。君は「人は愛に脆く」と歌った。

 今、われわれは脆き、心から冥福を祈るだけである。さようなら」



●吉岡さん挨拶

 次に、親友でもある俳優の吉岡秀隆さんの挨拶が続く。吉岡さんは途切れがちなか細い声で、まるで目の前に尾崎がいるかのように語りかけ、つぶやいた。

 「尾崎さん……。尾崎さんに書く最初の手紙がまさか弔辞になるなんて、思ってもみませんでした。今、アイソトープの尾崎さんの部屋でこれを書いています。

 尾崎さんのいないあの部屋にも、僕ひとり押しつぶすには充分な思い出がつまっていて、それでなくともままならない体が、いよいよどうにもなりません。

 尾崎さんがいなくなって、人間の涙はとどまることを知らないことを知りました。自分がこんなにもちっぽけで無力なことを知りました。

 人は哀しみに出会ったとき、眠れない日々が続くということも知りました。尾崎さんは、どれほど眠れない夜を過ごし、涙を流したことでしょう。

 聴く人の人生そのものを変えてしまうほどの歌を自らの命を削るように伝えようとする尾崎さんは、僕に表現するということの本当の意味を教えてくれました。

 何かを恐れ、前へ進めない時、僕の背中を押して「大丈夫、大丈夫」といって笑いかけてくれました。

 尾崎さんは「人が評価されるのは、その人が死んだ時なんだろうな」と言っていましたね。転んでも転んでも走り、立ち上がっていく尾崎さんが好きでした。

 自分の一番生きたい時間を自分らしく生きた尾崎さんを尊敬しています。

 誰が何と言おうと、僕の知っている尾崎さんは、誰からも傷つけられることなく僕の中に生き続けています。

 尾崎さんは人一倍寂しがり屋だったから、これからはみんなの一人一人の胸の中で静かにゆっくりと休むことでしょう。

 尾崎伝説はまだ始まったばかりです。最後の最後まで言えなかった言葉を贈ります。尾崎さん、ゆっくり休んで下さい……」

 吉岡さんの飾らない言葉に、一層すすり泣きが激しくなった。吉岡さんも言葉を詰まらせ、涙を堪えていた。



●茫然自失のHeart Of Klaxon

 遺族、友人などの献花が済むと、十分間の休憩が入った。

 控え室に座りきれない人達が廊下にまで溢れた。尾崎の元バックバンド・ハートオブクラクションのメンバーもいた。

 リーダーのR氏は相当ショックを受けているようで、目を真っ赤に腫らしながら茫然自失の表情だった。
 
 「祈ったよ。『おまえがオレを憎んでいても、愛していなくても、たとえ一方的な愛だとしても、オレはおまえを愛してる。だからもう、何も考えないで静かに安心して安らかに眠れ』って。そう祈ったから…」

 メンバーのZ氏はうつむいた。耳たぶが朱色に染まっていた。







 「アイツは、俺たちがどれほどアイツのことを愛してたかなんてちっともわかっちゃいなかった。

 何年かかってでもいい。俺たちが愛していることをアイツに伝えてやりたかったよ。誤解なんだ。俺たちはアイツを裏切ったりなんかしてない。

 本当なんだ。それを伝えたかった。

 だけど、もうアイツは死んじまった。もう…。だから言ってやったんだよ。おまえを愛してるって。天国のアイツにさぁ」



●告別式

 彼の曲が流れる中、関係者が次々と献花をしてゆく。

 『太陽の破片』、『ふたつの心』、『優しい陽射し』、『太陽の瞳』、『MARRIAGE』、『ダンスホール』などが繰り返し流される。

 兄の康さんは、元裁判所書記官らしく、聡明なはっきりとした口調で最後に謝辞を述べた。

 「デビュー前は、深夜に宇宙、宗教、学校のことなど、とりとめのないことをよく話した。事の本質を突き止めようとする面や、内面を真っ直ぐ凝視しようとするところがあった。(中略)

 26歳という死はあまりにも早かったが、彼はその生涯を全力疾走で駆け抜け、天寿を全うしたと思う。豊の見つめたものは、全て作品の中にあります。

 彼の伝えたかったことを、それぞれの胸で解釈して下さい」

 尾崎豊の枢には、彼の全てのCD、愛用のギター、ジーパン、シャツ、サングラスなどが納められ、大好きだったシャンパンがかけられた。

 午後2時半。列席者全員の献花が終わると、出棺の時間になった。

 霊枢車に枢が納められると、「出棺です」という大きな声とともに、鈍い鐘の音が突然「ガンガンガンガーン」と大きく響き渡った。

 その時、見守っていた列席者の間から悲鳴のような大きな泣き声が上がり、別れを惜しむファンが一斉に霊柩車に押し寄せた。



●永遠の1/2

 当日、警備に当たった大塚署の調べでは、参列者の数は約3万5000人。
 
 だが、護国寺の入り口が封鎖されて追悼式に参列できず、路上で立ちつくし、泣き叫び、崩れ落ちた若者達の数を加えれば、その数は4万人以上になった。

 多くの「尾崎豊を知らない人たち」は、この大勢の若者たちの追悼に驚愕していた。

 尾崎豊の歌を通して何かを得たものたちは、例え彼の肉体が滅びようとも、それぞれの胸の中で“尾崎豊”という名前に込められている情熱やメッセージを絶やさないことだろう。

 そして、1992年4月30日午後4時。

 多くの人々の胸に刻まれ続けたアーチスト・尾崎豊の肉体は、東京都新宿区にある落合斎場で荼毘に付され、永遠に帰らぬ人となった。

 彼が存在した1/2にあたる精神のみを遺して――。










●編集後記

 「KLAXONは鳴り止まず」。

 これは、尾崎豊の追悼式に参列したファンが、当日の様子と、その後を記録したノンフィクション・ドキュメンタリー作品です。

 この作品には、追悼式当日、ニュース報道では紹介されなかった尾崎ファン同士による心温まるエピソードやファンの感情の変遷が事細かに記されています。
 
 また、突然心の支えを失って絶望に打ちひしがれているファンの姿を見て、追悼コンサートを企画し、実現へ向けて奔走した熱い尾崎ファンの歴史も知ることができます。

 彼の普遍的な音楽性、魂の叫びの様な一線を画したステージング、モデルの様な容姿、聴く人の心を打つ歌声、そして、どんな困難に陥っても夢を捨てない生き様。

 それらが、没後四半世紀以上の月日が流れても彼の音楽や存在が風化しない理由。

 しかし、何よりも、尾崎豊を後世に伝え続けてきたファンの功績でもあることも忘れてはいけないでしょう――。
 





 
 

【記事引用】 「Say good-by to the sky way」 「尾崎豊 夢のかたち / 柴田曜子 (文春文庫)
【画像引用】「GB SPECIAL EDITION yutaka ozaki 1983-1992

 

尾崎豊ゆかりの地 / 東京

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●尾崎豊の足跡を辿る

 東京近郊にある尾崎豊関連スポット。尾崎と同じ場所に立って同じ景色を眺めることで、見えてくるものがあります――。

 尾崎が生まれ育った原風景「練馬」のゆかりの地は、こちらです。



●自衛隊中央病院
 
 尾崎豊がこの世に生まれ落ちた「尾崎豊生誕地」。




  
 1965年11月28日夜、健一さんは産気づいた絹枝さんをタクシーで病院に送った後、練馬の都営住宅で知らせを待っていました。
 
 すると、産室に入ったと同時に出産が始まり、11月29日の明け方に医師が駆けつける前に看護婦さんの手で取り上げられたそうです。
  
 



 なお、尾崎が1歳半の時に、絹枝さんが髄膜炎を患ってこの病院に3カ月間入院しています。
 
 健一さんは病院に寝泊りすることになり、尾崎と康さんを岐阜の親戚の家に預け、病院から仕事場に通っていました。

 尾崎はこの3カ月で母親の顔を完全に忘れてしまい、「この時の経験が彼の人格形成に大きな影響を与えた」と健一さんは語っています。





 また、1984年8月開催のアトミックカフェでのライブ中に照明イントレからダイブして左足を骨折した際、尾崎が2週間入院した病院でもあります。





東京都世田谷区池尻1丁目2−24
 ※東急バス(モヤイ像側)「自衛隊病院前」下車徒歩5分 (乗車時間10分)
 


●池袋

【タカセ洋菓子店 池袋本店】

 尾崎の父親の健一さんが尾崎の誕生日に毎年ケーキを買っていたお店。


     


 尾崎もこのお店のケーキをとても気に入っていて、新婚当時、板橋に住んでいた時もタカセ板橋店のケーキをよく買っていました。





東京都豊島区東池袋1丁目1−4
 ※池袋東口より徒歩1分


中池袋公園

 尾崎が学生時代に時間をつぶしていた公園。





 池袋駅東側のビル群の一角にあり、1950年に開設。2000年にリニューアルして、身障者対応トイレや喫煙エリアが設置されています。






【クロサワ楽器店】

 学生時代の尾崎が放課後、池袋の街をふらついていた時、楽器をよく眺めていたお店。中池袋公園のすぐ近くにあります。


      


●朝霞

【朝霞駅】

 東武東上線の停車駅で、尾崎の学生時代の最寄り駅。生家までは徒歩25分ほど。





 1991年12月29日、スクーターで朝霞駅までやってきた絹江さんはこの駅の階段でうずくまり、病院に搬送されましたが、帰らぬ人になりました。





朝霞第一小学校

 尾崎が小五の二学期に東京・練馬から転校した小学校。





 「転校生」、「東京」というブランドで女子に人気になり、それを妬んだ男子からいじめられるようになりました。





 そのため、毎朝普通に家を出て、共働きだった両親がいなくなる昼にこっそり家に戻る登校拒否生活が半年ほど続いたそうです。


     


 その間、物置に閉まって使わなくなっていた兄のアコースティックギターを弾くようになり、自分の部屋でひたすらギターの練習をしていました。

 これが、アーチスト・尾崎豊の原点です。


【生家】

 尾崎が小五の時に練馬の都営住宅から引っ越し後に住んでいた家。





 デビューして家を出るまで、そして新婚時代に尾崎が住んでいたが、今は誰も住んでいないようで雑草が伸び放題になって荒れ始めています。





 歴史的建築物としての維持・保存を望みます――。



【神明坂】

 『坂の下に見えたあの街に』の舞台となっている坂。





 尾崎豊の生家へは徒歩5分ほどで、当時、朝霞駅を最寄駅にしていた尾崎が中学時代や高校時代にいつもこの坂を歩いていました。



 

埼玉県朝霞市溝沼2丁目4
 ※東武東上線「朝霞駅」より徒歩20分



【旧・西友朝霞店(現・マルエツ朝霞店)】

 尾崎が1983年12月1日に1stアルバム「十七歳の地図」をリリースした時、自分のレコードが売られているか確認しに行ったお店。





 しかし、自分のレコードは置いておらず、CBSソニーに電話して「朝霞の西友に自分のレコードがない」と須藤さんに伝言を残しています。





 西友朝霞店は2009年3月31日に閉店し、現在は店名はマルエツとなっており、レコード売り場もかなり縮小されています。





 失意のまま、尾崎はこのエスカレーターを降りたんでしょうね。。





埼玉県朝霞市本町1丁目12
 ※東武東上線「朝霞駅」より徒歩10分



●旧ソニー信濃町スタジオ

 16歳だった尾崎が1982年10月11日に、CBSソニーのオーディションを行った場所。





 当日のオーディションをすっぽかし、ソニーのスタッフに説得されて翌日にジーパンにしわくちゃのシャツ、裸足にサンダルで現れた尾崎。

 『ダンスホール』、『もうお前しか見えない』の2曲を披露し、その人並み外れた歌唱力と表現力で最優秀アーチストに選ばれ、デビューが決定。





 尾崎のデビューアルバム「十七歳の地図」と3rdアルバム「壊れた扉から」は、このスタジオでレコーディングされました。

 なお、建物はすでに解体されており、現存していません。道路上にある黄色の四角で囲われたマンホールだけが当時を偲ばせています。





東京都新宿区南元町5−8
 ※JR中央線「信濃町駅」より徒歩5分



●旧CBSソニー本社ビル




 
 尾崎豊とディレクターの須藤晃が1982年12月に初対面した建物。

 2018年2月にソニーがこの建物を売却してしまったために、現在はソニーの持ち物ではなくなり、看板も撤去されています。





 尾崎は約束の時間に1時間以上遅刻し、待ちくたびれて帰ろうとした須藤氏と6階のエレベータ前で鉢合わせました。

 青学の制服を着てカバンを脇に抱え、手には根性焼きの跡がたくさんあったといいます。


東京都新宿区市谷田町1丁目4
 ※JR中央線「市ヶ谷駅」より徒歩5分
  


●駒沢公園

 尾崎がデビュー後、初めて屋外で写真撮影を行った場所。





 カメラマンの田島照久氏が、競技場の近くで吹き溜まりになっていた落ち葉の上に寝転んでほしいと頼むと、「平気です」と尾崎は応じたそうです。





 今でも、競技場近くには落ち葉が吹き溜まっている箇所があります。この辺りで撮影していたのでしょうか。。


     


東京都世田谷区1
 ※東京メトロ田園都市線「駒沢大学駅」より徒歩10分



●コンサート会場

【新宿ルイード跡】

 尾崎豊が、1984年3月15日にデビューライブを行った場所。




 
 ライブ当日、キャパ300に対して倍近い観客が押し寄せ、入りきれなかったファンのために外にモニターが設置されました。




 
 “ロックの殿堂”と呼ばれた新宿ルイードは、1972年にオープンし、RCサクセションやキャロル、荒井由美、吉川晃司、チェッカーズなど、多くのアーチストを輩出。





 しかし、振動・騒音問題で1987年に閉店し、現在は場所を移転し、新宿ルイードK3として営業中。


      

 
東京都新宿区新宿3-26-18 カワノビル4F
 ※JR山手線「新宿駅」東口より徒歩5分



【日比谷野外音楽堂】

 1984年8月4日、尾崎豊がアトミックカフェで7mの照明イントレからダイブし、左足を骨折しながらパフォーマンスを行った場所。





 周囲に壁があるためステージの先端しか見えませんが、緑と水の市民カレッジの3階の窓から客席とステージが少しだけ見渡せます。


     

     


東京都千代田区日比谷公園1-5
 ※東京メトロ丸の内線「霞が関駅」より徒歩1分



【代々木第一体育館】

 1984年のLAST TEENAGE APPEARANCE TOUR、1991年のBIRTHツアー追加公演で尾崎がコンサートを行った場所。





 LTA代々木公演2日目とBIRTHツアーファイナルで行ったMCは、ファンの間で語り継がれ、伝説化しています。





東京都渋谷区神南2-1-1
 ※JR山手線「原宿駅」より徒歩10分



【有明コロシアム】

 尾崎豊が、TREES LINING A STREETツアー中の8月29日、30日にコンサートを行った場所。





 彼は、ライブ前日に食べた魚介類に当たって発熱と嘔吐に苦しみ、当日も体調が回復しないままでのライブだったそうです。





東京都江東区有明2-2−22
 ※ゆりかもめ「有明駅」より徒歩3分
 

【東京ドーム】

 覚せい剤による逮捕後、初めてコンサートを開催した場所。





 リハーサルのやり過ぎで喉が潰れ、ガラガラになった歌声で、リリースしたアルバム「街路樹」の曲を含む26曲を熱唱しました。





東京都文京区後楽1-3-61
 ※東京メトロ南北線「後楽園駅」より徒歩1分



【横浜アリーナ】

 1991年5月20日に、BIRTHツアーの初日公演が行われた場所。





 コンサートとしては「LIVE CORE」から約2年半ぶりで、34都市48公演を行い、復活を待ち侘びた全国の尾崎ファンを熱狂させました。





横浜市港北区新横浜3-10
 ※JR横浜線「新横浜駅」より徒歩10分



●西麻生/六本木/麻布十番

旧レッドシューズ跡】

 西麻布の麻布パレスビルの地下1階にあったカフェバー。(1995年閉店)

 当時のカルチャーの先端を行く人々の間で評判となり、様々なジャンルのアーチストの溜まり場となっていました。





 真っ赤な店内に、大きな「風神・雷神」の絵が飾られ、あらゆる種類の美味しいお酒が揃い、料理は本格中華。

 スクリーンには、映画やミュージックビデオが延々流れており、BGMはロックオンリー。





 尾崎も吉川晃司らとよく訪れており、『RED SHOES STORY』というお店の名前を冠した曲も作っています。






東京都港区西麻布2-25−18 麻生パレスビルB1F
 ※都営バス/RH01/六本木ヒルズ行き「渋谷駅前」~「西麻生」下車徒歩0分
 ※東京メトロ日比谷線「広尾駅」下車徒歩10分



レッドシューズ

 1995年に閉店後、2002年12月に場所を移して再オープン。西麻生にあったレッドシューズから渋谷方面へ歩いて8分ほどの所にあります。


     


 先代から引き継いだ風神雷神が奥でにらみをきかせる真っ赤な店内では、週末にDJイベントや、バンドイベントも行われています。


     


東京都港区南青山6-7−14 チガー南青山B1F
 ※都営バス/RH01/六本木ヒルズ行き「渋谷駅前」~「南青山7丁目」下車徒歩1分



キャンティ

 尾崎豊の行きつけだったイタリアンレストラン。





 キャンティは1960年オープンの日本のイタリアンレストランの草分け的存在で、文化交流のサロンとなっていました。





 午前3時までの営業で、遅い夕食をとる放送・芸能関係者から、政財界人に連れられて来る赤坂や銀座のホステスなどで深夜まで賑わいました。





 1980年代のバブル時代には「キャンティ族」という言葉が流行り、芸能界の華やかさの象徴となっていました。


      


 見城氏と一緒に食事をした後、店を出た尾崎は、店の横にあった自販機にいきなり殴りかかり、拳を血だらけにしたことがあったとか。




東京都港区西麻布3-17−26
 ※東京メトロ日比谷線「広尾駅」より徒歩8分



【旧・イタリアントマト(現・ビアレストラン銀河高原ビール)】

 尾崎豊がNYに旅立つ前日の1986年5月12日に、高校時代の仲間と壮行会を行ったお店があった場所。ここで、繁美さんと初めて出会いました。





 約束の時間に3時間も遅刻した尾崎は、2次会のカラオケ屋で大騒ぎし、ライブバーで熱唱後、明け方のレッドシューズでお開きになったとか。


 

東京都港区六本木3-8−15
 ※東京メトロ大江戸線「六本木駅」徒歩1分



【つづきスタジオ】

 尾崎豊がBIRTHツアーのリハーサルを行ったスタジオ。


     


 リハーサルは1991年2月末から始まり、期間は2カ月。『FIRE』でスタートしたリハーサルは、本番と変わらない熱気と迫力に溢れていたそうです。





東京都港区麻布十番4-6−9
 ※東京メトロ南北線「麻布十番駅」より徒歩1分



●居酒屋カンちゃん

 通称「尾崎が愛したカレー」が食べれるお店。





 1988年にプロレスを引退したキラー・カーンさんが、新宿で居酒屋をしていた時に尾崎が来店し、おふくろの味の様な優しい味のカンちゃんカレーを好んで食べていたそうです。





 今は新大久保にお店を移転して営業しており、尾崎との思い出話も聴けるようです。





東京都新宿区百人町1丁目6−14 春日ビル1階
 ※JR山手線「新大久保駅」より徒歩2分



●戸塚警察署

 父親の健一さんが、尾崎豊の覚せい剤使用を通報した場所。





 そして、尾崎が朝霞の生家で逮捕されて連行された1987年12月22日から翌年正月明けにかけて拘留されていた場所でもあります。





東京都新宿区西早稲田3丁目30−13
 ※JR山手線「高田馬場駅」より徒歩10分



●東京拘置所

 尾崎豊が、1988年の正月明けから2月22日まで拘留されていた拘置所。





 懲役1年6カ月 (執行猶予3年) の判決を受けて出所した際、拘置所前の土手に500人以上のファンが集まって尾崎に向けて『存在』を合唱したそうです。





東京都葛飾区小菅1丁目35−1
 ※東京スカイツリーライン「小菅駅」より徒歩数分



●前野町のマンション

 尾崎豊が新婚時に住んでいたマンション。





 繁美さんの著書「親愛なる遥いあなたへ―尾崎豊と分けあった日々」には、玄関前で撮影した繁美さんと裕哉君の写真が掲載されています。


     


東京都板橋区前野町1丁目
 ※東武東上線「ときわ台駅」より徒歩10分



●ヒルトン東京

 所属事務所を辞めた尾崎豊が見城氏と再会した場所。月刊カドカワで連載を抱えていた頃に宿泊していたホテルでもあります。


       


 このホテルのバーで、5thアルバム「誕生」がオリコン1位になったことを当時月刊カドカワの編集長だった見城氏から聞いた尾崎は涙を流したといいます。





東京都新宿区西新宿6丁目6番2号
 ※都営大江戸線「都庁前駅」より徒歩5分



●旧個人事務所「アイソトープ」

 尾崎豊が設立した個人事務所アイソトープの事務所があったマンション。





 尾崎は、「いかにも音楽事務所めいた駅前のオフィスビルではなく住宅街に事務所を構えたい」という意向で、このマンションに決めたといいます。





 住宅用のマンションを音楽事務所として使用することや、覚醒剤の前歴もあることから、不動産屋から何軒も断られた末にようやく見つけた場所。

 



 代々木八幡駅北口から徒歩1分のところにあり、尾崎の生前の友人で俳優の吉岡秀隆が尾崎の追悼式での挨拶文をここで書いたそうです。
  





●北千住

旧尾崎ハウス

 尾崎豊が1992年4月25日早朝、泥酔状態で倒れていた場所。





 家の一角を増築して尾崎ファンのために解放されていましたが、今は改築されてファンの交流部屋も無くなってしまっています。





 当時を偲ばせるのは、ブロック塀のみになっています。






千住警察署大橋交番

 1992年4月25日早朝、酒に酔った尾崎がタクシー内で運転手と揉めて、運転手が尾崎と一緒に駆け込んだ交番。

 



【マンション】

 尾崎豊が亡くなる直前まで住んでいたマンション。





 近くにあるパスタ屋でたらこスパゲティを好んで食べていたとのこと。命日当日、尾崎が意識を失った場所でもあります。



●日本医科大学付属病院

 1992年4月25日12時6分、尾崎豊がこの世を去った場所。





 亡くなる直前、窓の外のベランダにジーパン姿の尾崎が立っていて、ガラス越しに繁美さんに向かって微笑んでいたそうです。





東京都文京区千駄木1-1-5
 ※東京メトロ千代田線「千駄木駅」より徒歩10分



●護国寺

 1992年4月25日に急逝した尾崎豊の追悼式が行われた場所。





 正午から始まる追悼式のために、午前8時には前日からの徹夜組200人を含む5000人が詰め掛け、最終的には4万人を超えるファンが護国寺に押し寄せました。





 哀悼の列が蛇のように渦巻き、多くの「尾崎豊を知らない人たち」は、この大勢の若者たちの追悼に驚愕していました。





東京都文京区大塚5丁目40−1
 ※東京メトロ有楽町線「護国寺駅」より徒歩0分



●落合斎場

 1992年4月30日午後四時、護国寺での追悼式を終えた尾崎豊の肉体はここで荼毘に付されました。




 
 尾崎の枢には、彼の全てのCD、愛用のギター、ジーパン、シャツ、サングラスなどが納められ、大好きだったシャンパンがかけられたといいます。




 ・東京都新宿区上落合3丁目34−12
  ※東京メトロ東西線「落合駅」より徒歩3分



●狭山湖畔霊園





 埼玉県にある尾崎豊が眠っている霊園。





 尾崎の父親の健一さんが丘の上からの眺めを気に入ってここにお墓を建てたそうで、命日や誕生日には全国からファンが訪れます。






●旧Cafe Artery&Vein / Edge Of Street

 尾崎没後に開設されたオフィシャルショップ「Edge Of Street」、ファンクラブ会員専用のコミュニケーション・スペース「Cafe Artery&Vein」があった場所。





 オフィシャルショップでは、CD、ビデオ、写真集、バンドスコアなど尾崎に関するものなら何でもそろっていて、多くの種類のオリジナル商品やグッズも取り扱っていました。





 カフェ内の天井や壁には尾崎愛用のモノが所狭しと飾られ、大型モニターに映し出される尾崎のライブ映像を見ながら、カクテルなどを楽しめました。





東京都渋谷区恵比寿西2-17-8 I.T.O代官山ビル
 ※東急東横線「代官山駅」より徒歩5分



●渋谷

青山学院高等部

 尾崎が高校時代に通っていた高校。





 彼は、1984年1月25日に学校を自主退学してアーチスト活動を開始。3月15日の卒業式の日に、デビューライブを行いました。

 現在の校舎は数年前に建て替えられているので、当時の面影は無くなっています。


 

 

【尾崎豊の歌碑】

 渋谷クロスタワー前のテラス。

 学校帰りの尾崎がよくここに立ち寄って夕日を眺めていたことから、三回忌の1994年4月25日に歌碑が建てられました。





 『十七歳の地図』の「歩道橋の上 振り返り 焼けつくような夕陽が今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ」という歌詞の舞台にもなっています。





 毎年、尾崎豊の命日と誕生日には全国から尾崎ファンが集まり、歌碑の前や歩道橋で、彼が遺した歌を弾き語りながら彼を偲んでいます。





東京都渋谷区渋谷2丁目15
 ※東急東横線「渋谷駅」より徒歩5分




【記事引用】「尾崎豊 少年時代」「尾崎豊 新少年時代(1)
      「尾崎豊 アイ・ラヴ・ユー―尾崎豊との激走345日
      「親愛なる遥いあなたへ―尾崎豊と分けあった日々」「尾崎豊~きっと忘れない。

 

「尾崎豊の歌碑」

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●尾崎豊の歌碑
※1994年4月25日建立

 渋谷クロスタワー(旧東邦生命ビル)前のテラスには、尾崎豊のレリーフと『十七歳の地図』の歌碑からなるモニュメントが在ります。


  


 青山学院高等部時代の尾崎が下校時によくここに立ち寄って夕日を眺めていたことに因み、三回忌にあたる1994(平成6)年4月25日に建立されました。


  


 また、ここは『十七歳の地図』の「歩道橋の上 振り返り 焼けつくような夕陽が今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ」という歌詞の舞台にもなっています。


  


 毎年、尾崎豊の命日と誕生日には全国からファンが集い、歌碑の前や歩道橋で、尾崎の歌を弾き語りながら故人を偲んでいます。


     




   人波の中をかきわけ 壁づたいに歩けば
   しがらみのこの街だから 強く生きなきゃと思うんだ

   ちっぽけな俺の心に空っ風が吹いてくる

   歩道橋の上 振り返り
   焼けつくような夕陽が
   今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ

   SEVENTEEN'S MAP









●編集後記

 享年の年月より長い没後27年、そして歌碑建立25周年を迎えた尾崎豊の命日。

 渋谷クロスタワー前の歌碑では、今年も全国各地から老若男女の尾崎ファンが集まり、彼の歌を皆で一緒に歌いながら故人を偲ぶことでしょう。

 かつて、歌声喫茶がブームになったといいますが、ギターの音色に合わせて大勢のファンと一緒に尾崎の歌を歌っていると、その楽しさが理屈抜きでわかるような気がします。

 この世を去って半世紀以上の月日が経てもなお、風化せずに支持され続ける「尾崎豊」という不世出な存在の凄さに改めて驚かされます――。







【記事引用】「尾崎豊の歌碑」「渋谷文化プロジェクト
【画像引用】「OZAKI LOVERS ~尾崎豊と愛すべきものたち~

「Hakodate Lovers5周年記念」お花見オフ会 in 五稜郭公園

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●Hakodate Lovers 5周年記念「お花見オフ会」in 五稜郭公園

 facebookグループ「Hakodate Lovers ~いいね!函館~」(通称:ハコラバ)。

 2014年4月の誕生から5周年を迎えることを記念して、今年も五稜郭公園で「お花見オフ会」が開催されます。

 在函のメンバーさん、帰省するメンバーさん、来函するメンバーさんで、五稜郭公園でお花見BBQをしてみたいという方はぜひご参加下さい。


 【日時】2019年4月28日(日)12:00~

 【場所】五稜郭公園の南側
     ※芸術ホール向かい側辺り

 【会費】500円
     ※お土産、おやつ、飲みものなどの差し入れ大歓迎

 【参加資格】Hakodate Loversのメンバーであること

   ① 参加を希望される方は、グループへ参加申請をお願いします 
   ② グループメンバーとなった後は、イベントページに参加表明願います



●前回のお花見オフ会

 総勢33名ほどの参加の賑やかな懇親会となりました。

 ジンギスカンをメインに、差し入れのウィンナーやフランクフルト、手羽先、白貝や北寄貝、ホタテやツブ、旬のアスパラガス。

 また、デザートでは、ブッセに生ヨーグルト、ドーナッツ。定番のヒジキのお稲荷さんなどなど。

 お酒も、ワイン、スパークリング、獺祭、泡盛、ビールから珈琲酒、みかんのお酒と、こちらもバリエーションに溢れた凄い量。

 五稜郭公園の人気キャラクターのゴッシーの3歳の誕生祝い、更に函館の新しい戦隊ヒーロー「イカダベッサー」の登場と盛りだくさんでした。


























     

     

     















【画像引用】 「Hakodate Lovers ~いいね!函館~
【記事引用】 「ハコラバ誕生5周年記念 お花見オフ会

ダイヤモンドダスト in KAWAYU

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●ダイヤモンドダスト in KAWAYU
※2019年1月25日(金) ~ 2月28日(木) 開催

 毎年2月に弟子屈で開催されているイベント。川湯温泉の特殊な自然環境とワックスキャンドルが幻想的な美を創出。

 レインボー・ダイヤモンドダストなど、様々な催しも開催されています。






●森の中に灯る小さな灯り

 川湯温泉の大きな自然の中、森の中にそっと小さな灯りが灯る。

 数は少ないけれど、一つひとつは小さいけれど、毎晩、人の手で150個の蝋燭に灯りを灯す。一人ひとりの思いが蝋燭の炎のゆらめき、形となって現れます――。
























photo by seiji nakamura



●編集後記

 釧路在住時の30年前位は、川湯はいつも賑わっている印象があったけど、今は周辺地域の人口減少もあって寂れつつあるということです。。

 ブログでイベントを紹介することで、少しでも人手が戻ってくれると幸いです。





 「ダイヤモンドダスト」という言葉を聞いたことはあっても、実際に肉眼で見たことがある人は少ないはず。

 現地でダイヤモンドダスト体験をするのもいいかもしれません――。






【画像引用】「中村誠司」「釧路愛好会~くしろよろしく~
【記事引用】「ダイヤモンドダスト in KAWAYU 2018」「ダイヤモンドダスト実行委員会

 

J-POP History / 1993-1997 <2>

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●J-POP History / 1993-1997 <2>

 前の記事から続く1993年から1997年のJ-POPシーンまとめ。こちらの記事では、1996年から1997年を振り返ります。



●GLAY

 1996年1月発売の8thシングル『グロリアス』で初のオリコントップ10入りすると、同年8月リリースの『BELOVED』が80万枚以上のヒット。





 同年11月リリースの『a Boy~ずっと忘れない~』後にリリースされた『口唇』では、自身初のオリコンチャート1位、累計99.4万枚のセールスを記録。

 1997年8月に『HOWEVER』がリリースされ、GLAY初のミリオンセラーとなった。





 そして、1997年10月にリリースされた初のベストアルバム『REVIEW-BEST OF GLAY』が当時の日本記録となる488万枚を売り上げ、一躍スターダムに登り詰めた。


          



●THE YELLOW MONKEY

 1996年2月にリリースした『JAM』がロングヒットとなり、累計60万枚をセールス。





 同年年7月、『SPARK』をで初のオリコントップ3入りを果たし、累計55万枚を売り上げた。同年11月には『楽園』をリリース。

 1997年4月にリリースされた『LOVE LOVE SHOW』は、ノンタイアップながら5週連続TOP10入りするなどロングヒットを記録した。





 1997年7月には、吉井が「THE YELLOW MONKEYの頂点」と話す『BURN』がリリースされ、累計90万枚を売り上げ自身最大のヒット曲となった。



●MAX

 1996年2月にリリースした3rdシングル『TORA TORA TORA』が20万枚のスマッシュヒット、ブレイクを果たす。





 1996年7月リリースの『Seventies』で初のオリコントップ10入りを果たし、同年10月の『GET MY LOVE!』からMAXとして独り立ち。

 1997年4月リリースの『Give me a Shake』で初のオリコン1位を獲得し、日本レコード大賞「優秀作品賞」を受賞した。





 その後も、同年7月の『Love is Dreaming』、同年10月の『Shinin'on-Shinin'love』などヒット曲のリリースが続いた。



●ORIGINAL LOVE

 1996年2月にリリースされた『プライマル』は、日本テレビ系ドラマ『オンリー・ユー~愛されて~』の主題歌に起用され、47万枚のセールを記録した。






●近藤真彦

 1996年2月リリースの『ミッドナイト・シャッフル』は、ドラマ『銀狼怪奇ファイル~二つの頭脳を持つ少年~』のオープニングテーマに起用され、70万枚のヒットとなった。


                


●久保田利伸 with ナオミ・キャンベル

 1996年5月リリースの『LA・LA・LA LOVE SONG』はフジ系ドラマ「ロングバケーション」の主題歌に起用され大ヒットし、ミリオンセラーとなった。






●川本真琴

 1996年5月にリリースされたデビューシングル『愛の才能』と同年10月リリースの『DNA』が30万枚超えのスマッシュヒット。

 1997年3月リリースの『1/2』はアニメ『るろうに剣心』のオープニングテーマに起用され、73万枚のセールスを記録した。


          


●奥田民生

 1996年6月リリースの『イージュー★ライダー』は、日産自動車のCMソングに起用され、50万枚のヒットとなった。






●ポケットビスケッツ

 1996年9月にリリースした2ndシングル『YELLOW YELLOW HAPPY』が120万枚の大ヒット。


          


 1997年1月リリースの『Red Angel』も110万枚のセールスを記録し、同年6月にはウド鈴木がリードボーカルと作詞を務めた『GREEN MAN』がリリースされた。


               


●爆風スランプ

 1996年9月にリリースされた『旅人よ~The Longest Journey』は、「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」の応援歌として制作され、50万枚のセールスを記録。






●今井美樹

 1996年11月に12thシングルとしてリリースされた『PRIDE』は、ドラマの主題歌の起用され、160万枚を超える大ヒット曲となった。






●PUFFY

 1996年5月にリリースされた『アジアの純真』は、いきなりミリオンセールスを記録。

 同年10月リリースの『これが私の生きる道』は、161万枚のセールスを記録して2作連続のミリオンセラーとなった。





 1997年、3月リリースの『サーキットの娘』と、同年4月にリリースした『渚にまつわるエトセトラ』もミリオンを達成した。





 1997年12月には『MOTHER』をリリースし、オリコン初登場5位となった。



●SPEED

 1996年8月にデビューシングル『BODY & SOUL』をリリース。60万枚以上の大ヒットとなった。





 同年11月にリリースした『STEADY』は130万枚のミリオンセールスを記録。

 1997年3月に『Go! Go! Heaven』、同年8月に『Wake Me Up!』をリリース後、同年10月の『WHITE LOVE』が180万以上の大ヒットを記録した。



●猿岩石

 1996年12月、秋元康のプロデュースにより、藤井フミヤ・藤井尚之兄弟提供の「白い雲のように」をリリース。

 ヒッチハイクを連想させる様な曲でミリオンセラーになり、1997年の『第39回日本レコード大賞』の新人賞を受賞。





 その後も、同年3月に『ツキ』、同年5月に『コンビニ』、同年6月に『君の青空』、同年9月に『オエオエオ!』、同年11月に『Christmas』をリリース。

 芸人だけでなく歌手としても人気を博した。



●河村隆一

 1997年2月に1stシングル『I love you』がリリースされ、オリコン4位を記録。同年4月にリリースされた『Glass』では初のミリオンセラーを達成。


          


 同年7月リリースの『BEAT』は有線大賞「最多リクエスト歌手賞」を受賞。そして、同年10月に『Love is...』をリリースし、1997年のソロ活動を締めくくった。


          


●Moon Child

 1997年5月に5thシングルとして『ESCAPE』が大ヒットし、オリコンシングルチャート1位を獲得し、一躍人気バンドとなる。


                


 同年9月には『アネモネ』、同年10月に『Hallelujah in the snow』をリリース。



●Le Couple(ル・クプル)

 1997年5月にリリースされた5thシングル『ひだまりの詩』がフジテレビ系ドラマ「ひとつ屋根の下2」の挿入歌に採用され、大ヒット。

 ミリオンセラーとなり、紅白歌合戦にも出場した。






●T.M.Revolution

 1997年7月に5thシングル『HIGH PRESSURE』をリリースし、初のオリコンベスト10入りを果たす。





 同年11月、6thシングル「WHITE BREATH」で初のオリコン1位を獲得。ミリオンセラーも記録し、紅白歌合戦に初出場した。






●エレファントカシマシ

 1997年7月にリリースされた15thシングル『今宵の月のように』が、フジ系ドラマ『月の輝く夜だから』の主題歌に起用され、41万枚のヒットとなった。






●KinKi Kids

 1997年7月にリリースされたデビューシングル『硝子の少年』は、オリコン初登場1位となり、180万枚近い売り上げを記録。

 同年11月リリースの『愛されるより 愛したい』も160万枚以上のセールスを達成した。


                


●SHAZNA

 1997年8月にリリースされたデビューシングル『Melty Love』は、オリコンチャートで初登場5位、88万枚を売り上げた。

 同年10月リリースの『すみれ September Love』もカネボウ化粧品のCMソングとなり、45万枚を売り上げた。

               



●エキセントリック少年ボウイオールスターズ

 1997年9月25日に『エキセントリック少年ボウイのテーマ』がリリースされ、50万枚のセールスを記録。

 フジ系バラエティ「ダウンタウンのごっつええ感じ」から誕生した単発ユニットで、B面の「ああエキセントリック少年」はエンディングに使用された。


          



●編集後記

 1997年から1998年にかけてJ-POPが次のフェーズに変わっていったように思います。

 小室ファミリーや他のアーチストが勢いを失う中、GLAYを始めとしたビジュアル系やKinKi Kidsを始めとしたジャニーズ勢の勢いが増していく時代に入っていきます。

 1993年から1997年にかけてのJ-POPシーンはごった煮状態だけど健全で、才能溢れる様々なバンドやアーチストたちの才能が花開いた時代だったように思います。

 令和の音楽シーンはストリーミングの時代になるという声もありますが、様々なジャンルの音楽が出過ぎて飽和状態の中、過去の音楽に回帰していくのもありかもしれません――。



【記事引用】 「Wikipedia

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