Quantcast
Channel: MKB2025
Viewing all 509 articles
Browse latest View live

majiro presents 誰がために唄う尾崎の調べ 〜15一会 (イチゴイチエ) 〜

$
0
0


●majiro presents 誰がために唄う尾崎の調べ ~15一会(イチゴイチエ)~
※2018年4月22日(日)開催 / 池袋LIVE IN ROSA

 尾崎豊が遺した曲たちをライブバンド形式で披露する尾崎豊トリビュートライブ。

 今回は、尾崎のバックバンド「Heart Of Klaxon」から、ギターの江口正祥とサクソフォンの阿部剛が特別出演。

 尾崎豊の後ろで尾崎の音楽を奏でていた彼らのプレイを生で聴けるチャンス!






【会場】池袋LIVE IN ROSA
    東京都豊島区西池袋1丁目37−12 ロサ会館

【時間】開場 15:30/開演 16:00

【チケット】

 <一般>
 前売券3,000円 (+1ドリンク料金500円)
 当日券3,500円 (+1ドリンク料金500円)

 <高校生まで>
 前売券2,000円 (+1ドリンク料金500円)
 当日券2,500円 (+1ドリンク料金500円)

 ※チケットのご予約はこちら





【出演】(※敬称略)
 
 江口正祥(元Heart Of Klaxon・ギター)
 阿部剛(元Heart Of Klaxon・サクソフォン)

 cookies(vo.いじっち)
 KLAXON(vo.オガシー)
 Rest of the Stories(vo.りょ〜た)
 とりあえず生とメケメケビブーティ(vo.しんに)
 ゆうや
 jin☆

 
●「Beat the Emotion~歌おうぜ、尾崎。~」

 2017年8月12日、名古屋のロックバーUKにて、江口氏と阿部氏を招いた尾崎豊トリビュートライブが開催された。

 チケットは前売りで完売し、尾崎亡き後、彼の歌を歌い継いできたトリビュートバンドとのコラボ演奏に多くのファンが大興奮!








●編集後記

 ギターの江口正祥は、尾崎豊のバックバンド「Heart Of Klaxon」のギタリストとして、1984年3月のデビューライブから尾崎を支え続けた生き証人。

 サクソフォンの阿部剛は、1985年5月から始まった「TROPIC OF GRADUATION TOUR」からHOKに参加。

 江口氏も阿部氏も、尾崎にとっては幾多のメンバー変遷の中、HOKのメンバーとして自身の音楽を支え続けてくれた戦友なのでしょう――。





【記事/画像引用】「majiro presents 誰がために唄う尾崎の調べ ~15一会(イチゴイチエ)~


SL冬の湿原号

$
0
0


●SL冬の湿原号
※2018年1月27日(土)~2月25日(日)運行

 JR北海道が冬季限定で、釧路駅-標茶駅間で運行しているSL列車。





 2000年1月8日から運行しており、白銀の釧路湿原を豪快な蒸気の煙を上げて、汽笛を鳴らしながら一日一往復しています。


        


 車内では、釧路湿原やタンチョウなどのガイドを楽しめ、売店で販売されているスルメをダルマストーブで焼いて食べることもできます。





 全車指定席のため乗車前の予約が必要で、料金は乗車券+指定席券の1890円(子供は半額)。全国のみどりの窓口、旅行センター、えきねっとで購入可能。


         



●編集後記

 国交省から要請された自動列車停止装置(ATS)の取り付けが技術的に難しく、函館やニセコなどのSLが廃止になり、道内唯一のSLとなった「SL冬の湿原号」。

 白銀の釧路湿原を力強く疾走するSLに乗りたい方、見たい方は釧路へGO!






【画像引用】「釧路観光コンベンション協会」「釧路愛好会~くしろよろしく~
【記事引用】「SL冬の湿原号

「尾崎豊 追悼式 / 1992.4.30」

$
0
0


●享年と同じ年月

 今年、尾崎豊の享年と同じ26年の年月が流れました。

 彼の追悼式の様子が描かれた「Say good-by to the sky way」「尾崎豊 夢のかたち」の2冊を参考にして、当時の様子をまとめてみました――。

 
●尾崎豊追悼式
 
 1992年4月30日木曜日。

 昨日とは打って変わったように肌寒い朝だった。空は重たい雨雲で覆われて、今にも泣き出しそうな子供の顔のように見えた。

 深夜に降りだした雨はいったん止んだが、朝になってまた降り出してしまった。


【溢れ返る人々】

 まるで、真冬に逆戻りしたかのような冷たい風が、暗い扉の隙間から忍び寄ってくる。

 黒い喪服姿の女性や、普段着姿の男性グループ、白い花束を抱えたカップルは誰も皆、無口にうつむいていた。

 自分ではわからない何かの力に背中を押されながら歩いているようにも見える。

 営団地下鉄・有楽町線の護国寺駅へ向かう電車の中で、停車の度に追悼式に参列すると思われる人々が続々と乗り込んでくる。

 「こちら側の出口は通れません!あちら側へお回り下さい!」

 「護国寺へ行かれる方は、もう一つ手前の駅で下車し直して下さい!尾崎豊さんの葬儀の参列者の列の最後尾は、東池袋と江戸川橋のどちらの駅にもあります!」

 他の喪服姿の人達と並び、一斉に護国寺の駅で下車すると、駅のホームで駅員がメガフォンを通して叫んでいた。ヒビ割れたような乾いた大声だった。

 ホームには、身動きができないほどの人間が溢れ返っていた。

 そして、駅員の言う「こちら側」も「あちら側」も、全く見当がつかないほどの人垣に埋もれていて、立ち往生するしかなかった。


【4万人を超える参列者】

 何度も繰り返される駅員の指示に従って、一旦下車した人達は電車に乗り直したり、反対側の出口へと渦を巻いて移動してゆく。

 文句を言う人は一人もいない。先を急ごうと人波を押しのける人もいない。

 黙々と下を向いて歩く人。不安気な瞳を泳がせて人波についてゆく人。何か重大なイベントに出向くかのように緊張している人。友人や恋人に肩を抱かれて倒れそうになりながら歩く人。

 それぞれが自分の気持ちを整理しかねているようにも見えた。

 きっと尾崎は、自分の最期がこんな形で騒がれ、掻き分けなければ辿り着けない人波を周りに作られようとは、予想だにしていなかっただろう。

 正午からの追悼式のために、午前8時には徹夜組200人を含む5000人が詰め掛け、最終的には4万人を超える人々が、たった一人の男のために押し寄せたのだから。

 雨は追悼式が始まる正午にはさらに強くなって、全ての世界に叩きつけるように降り続いていたが、ファンの出足は衰えなかった。

 傘の行列は、護国寺を起点に北はサンシャインシティを越える約2.5キロ、南は江戸川橋を越える約1キロに広がり、3.5キロの長さに連なった。

 彼らはみな、学校を休み、仕事を休み、子供を預け、友人との約束を取り消し、確かな自分の意志でやってきたのである。


【『卒業』の大合唱】







 正午から、護国寺本堂前の祭壇で追悼式が始まった。

 本堂前に設置された巨大なアストロピジョンに彼のライブ映像が映し出されており、映像の中の尾崎が今にもギターを持って飛び出してきそうな錯覚に陥る。

 人々はその映像をじっと見つめながら、次々に献花を続けた。

 だが、カーネーションを献花したファンたちはなかなかその場を立ち去ろうとしない。何かに縛りつけられたように動けないでいる。

 そのために人の流れは止まり、後に続く献花の列は遅々として進まない。

 それでもファンの間から不満の声は出なかった。激しい雨に打たれて、ある者は献花の順番を待ち続け、ある者は足りないカーネーションを次に待っているファンに渡してあげようとしている。

 そして、しばらくすると、誰かが『卒業』を歌い始め、誰もタクトをふらないのに、4万人のファンが大きくはないがためらわず、はっきりと歌い、それがいつしか美しい大合唱になった。

 この追悼式をじっと見つめていた葬儀社のある関係者はこう咳いた。
 
 「こんなことは初めてです。大きな葬儀は何度も経験しましたが、ここまで大きな葬儀も初めてならば、たばこの吸い殻ひとつ落ちていない整然とした葬儀も初めてです。私は感激しました」

 彼は60歳を過ぎた年齢だったが、「これを機会に尾崎さんのCDを聴いてみることにします。これだけ多くの人たちを厳粛にさせる尾崎さんの歌をどうしても聴いてみたい」と言った。
 
 アストロビジョンに映し出された尾崎豊の遺影に吸い寄せられるようにして、それぞれの人々がうごめいていた。
 
 「間隔を開けずに詰めて並んで下さい!傘はささないで!」
 
 そんな警備員の指示に従い、傘をささずにずぶ濡れになって立ちつくすファン達の唇は、何かを決意したように蒼ざめて震えていた。
 

【告別式】

 記帳場所は四つに分けられ、それぞれ「遺族」「友人」「音楽関係者」「マスコミ関係者」と大きな文字で書かれていた。
 
 控え室へ曲がる通路の右手正面に、彼の遺影が高々と掲げられ、両脇に愛用のギターを立てかけた棺が置かれている広い部屋が目に入った。

 入口の扉の周りには、関係者や友人からの花輪が飾られていた。

 パイプ椅子がたくさん並べられた関係者専用の控え室には、彼の遺影を常時映し出しているモニターテレビが前後に二つ置かれ、静かな音楽が流れていた。
 
 葬儀が始まる旨のアナウンスが入った。
 
 正午を少し回っていた。まわりを見渡すと、ぎっしりと関係者がつまった控え室のあちらこちらからすすり泣きが漏れていた。

 マイクを通した合図で一斉に頭を垂れ、沈黙を保つ。

 一分間の黙祷が済むと、「故人の思い出深い曲をお聴き頂きたいと思います」と、彼の生前のヒット曲『I LOVE YOU』が静かに流れ出した。

 この曲は、テレビドラマ「北の国から」で挿入歌としても、またストーリーの中にも盛り込まれて使用されている。

 1991年春にはJRのコマーシャルソングとしても使用され、リバイバルヒットを果たしている。

 すすり泣きが漏れる中、初めに葬儀委員長であるソニー・ミュージックエンタテインメントの松尾修吾社長の挨拶があった。


【風になった少年】

 松尾氏は「風になった少年」と題し、弔辞を読み上げた。その内容は、要約すると次のようなものであった。

 「風になった少年。紺色の制服姿の君と初めて会った時は、まだ幼さの残る礼儀正しく、無口な少年だった。まだ高校生だった。

 うつむきかげんではにかんだ様子で、周囲を警戒するような目で我々を見ていた。

 君が「僕は自分の悩みや生活、心の奥にあるものを歌いたい。そんなこと日本でもできますか」と尋ねたので「君がやればいい」と答えたら、初めて大きな真っ白い歯を見せてくれました。

 君は与えられたフィールドを全力で走った。そのフィールドは君にとって狭すぎたのかもしれない。

 君は無謀と思えるほどの全速力で十年間を駆け抜け、疲れも知らずに飛び続けて、とうとう風になってしまった気がする。(中略)

 君が遺した6枚のアルバム、音楽的業績は不滅のバイブルになることは必至だろう。君は「人は愛に脆く」と歌った。

 今、われわれは脆き、心から冥福を祈るだけである。さようなら」


【吉岡さん挨拶】

 次に、親友でもある俳優の吉岡秀隆さんの挨拶が続く。吉岡さんは途切れがちなか細い声で、まるで目の前に尾崎がいるかのように語りかけ、つぶやいた。

 「尾崎さん……。尾崎さんに書く最初の手紙が、まさか弔辞になるなんて、思ってもみませんでした。今、アイソトープの尾崎さんの部屋で、これを書いています。(中略)

 人は哀しみに出会ったとき、眠れない日々が続くということを知りました。尾崎さんは、どれほど眠れない夜を過ごし、涙を流したことでしょう。

 尾崎さんは『人が評価されるのは、その人が死んだ時なんだろうな』と言っていましたね。転んでも転んでも走り、立ち上がっていく尾崎さんが好きでした。

 自分の一番生きたい時間を自分らしく生きた尾崎さんを尊敬しています。誰が何と言おうと、僕の知っている尾崎さんは、誰からも傷つけられることなく僕の中に生き続けています。

 尾崎伝説は、まだ始まったばかりです」

 吉岡さんの飾らない言葉に、一層すすり泣きが激しくなった。吉岡さんも言葉を詰まらせ、涙を堪えていた。


【茫然自失のHOK】

 遺族、友人などの献花が済むと、十分間の休憩が入った。

 控え室に座りきれない人達が、廊下にまで溢れた。尾崎の元バックバンド・ハートオブクラクションのメンバーもいた。

 リーダーのR氏は相当ショックを受けているようで、目を真っ赤に腫らしながら茫然自失の表情だった。
 
 「祈ったよ。『おまえがオレを憎んでいても、愛していなくても、たとえ一方的な愛だとしても、オレはおまえを愛してる。だからもう、何も考えないで静かに、安心して安らかに眠れ』って。そう祈ったから・・・」

 メンバーのZ氏はうつむいた。耳たぶが朱色に染まっていった。

 「アイツは、オレ達がどれほどアイツのことを愛してたかなんて、ちっともわかっちゃいなかった。

 何年かかってでもいい、オレたちが愛していることをアイツに伝えてやりたかったよ。誤解なんだ。オレたちはアイツを裏切ったりなんかしてない。

 本当なんだ。それを伝えたかった。

 だけど、もうアイツは死んじまった。もう・・・。だから、言ってやったんだよ。おまえを愛してるって。天国のアイツにさぁ」


【兄・康さん挨拶】

 彼の曲が流れる中、関係者が次々と献花をしてゆく。

 『太陽の破片』、『ふたつの心』。『優しい陽射し』、『太陽の瞳』、『MARRIGE』、『ダンスホール』などが繰り返し流される。

 兄の康さんは、元裁判所書記官らしく、聡明なはっきりとした口調で最後に謝辞を述べた。

 「デビュー前は、深夜に宇宙、宗教、学校のことなど、とりとめのないことをよく話した。事の本質を突き止めようとする面や、内面を真っ直ぐ凝視しようとするところがあった。(中略)

 26歳という死はあまりにも早かったが、彼はその生涯を全力疾走で駆け抜け、天寿を全うしたと思う。豊の見つめたものは、全て作品の中にあります。

 彼の伝えたかったことを、それぞれの胸で解釈して下さい」

 尾崎豊の枢には、彼の全てのCD、愛用のギター、ジーパン、シャツ、サングラスなどが納められ、大好きだったシャンパンがかけられた。

 午後2時半。列席者全員の献花が終わると、出棺。

 霊枢車に枢が納められると、「出棺です」という大きな声とともに、鈍い鐘の音が突然「ガンガンガンガーン」と大きく響き渡った。

 その時、見守っていた列席者の間から悲鳴のような大きな泣き声が上がり、別れを惜しむファンが一斉に霊柩車に押し寄せた。


【永遠の1/2】

 当日、警備に当たった大塚署の調べでは、参列者の数は約3万5000人。
 
 だが、護国寺の入り口が締め切られて追悼式に参列できず、路上で立ちつくし、泣き叫び、崩れ落ちた若者達の数を加えれば、その数は4万人以上になった。

 多くの「尾崎豊を知らない人たち」は、この大勢の若者たちの追悼に驚愕していた。

 尾崎豊の歌を通して何かを得た者達は、例え彼の肉体が滅びようとも、それぞれの胸の中で「尾崎豊」という名前に隠された情熱や勇気を絶やさないことだろう。

 彼らがいくつになろうとも、その根底に流れる精神は同じだからである。

 そして、1992年4月30日・午後4時。多くの人々の胸に刻まれ続けたアーチスト・尾崎豊の肉体は、東京都新宿区にある落合斎場で荼毘に付され、永遠に帰らぬ人となった。

 彼が存在した1/2にあたる精神のみを遺して――。



●編集後記

 「KLAXONは鳴り止まず」。

 これは、尾崎豊追悼式に参列したファンが、当日の様子と、その後を記録したノンフィクション・ドキュメンタリー作品です。

 この作品には、追悼式当日、ニュース報道では紹介されなかった尾崎ファン同士による心温まるエピソードやファンの感情の変遷が事細かに記されています。
 
 また、突然心の支えを失って絶望に打ちひしがれているファンの姿を見て、追悼コンサートを企画し、実現へ向けて奔走した熱い尾崎ファンの歴史を知ることができます。

 没後四半世紀以上の月日が流れても、彼の音楽が風化しない理由。

 それは、彼の音楽そのものの魅力もありますが、突然彼を失ったショックに負けずに、彼の音楽を後世に伝え続けてきたファンのおかげでもあることでしょう――。
 
 
 
【記事引用】 「Say good-by to the sky way」 「尾崎豊 夢のかたち / 柴田曜子 (文春文庫)
【画像引用】「GB SPECIAL EDITION yutaka ozaki 1983-1992

 

hide没後20年

$
0
0


●hide没後20年

 今年、X JAPANのhideが亡くなって20年ということで、三浦霊園にあるhideのお墓を初めて訪れてみたので、紹介します――。


●最寄り駅

 最寄り駅は、京浜急行電鉄久里浜線「三浦海岸駅」。

 



 駅前から京急バスが出ていて、剱崎行き、三崎東岡行きのどちらのバスに乗っても三浦霊園まで行けるようです。(2018年3月撮影)

 土・日・祝は三浦海岸駅から無料送迎バスが出ています。


          



●花屋

 hideのお墓に献花する花をこちらで購入するファンが多いようです。店内の写真を撮る時は、店主にひと言確認しましょう。

 <フラワーショップ三浦花園>
 住所:神奈川県三浦市南下浦町上宮田3254









●三浦霊園への道のり

 駅前から出てる京急バスに乗り、三浦霊園入り口で下車。三浦海岸を左手に眺めながら、10分ほどで着きます。

 下車した後は、右手に見えるのどかな田園風景を15分ほど歩くと到着です。









 <三浦霊園>
 住所:神奈川県三浦市南下浦町金田
 京急バス「三浦霊園入り口」下車徒歩15分


●hideのお墓への道のり

 hideのお墓は6区にあります。

 案内版の前の坂を上って最初の曲がり角を左折。突き当たりのT字路を左折すると右斜めに見える区画です。









●hideのお墓

 hideの命日は2ヶ月も先なのに、墓前にはファンが献花した煌びやかなお花で溢れていました。

 YOSHIKIやTOSHIもここで毎年お墓参りをしていて、LIVE DAMスタジアムの『La Venus』の本人映像にもその時の様子が収められています。
 








          

          



●マナーを守った節度あるお参りを

 遺族の好意でファンに開放されているhideのお墓ですが、マナーを守らないファンもいるとか(怒) マナーは守りましょう。






●編集後記

 hideが亡くなって今年で20年。

 98年の命日の日は、東京ドームの3類側内野席で巨人戦を観戦中で、高橋由伸のプロ入り初の満塁ホームランが飛び出したりして、巨人圧勝ムードのお祭り騒ぎ状態。

 その時突然、バックスリーンの電光掲示板にhide死去のニュースが。しかし、当時はGLAYに大ハマリしていたので特に感傷はなし。

 その後、曲を聴いたりライブ映像を見るうちに、煌びやかなロックスターを体現したライブパフォーマンスに魅了されてファンになったけど、時すでに遅し。。

 尾崎豊とともに、ライブに行きたくても永遠に行けないアーチストになってしまいました――。

 

【記事引用】「BARKS

宇宙刑事そろい踏みの地 / 新宿

$
0
0


●宇宙刑事そろい踏み
 
 1980年代前半、当時の子供たちが夢中になった宇宙刑事三部作

 宇宙刑事シャイダーの最終回で放送された三人の宇宙刑事のラストアクションの場所が新宿にあるということで、訪れてみました――。


●舞台は都庁前

 最終回は、フーマが滅び全銀河に平和が訪れ、かつて地球を守って闘ったギャバン、シャリバン、シャイダーが地球で会う約束をしたという設定。





 その舞台は、都庁の第一本庁舎と第二本庁舎間のふれあい通りに架かる陸橋。





 都庁や議事堂ができたり、橋の欄干や歩道が新しいデザインに変わったり、街路樹が生い茂ったりと様変わりしていますが、当時の面影は残っています。






●空の光を眺めるシーン

 ビル間の空に光が現れて、「三人のコンバットスーツ姿を地球の子供たちに見せてあげたらどうだ」と語りかけるシーン。





 撮影年が1985年なので、劇中では都庁や議事堂はまだ建っていません。

 今は、議事堂への渡り廊下が出来ていて視界が狭くなっているので、新宿中央公園付近から眺めるとちょうどいい感じになります。


      



【変身シーン (ギャバン・シャイダー) 】










 ギャバンとシャイダーは、欄干から北側を眺める感じ。撮影当時は都議会議事堂と街路樹が無かったので、ちょっとわかりずらいです。





【変身シーン (シャリバン) 】






 シャリバンは、欄干から南側を向くと撮影シーンになります。こちらも撮影当時に比べて街路樹がかなり生い茂っています。





・都庁前の陸橋
 東京都新宿区西新宿2丁目


●宇宙刑事そろい踏みのシーン

 コンバットスーツに変身した3人がポーズを決めるシーンは、新宿野村ビル前の広場です。







 ちなみに、この階段は電撃戦隊チェンジマンのオープニングでも使われています。




      




●建物前でポージング

【ギャバン】



      


【シャリバン】






【シャイダー】





 
 この場所は、超人機メタルダーのオープニングでも使われているようですが、銀色の風車のオブジェは残念ながら撤去されています。





      






●宇宙刑事そろい踏み

 そして、最後に三人の宇宙刑事によるラストアクション。





 新宿野村ビルの前にある広場の階段前にあるラインに沿って、ギャバン、シャリバン、シャイダーが一列に並んでポージングを決めています。





 子供の頃に憧れたヒーローが立った同じ場所に立つと、今まで経験したことのない不思議な感慨を覚えます――。


      



・新宿野村ビル
 東京都新宿区西新宿1-26-2


●編集後期

 日本人が戦後、戦争を好まない平和的な民族性になったのは、特撮ヒーロー番組の影響が大きいような気がします。

 人格形成期に、ウルトラマンや仮面ライダー、スーパー戦隊、メタルヒーローなどから、勧善懲悪の教育を受けているためです。

 世界平和の実現には、特撮ヒーロー番組を世界に輸出して、世界の子供たちに勧善懲悪教育を行うのが効果的なのかもしれません――。
 






【画像引用】 「宇宙刑事シャイダーvol.10」「東映特撮ファン大賞2016

「尾崎集会2018」

$
0
0
 
 
●尾崎集会2018
※2018年5月27日開催

 1992年秋から6年間、尾崎豊のファン有志によって名古屋で続けられていたイベント。

 尾崎ファンたちが集まって、尾崎への想いを共有し、尾崎の曲を思い思いに熱唱する、ただそれだけの特別な時間。

 2016年に復活し、今年も開催決定!


 【日時】2018年5月27日(日)14:00~

 【場所】希望の広場公園 希望の泉前 (名古屋)
     愛知県名古屋市中区栄3丁目25

 【参加】自由集合、自由解散



●編集後記

 名古屋は尾崎豊が生前、東海ラジオ「誰かのクラクション」を放送しており、岐阜に尾崎家の実家があって親戚も多い街。

 また、独立後のマネージャー・鬼頭さんの実家から個人事務所設立のための運転資金資金を得た尾崎再スタートの地。

 周りに尾崎ファンがいなくて嘆いている人は、尾崎集会に行けば日頃溜め込んでいる尾崎への想いを発散できること間違いなし!


【記事/画像引用】「OZAKI LOVERS~尾崎豊と愛すべきものたち~

YUTAKA OZAKI CONCERT TOUR 1992 “放熱への証” Confession for Exist

$
0
0


●YUTAKA OZAKI CONCERT TOUR 1992 “放熱への証” Confession for Exist
※1992年6月11日開幕

 アルバム「放熱への証」リリース後に予定されていた放熱への証ツアー。

 6月11日に開幕し、11月29日まで5カ月間のロングツアーだったが、1992年4月25日の尾崎豊の急逝に伴ってツアーは中止に。

 しかし、チケットの払い戻しはほとんど無く、コンサートが予定されていた各会場には、開演日に集まった尾崎ファンの歌声が響いていたそうです。

 既に発表されていた日程は、下記の通り。 


【6月】

 6月11日 大阪城ホール
 6月16日 日本武道館
 6月17日 日本武道館
 6月19日 名古屋国際会議場 (センチュリーホール)
 6月20日 名古屋国際会議場 (センチュリーホール)
 6月24日 福岡サンパレス
 6月25日 福岡サンパレス
 6月27日 鹿児島市民文化ホール
 6月29日 徳島市文化センター
 6月30日 香川県県民ホール


【7月】

 7月2日 高知県民文化ホール
 7月3日 松山市民会館
 7月5日 徳山市文化会館
 7月6日 倉敷市民会館
 7月19日 熊本市民会館
 7月20日 佐賀市文化会館  


 ここまでが公式に発表されていたツアー・スケジュール。その後のスケジュールは、こんな感じだったようです。

 
 7月22日 北九州厚生年金会館


【8月】

 8月2日 群馬県民会館
 8月8日、9日 広島厚生年金会館
 8月11日 岡山市民会館
 8月12日 福山市民会館
 8月13日 姫路市文化センター
 8月18日 新潟県民会館
 8月21日 千葉市民会館
 8月24日 茨城県民文化センター
 8月26日 郡山市民文化センター
 8月27日 山形市民会館
 8月29日 秋田文化会館
 8月30日 青森市文化会館


【9月】

 9月2日、3日 尼崎アルカイックホール
 9月5日、6日 大阪厚生年金会館
 9月8日、9日 静岡市民文化会館
 9月13日 岩手県民会館
 9月15日、16日 仙台サンプラザホール
 9月17日 宇都宮市文化会館
 9月21日 北海道厚生年金会館
 9月23日 帯広市民文化ホール
 9月24日 釧路市民文化会館


【10月】

 10月14日 長野県県民会館
 10月15日 富山市民会館


 この後も、11月までツアーは続く予定でした。

 ツアー・ファイナルの11月29日の尾崎豊・27歳の誕生日には、東京ベイNKホールでのファンクラブ限定ライブが予定されていたそうです。







●編集後記

 ツアー2日目に予定されていた尾崎豊初の日本武道館でのコンサートでしたが、急逝によりその夢は叶わず。。
 
 1986年2月に武道館で開催されたハウンドドックのコンサートに吉川晃司と飛び入り参加し、「いつかここで自分のコンサートを開きたい」と思っていたはずで、無念でなりません。

 「OZAKI20」で放熱への証ツアーの全スケジュールが展示されていたけど、一見で素通りしてしまったのを今更ながら後悔...

 誰かメモった方がいましたら、連絡下さい――。



【記事/画像引用】 「OZAKI50

WOW WOW WOW / PEACE BIRDS ALL-STARS

$
0
0


●西日本豪雨の応援ソング

 「広島ピースコンサート」のエンディングで、PEACE BIRDS ALL-STARSによって歌われたこの曲を災害復興に奮闘している方達に捧げます――。







●WOW WOW WOW
※HIROSHIMA 1987-1997テーマソング
  
 作詞:松井五郎 / 作曲:玉置浩二 / 編曲:安全地帯
 歌:PEACE BIRDS ALL-STARS
 
  
 扉のむこうの青い空を
 教えてくれるね きみの声は
 Wow Wow Wow いつも
 
 違った地図ばかりみているけど
 ほんとはおんなじ場所にいるさ
 Wow Wow Wow いつも
 
 いっしょにいられる この気持ちに
 素敵な名前をつけておこう
 Wow Wow Wow 愛を
 
 大きくひろげた小さな手に
 誰かがかならずむすばれてる
 Wow Wow Wow いつも
 
 きっとなにかが きっとできるさ
 きっといますぐ
 
 ※悲しいときにもくじけないで
  さみしいときにも その心に
  Wow Wow Wow 愛を
 
 ひとりじゃないから忘れないで
 涙にまけない笑顔みせて
 Wow Wow Wow いつも
 
 ※※さあ Wow Wow Wow 心に
   Wow Wow Wow いつも
   Wow Wow Wow 愛を
 
 ※Repeat

 ※※※ラララ…………(keep on smiling)
    ラララ…………(keep on shining)
    Wow Wow Wow 愛を
 
 ※※※Repeat 3times
 ※※Repeat








●編集後記

 世界で唯一の被爆国である日本。

 1986年から10年間、その被爆地である広島から核廃絶を訴えるイベント「広島ピースコンサート」が開催されていました。

 1987年にこのコンサートに参加した安全地帯。ボーカルの玉置さんが、エンディングのためだけに楽屋で即興で作った曲なのに、歌詞や楽曲の完成度が凄い!

 広島だけなく西日本全体の復興のために、アーチストが集まって「西日本復興コンサート」のようなイベントを開いてほしいものです――。







【記事引用】「広島ピースコンサート」 「WOW WOW WOW / PEACE BIRDS ALL-STARS

 

尾崎豊 “伝説のダイブ”

$
0
0


●アトミックカフェ・ミュージック・フェス '84
※1984年8月4日開催
 
 日比谷野外音楽堂で1984年に初開催された反核・脱原発フェス。

 このコンサートで、まだ新人アーチストだった尾崎がのちに伝説となる衝撃的なパフォーマンスを披露した――。

 
●伝説のダイブ

 ギターを抱えて、朝霞の自宅から電車に乗って会場入りした尾崎。
 
 7番目に出演した彼は、タバコを吸いながらステージに登場し、ピアノの前に座って歌い始めた。1曲目の『反核』は、のちの『核 (CORE) 』の原曲。




 
 そして、2曲目の『Scrambling Rock'n' Roll』の曲中に、のちに伝説になる事件が起きた。
  
 演奏中に、 高さ7mの照明イントレによじ登り、そこから飛び降りて左足を骨折してしまったのだ。一旦ステージ裏にはけたが、病院には行かずにステージを続行。


      


 最初は片足を浮かせながら歌っていたが、次第にスタッフに抱えられて歌うようになり、最後はステージに這いつくばって激痛に耐えながら予定曲を歌い切った。




 
 その後、本人の希望もあり、出自した自衛隊中央病院に搬送され、右蹠捻挫・左踵骨圧迫骨折で全治3カ月と診断される。

 左踵の骨が一部陥没しており、整復手術のため2週間入院することになり、翌日の吉川晃司とのジョイントライブも含めて、以降のスケジュールは全て白紙となった。
  
 退院後は松葉杖での生活が続き、ギブスが取れたのは11月下旬、ボルトを抜いたのは翌年2月だったという。
 
 
 <SET LIST>
 
  1. 反核
  2. Scrambling Rock' n' Roll
  3. 十七歳の地図
  4. 愛の消えた街






【記事引用】 「OZAKI50
【画像引用】 「尾崎豊 十代の真実」「Freeze Moon
 
  

広島平和記念資料館

$
0
0


●広島平和記念資料館
※1955年8月24日開館

 広島平和記念公園敷地内にあり、広島原爆の惨状を後世に伝えるために建てられた施設。

 国指定の重要文化財である西側の「本館」と、東側の「東館」からなり、観覧は東館から入場して本館から退出するコースになっています。


●東館

 東館は、原爆投下までの広島市の歴史や、原爆投下の歴史的背景に関する展示が中心。











 「熱線と爆風の影響」と題された原爆投下前と投下後の広島の街の様子を見比べると、原爆の威力とその被害の凄まじさをよく理解できます。




 
【原爆投下前と投下後】















●渡り廊下

 東館と本館をつなぐ渡り廊下には、原爆に関する本が販売されています。







●本館

 本館では、広島原爆の人的・物的被害に関する展示が行われています。





 入り口を入ってすぐ右には、熱線で全身の皮膚を垂れ下らせながら、炎の中をさ迷う被爆者の等身大ジオラマが設置されています。







 その向かい側には、原爆投下直後の壊滅した広島市街地の縮小模型があります。




       


 その他にも、広島に投下された原子爆弾のレプリカや熱線で歪んだビン、被爆者が描いた被爆当時の絵などが展示されています。
























●編集後記

 広島平和記念資料館で強烈に印象に残ったのは、東館の「熱線と爆風の影響」と題された原爆投下前後のジオラマと、本館の「被爆再現人形」のマネキン。

 この2つを見るだけでも、原爆や戦争の恐ろしさや悲惨さを十分に体験できます。

 人間というのは喉元過ぎれば熱さを忘れる生き物で、これが歴史が繰り返される所以でもあり、戦争の恐ろしさや悲惨さを毎年再認識し続けることが不戦と平和に繋がります。

 日本人もそうですが、とくに海外の紛争地域の人たちに来館してほしいものです――。



【記事引用】「広島平和記念資料館」「Wikipedia

OZAKI LOVERS ~尾崎豊と愛すべきものたち~

$
0
0


●OZAKI LOVERS ~尾崎豊と愛すべきものたち~
※2014年4月27日開設
 
 facebook最大規模のメンバー数を誇る尾崎豊のグループ。

 「尾崎豊が遺したもの一つ一つを確かめながら、そして、それを理解しながら、語り継ぎ、歌い継いで未来へと繋げていく」ことを趣旨としています。

 尾崎豊の曲を歌い継ぐトリビュートバンドのイベント告知などもあり、今では尾崎の一人息子の裕哉に関する投稿も増えてきています。

 また、命日や誕生日になるとたくさんの投稿で埋め尽くされ、尾崎豊に対する思いが連綿と続いていることを実感できます――。


 <URL> https://www.facebook.com/groups/yutaka.ozaki/





●編集後記

 尾崎豊の没後半世紀以上が経ち、ネット上の尾崎豊に関する交流の場のほとんどが荒れ果て寂れてしまっています。

 そういった状況の中、「OZAKI LOVERS」はネット上で尾崎豊と尾崎ファンを一番身近に感じられる場所なのかもしれません。

 実質4年ほどの音楽活動だったにも関わらず、四半世紀の年月が流れても支持を失わない“尾崎豊”という存在の魅力の謎を解き明かしたいものです――。



【画像引用】 「OZAKI LOVERS ~尾崎豊と愛すべきものたち~

Hakodate Lovers ~いいね!函館~

$
0
0


●Hakodate Lovers ~いいね!函館~
※2014年4月26日開設

 facebook最大規模のメンバー数を誇る函館グループ。

 函館ファンによる函館名物や観光名所などの旅行投稿や、函館市民による日常の何気ない投稿を通じて、函館を身近に感じられます。

 ゴールデンウィークには五稜郭公園でBBQオフ会も開催されています。


 <URL> https://www.facebook.com/groups/hakolaba/






●編集後記

 北海道新幹線の開業で、新しい建物の建設ラッシュの様相を呈している函館。

 そんな中、市民に親しまれたデパートの棒二森屋が150年の歴史に幕を下ろそうとしているなど、街並みが大きく変わりつつあります。

 函館の転換期をFBを通じて見つめ続けるのもいいかもしれません――。





 
【画像引用】「Hakodate Lovers ~いいね!函館~

 

釧路愛好会 ~くしろよろしく~

$
0
0


●釧路愛好会 ~くしろよろしく~
※2014年7月13日開設
 
 facebook最大規模のメンバー数を誇る釧路のグループ。

 釧路ファンによる釧路名物や観光名所などの旅行投稿や、釧路市民による日常の何気ない投稿を通じて、釧路を身近に感じられます。

 2018年8月1日からLCCのピーチによる釧路-関西線の就航も始まり、今、静かな注目を集めつつある釧路を知るのに最適なグループです。
 

 <URL> https://www.facebook.com/groups/kushirolovers/




●編集後記

 今年2月に苫小牧市に人口で抜かれ、半世紀ぶりに道内人口4位に転落した釧路市。
 
 雇用と教育環境の問題による人口減少が止まらず、生活保護受給率も道内で突出して多く、なかなか状況の好転を見いだせない状況です。

 国の観光立国ショーケースに選定され、観光客数やふるさと納税額数が右肩上がりの増加を続けていることが明るいニュースで、そこから活路を見出してほしいものです――。



【画像引用】「釧路愛好会 ~くしろよろしく~

majiro presents 誰がために唄う尾崎の調べ 〜15一会 (イチゴイチエ) 〜

$
0
0


●majiro presents 誰がために唄う尾崎の調べ ~15一会(イチゴイチエ)~
※2018年4月22日(日) / 池袋LIVE IN ROSA

 毎年開催されている尾崎豊の曲たちをライブバンド形式で披露する尾崎豊トリビュートライブ。

 今回は、尾崎のバックバンド「Heart Of Klaxon」から、ギターの江口正祥とサクソフォンの阿部剛が特別出演。

 大いに盛り上がったイベント当日の様子をご紹介します――。


●元Heart Of Klaxon

【GUITAR 江口正祥】


        【SAXOFONE 阿部剛】
        


●cookies<Vo.いじっち>






●KLAXON<Vo.オガシー>






●Rest of the Stories<Vo.りょ~た>

        




●Jin☆






●セッション










●打ち上げ






【出演】(※敬称略)
 
 江口正祥(元Heart Of Klaxon・ギター)
 阿部剛(元Heart Of Klaxon・サクソフォン)

 cookies(vo.いじっち)
 KLAXON(vo.オガシー
 Rest of the Stories(vo.りょ~た)
 とりあえず生とメケメケビブーティ(vo.しんに)
 ゆうや
 Jin☆





 
●編集後記

 ギターの江口正祥氏は、尾崎豊のバックバンド「Heart Of Klaxon」(HOK) のギタリストとして、1984年3月のデビューライブから尾崎を支え続けた。

 サクソフォンの阿部剛氏は、1985年5月から始まった「TROPIC OF GRADUATION TOUR」からHOKに参加。

 江口氏も阿部氏も、尾崎にとってはHOKのメンバーとして自分の音楽を支え続けてくれた戦友、尾崎ファンにとっては唯一無二の尾崎の生き証人。

 今年は、全国各地でHeart Of Klaxonと尾崎豊トリビュートバンドのセッションライブが開催されています。

 尾崎豊デビュー35周年ということもあり、機会があれば参加してみてはいかがでしょうか――。






【記事/画像引用】「majiro presents 誰がために唄う尾崎の調べ ~15一会(イチゴイチエ)~
         「尾崎豊 夢のかたち

「歌おうぜ、尾崎。VOL.2 -A LIVE TRIBUTE TO OZAKI-」

$
0
0


●歌おうぜ、尾崎。VOL.2 -A LIVE TRIBUTE TO OZAKI-
※2018年8月12日(日)開催

 前回のVol.1で、元Heart Of Klaxonの江口正祥氏と阿部剛氏とのライブセッションが大好評だったこのイベント。

 今回は、尾崎豊の1stアルバム「17歳の地図」から3rdアルバム「壊れた扉から」までのアレンジを担当し、Birthツアーではピアノとして参加した西本明氏が参加。

 昨年に引き続き、江口氏の参加も決定し、今回も盛り上がること間違いなし――。











 【出演】西本明 江口正祥(Heart Of Klaxon)
 【日時】8月12日(日)
     開場:16:00 開演:16:30
 【チケット】当日:4000円 / 当日:4500円(+1drink order)
 【会場】名古屋メモリーレーン
     愛知県名古屋市中区錦3丁目15−10 タワービルディング 7F

 【詳細】http://www.memorylane-info.com/
 【予約】電話またはメールにて受付
     TEL:052-971-3577
     E-mail:memorylane619@gmail.com



●編集後記

 西本さんは、尾崎豊の名バラード『I LOVE YOU』のイントロを作った人でも有名です。そんな西本さんからのコメントはこちら

 江口さんとは3rdアルバム「壊れた扉から」で一緒にレコーディングをした時からの付き合い。

 昨年のVol.1の盛り上がりを江口さんから聞き、「自分が参加できることになって今から本当に楽しみです」と語っています――。






【記事/画像引用】 「歌おうぜ、尾崎。VOL.2 -A LIVE TRIBUTE TO OZAKI-


知覧特攻平和会館

$
0
0


●知覧特攻平和会館

 鹿児島県南九州市知覧町郡にある特攻隊員の遺品や遺書、関係資料を展示している「知覧特攻平和会館」について紹介します――。


●特攻隊の生きた証

 太平洋戦争末期に編成された特別攻撃隊に関する資料の展示施設。

 写真、遺書などの遺品約4500点、特攻隊員の遺影1036柱などが展示されており、そのほとんどは元特攻隊員で初代館長の板津忠正氏が集めたもの。


        【遺影】
        


        【第52振武隊】
        


        【出撃前のひととき】
        


            【出撃を翌日に控えた特攻隊員】
            


        【出撃前の腹ごしらえ】
        


        【絶筆/最期の便り】
        


        【絶筆】
        


        【絶筆】
        


            【絶筆】
            

 
            【絶筆】
            


            【絶筆】
            
  

        【絶筆/遺書】
        


        【遺書】
        


        【遺書】
        


        【遺書】
        


        【遺書】
        


        【不時着して大破したゼロ戦】
        



●編集後期

 永遠のゼロを読んで、特攻隊に関する関心が高まっていた時に、鹿児島に特攻隊の遺書や遺品を展示した場所があることを知って、一念発起して来館。

 来館前は、軍の洗脳で自己喪失に陥った人たちの日本を過剰に崇拝する内容の遺書ばかりだと思っていたけど、個性的で人間味溢れるものがたくさんあってびっくり。

 使命感に溢れたもの、ユーモアを感じさせるもの、弱気なもの、家族への感謝を表したものなど、死を義務付けられた若者の諦観と決意が文面から滲み出ていて、胸に迫るものがありました。

 それと同時にすごい親近感が沸き、館内をまわっている内に、まるで自分の友達が書いた遺書を見ているような気分にもなってきます。

 なので、「散歩に行く様な、遠足に行く様な気分なり。皆元気で、あと3、4時間で死ぬとは思えない」という死に対する実感のない無邪気な遺書に、戦争の無情さを痛感。



         



 特攻隊員は、知覧の飛行場を飛び立った後、左手に見える開聞岳を日本の象徴・富士山に見立て「祖国への別れの挨拶」の意味を込めて、山が見えなくなるまで敬礼していたといいます。

 特攻隊のほとんどが学生で、わずか1年半ほどの訓練で出撃を命じられ、4000人余りの未来ある若者たちが海に散っていったことは惜しくてなりません。

 館内は撮影禁止ですが、鹿児島中央駅から路線バスで1時間半もかかる山奥にあって来館できない人がたくさんいると思うので、「雰囲気だけでも伝えられたら」とあえて紹介させて頂きました。

 ただ、ここに載せたものは館内の展示物のほんの一部で、目の前に立って肉眼で見ることでしか感じられないものがたくさんあります。

 皆さんの周りにいるような普通の少年たちが、自分の命と可能性に満ちた未来を犠牲にして、日本という国を守ろうとした生き様を体感しに、ぜひ足を運んでみて下さい――。
 



【記事/画像引用】「知覧特攻平和記念館」「Wikipedia

 

平和祈念展示資料館

$
0
0


●平和祈念展示資料館
※2005年7月リニューアル

 新宿三井住友ビルの48階にある入館無料の戦争に関する資料館。


      


 兵士コーナーでは、列車で故郷を出発する兵士の様子を再現した体感展示のほか、軍服や日誌、郵便物など、軍での生活の様子がわかる資料が展示されています。


      


 戦後強制抑留コーナーでは、シベリアの強制収容所での生活の様子を再現した体感展示のほか、乏しい食料と劣悪な生活環境の中で働く日々を描いた絵画などを展示。


      


 海外からの引揚げコーナーでは、引揚船の模型や引揚げ証明書、引揚げ時の子供たちの様子を撮影した写真などを展示。引揚船の中の様子を再現した体感展示もあります。


      


 語り継ぐ場では、戦争体験の労苦に関する証言を聴いたり、映像を観ることのできる情報メディアコーナーや体験者の手記をまとめた平和の礎など約2000冊の図書を閲覧できます。


      


 図書閲覧コーナーには、満州からの引き揚げの様子を描いた「遥かなる紅い夕陽」やシベリアでの強制労働の様子を描いた「シベリアからの手紙」という無料の漫画が置いてあります。


      


 また、ビデオシアターでは、日替わりで戦争体験の労苦に関するビデオを上映しており、企画展示コーナーでは、資料館所蔵の資料を中心に企画展が開催されています。


      



●編集後期

 終戦後も日本に戻れず、シベリアの極寒の地で強制労働を強いられて無念の死を遂げた数多くの日本人の名簿を見ると、戦争の悲惨さと無情さが身に沁みます。。

 強制収容所の室内を再現したジオラマもリアリティがあって、シベリアに抑留された日本人の底なしの絶望感を疑似体験できますーー。


       


【記事/画像引用】「平和祈念展示資料館

 

しょうけい館

$
0
0


●しょうけい館
※2006年3月開館

 しょうけい館は、東京都千代田区にある入館無料の国立施設で、戦傷病者とその家族が戦中・戦後に体験した様々な労苦を知る機会を提供している。


【1階】

 1階では、体験者が語る映像やメッセージ、作品により、戦傷病者とその家族の様々な労苦を伝える展示が行なわれている。


       


 戦傷病者が語る様々な体験を映像で伝える「証言映像シアター」や、戦傷病者の体験記や従軍体験者の回想記などの書籍が閲覧できる「図書閲覧室」などがある。


      



【2階】

 2階では、体験者の証言や展示品をもとに戦傷病者とその家族の労苦を伝える。


     


 野戦病院のジオラマや、銃弾を受けた眼鏡や帽子、摘出した銃弾、戦傷病者が使用していた義手や義足などが展示されている。


      


 戦傷病者とその家族等の労苦を知り、語り継ぐという趣旨から、受け継ぎ、語り継ぐという意味の「承継」を館名にしている。附記名称は、戦傷病者史料館。


         



●編集後記

 兵士が戦争中に怪我をした時の状況や、野戦病院のジオラマ、戦争後の手足や目を無くした人達の生活ぶりを見て、戦争の悲惨さを改めて痛感。

 戦争で命を落とした人は英霊として称えられたけど、戦争で体の一部を失ったり病に臥しながらも生き長らえた人は、世間から白眼視されたとのこと。


          


 両者とも国のために命を賭けて戦ったのに、この差は一体。。


【記事引用】「しょうけい館」「Wikipedia

昭和館

$
0
0


●昭和館
※1999年3月27日開館

 東京都千代田区九段南にある戦中、戦後の生活を中心とした資料を展示している国立の博物館。


       


 7・6階の常設展示室では「母と子の戦中・戦後」をテーマとして、昭和10年(1935)頃から昭和30年(1945)頃までの国民生活の労苦を伝える実物資料を展示している。


       


 5階の映像・音響室では、戦中・戦後の人々の暮らしを主とした記録写真や映像、音声など、様々な資料を14台のタッチパネル式検索画面から簡単に呼び出して視聴することができる。


       


 4階の図書室では、戦中・戦後の国民生活を中心とした文献・資料が集められ、自由に閲覧できる。


       



●編集後期

 ほとんどが実物展示なので、当時の生活環境や労苦が身近に感じられます。

 「国民精神総動員運動」や、戦争拡大により発令された「国民徴用令」など、抑圧的で絶望的な時代環境が人格に与える影響について考えさせられました。

 現代の息苦しい制度の根源は、この時代からチェーン現象 (世代間伝承) にあるような気がします――。


【記事/画像引用】「昭和館
 
 

国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑

$
0
0


●千鳥ケ淵戦没者墓苑
※1959年3月建設

 昭和34年(1959年)に国によって建設され、戦没者の遺骨を埋葬してある墓苑。


       


 太平洋戦争では、広範な地域で苛烈な戦闘が展開され、この戦争に際して海外地域の戦場において、多くの日本人兵士や一般市民が亡くなった。


       


 その数は、軍人・軍属で約210万人、戦火に巻き込まれて死亡した一般邦人が約30万人で、合わせて約240万人といわれている。


       


 戦後、政府と民間団体が海外各地で収集した戦没者遺骨のうち、引き取り手のない遺骨は厚生省が保管していたが、無名の遺骨は増え続け、収納施設が必要となった。


       


 靖国神社側は、同神社と関係のない納骨施設ができると神社の衰退に繋がるとして反対したが、1959年3月に「無名戦士の墓」として、無宗教の千鳥ケ淵戦没者墓苑が建設された。


       


 遺骨は、六角堂の中央に置かれた胸棺の下の地下納骨室および、1991年3月及び、2000年3月に増設された六角堂正面の地下納骨室に安置されている。

 (2013年5月27日現在、35万8千2百60柱)


       



●編集後記

 この墓苑には、35万もの名も無き戦没者の遺骨が納められています。

 国のために命を賭けて戦った人たちの鎮魂のために、靖国神社だけではなく、千鳥ケ淵戦没者墓苑にも参拝してあげたいものです――。


【記事引用】「国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑

Viewing all 509 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>