円谷プロダクション初代本社(砧社屋)
小田急線「祖師ヶ谷大蔵駅」から程近い場所にあった円谷プロダクション初代本社。
2008年2月に閉鎖、解体されるまで、この場所でウルトラマンを始めとした様々な作品を生み出し、日本中、世界中の子供たちに夢と感動を与えました。
今年は、円谷英二生誕120周年、ウルトラマン生誕55周年なので、英二氏の半生を振り返りながら、ウルトラファンの聖地について紹介します――。
円谷英二の黎明期
円谷英二(本名:圓谷英一)は、1901(明治34)年7月7日、福島県須賀川市に誕生。
麹業を家業としていた円谷家は大束屋という屋号で江戸時代から商売を続ける商家で、商店街でかなり手広く商売を行っていた。
しかし、英二氏が3歳の時に母が病死し、婿養子だった父も離縁の形で円谷家を去ったため、英二氏は祖母が母親代わり、叔父が兄代わりとなって育てられた。
学校での成績は優秀で、とりわけ図画でその才能を発揮したという。
【飛行機への憧れ】
1903(明治36)年12月17日、アメリカのライト兄弟が人類初の動力飛行に成功した。
それから7年後の1910(明治43)年12月、英二氏9歳の時、代々木練兵場で徳川好敏大尉と日野熊蔵大尉による日本初飛行が行われた。
飛行機に興味を持ち、自製の飛行機で世界一周する夢を抱いた英二氏は、蔵の二階の自室での飛行機の模型作りが日課となった。
絵葉書の写真から全体図を想像して、木をナイフで削ったりはんだ付けするなどして作られた模型は精巧なもので、地元新聞が取材に来るほどだった。
英二氏は自宅近くの長松院の境内にある銀杏の大きな木に登っては空を見上げ、飛行機で大空を自由に飛び回る夢を描いていた。
【映画への興味】
この時期、英二氏は当時「活動写真」と呼ばれていた映画にも魅了されていた。
一般に映画史の始まりは、1895年にフランスのリュミエール兄弟がパリで行ったシネマトグラフの興行とされている。
映像を初めてスクリーンに映したもので、当時は画面の中で映像が動くというだけで驚異的で、見世物として十分に成り立っていた。
当時の日本での映画興行は、もっぱら野原に張り巡らされたテントであり、英二氏が初めて見たのもこういった地方巡業のものだった。
英二氏は、縁日に映画の興行師がやって来ると休憩中に映写機を触らせてもらい、カメラの構造を熱心に研究した。
そして、映写機の代用に幻灯機を購入し、巻紙を裁断した紙製のフィルムをかけて1コマ1コマにマッチ棒が体操する絵を描き、動かして楽しんだ。
【飛行機乗りの夢】
1916(大正5)年3月、14歳になった英二氏は8年制の尋常小学校を卒業し、家業を手伝う傍ら飛行機の雑誌を購読し、飛行機乗りへの夢を募らせていた。
そんな時、アメリカのアート・スミスが来日し、日本で初めてとなる曲芸飛行を披露した。
自ら持ち込んだカーチスの複葉機での宙返り、横転、逆転、木の葉落としなどの曲芸飛行は日本中で大きな話題となり、英二の飛行機熱も募る一方だった。
英二氏は家族に飛行機乗りの夢を打ち明けたが反対され、家族の勧めで同年10月に東京の月島機械製造所に見習工員として就職した。
しかし、夢を諦めきれない英二氏は入社1ヶ月で仕事を辞め、家族の反対を押し切って日本飛行学校へ練習生として入学することになった。
しかし、一機しかない飛行機が墜落し、唯一の教官も死亡したため学校は閉鎖され、英二氏は退学を余儀なくされた。
【映画の世界へ】
飛行機乗りの夢破れた英二氏は、東京工科学校の夜間部に入学し、学業の傍ら玩具会社の考案係として勤務することになった。
そして、1919(大正8)年の春、英二氏17歳の時、会社仲間で王子の飛鳥山に花見に繰り出し、座敷で酒を飲んでいたところ、運命的なハプニングが起こる。
隣の部屋で大騒ぎが始まり襖が突然倒れ、何人かが転がり込んできたことをきっかけに両者の間で喧嘩が始まったのである。
さっそく英二氏は止めに入り、相手方からも紳士が仲裁に入って双方の喧嘩は収まり、その後は和やかな交流会となった。
相手方は天然色活動写真という映画制作会社の職員で、喧嘩を仲裁した紳士は会社の最高首脳である技師長の枝正義郎という人物だった。
黎明期だった日本映画の底上げを考えていた枝正は、玩具会社でアイディアマンとして活躍する英二氏に興味を持ち、英二氏の下宿を訪れて自分の会社に熱心に誘った。
根気よく毎日やってくる枝正の情熱に根負けした英二氏は、天活に入社することを決め、映画への第一歩を踏み出すことになった。
枝正は、日本に映画制作の技術が導入された最初期から活躍していたベテランで、日本映画の草分けともいえる存在だった。
枝正の助手としてフィルム、カメラ、現像、焼き付け、編集などのあらゆる下働きを務め、入社した年に撮影助手として映画のタイトル部分の撮影も行った。
忍術映画のトリック撮影に新機軸を見出していた枝正は、当時の最初期の特撮で名も通っており、この時点で英二氏の映画人生は決定されていたといえる。
また、天活の斬新、進歩的、革命的、技術尊重、高品質といった企業理念は英二氏の映画作りの根幹となった。
【国活へ】
1919(大正8)年12月、天活は粗悪なチャンバラ映画粗製濫造の風潮に押されて潰れ、国際活映に吸収され、英二氏は国活に入ることになる。
国活では作品をたくさん作ることが要求され、粗悪なチャンバラ映画をダラダラ作っていた。
国活の古株は天活から来た新入りに冷たく、訳の分からない作品を作る理屈っぽい奴らとして旧式の考え方の映画人に排斥され、肩身の狭い思いをする羽目になった。
英二氏は皆が敬遠した飛行機による決死の空中撮影によってカメラマンに昇格したが、東北の訛りを馬鹿にされ、不愉快な日々を過ごしていた。
映画の世界に失望し「映画を辞めようと」とさえ思った英二氏だったが、兵役で会津若松に赴任することになり、故郷に帰ることになった。
【故郷へ】
1923(大正12)年、英二氏は2年間の兵役を終えて除隊となり、故郷に帰った。
英二氏はしばらく家業の糀業を手伝っていたが、田舎ののんびりした空気に飽き、田舎特有の閉鎖的な人間関係にウンザリし始めた。
また、叔母の軍隊上がりの婿養子による軍隊流のいじめとも思える仕打ちにも悩まされていた。
次第に子供の頃のように蔵にこもるようになった英二氏は、今後の人生を映画一筋で行くことに決め、誰にも告げずに東京行きの汽車に飛び乗った。
家出同然で飛び出した英二氏は、二度と故郷に戻らない覚悟だったといえる。
固い決意を持って上京した英二氏を待っていたのは、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で瓦礫の山になった東京の惨状だった。
多くの映画館が地震と火災によって破壊、焼失したことで弱小の映画会社は全て倒産、解散し、映画の中心は京都へと移っていた。
英二氏は、知り合いのつてで東京で活動を行っている映画会社で現像技師として働いたが、ほどなく会社が解散し、国活時代の仲間の招きで京都へと向かった。
衣笠貞之助が中心となった映画製作団体「衣笠映画連盟」に加わり、京都に居を移した英二氏は、カメラマン助手の仕事を務めた。
英二氏の映画人としての再出発は、毎日がロケに明け暮れ、朝から晩までカメラを担いで忙しく走り回る日々だった。
新しい映画を作ろうと意欲を燃やす衣笠は処女作「狂った一頁」を制作し、英二氏も助手として参加するが、前衛的すぎて観客に理解されず不入りだった。
この会社で、英二氏は映画の可能性に関して視野が非常に広くなり、多大な影響を受けた。
映像の自由な展開、特殊撮影の映像への違和感なき融合、衣笠の新しい分野に挑戦する野心といったものが英二氏の映画観を大いに刺激した。
【カメラマンとして一本立ち】
英二氏は、1927(昭和2)年3月公開の林長二郎のデビュー主演作『稚児の剣法』を一本立ちのカメラマンとして初めて撮影。
三重露光など、最初の師である枝正義郎直伝の特撮の技術を駆使し、“特撮の円谷”としての最初の作品となった。
本作は爆発的にヒットし、林長二郎は一躍スターとなった。
その後も数多くの映画作品の撮影を行い、翌年5月の衣笠映画連盟の解消と同時に親会社でもあった松竹の京都下加茂撮影所に入社した。
英二氏は、ロケ日数が足りずに撮影できなかった夜の港のシーンを自身で考案したホリゾントを使って撮影して所長賞をもらうなど活躍した。
【マサノ夫人との結婚】
京都を中心に、毎日ロケで駆けずりまわっていた英二氏。
その頃、鉄道やトンネル建設などに伴う土木工事を請け負っていた荒木マサノ氏の家が京都に滞在していた。
友人に誘われてロケの見学に来たマサノ氏は、英二氏の監督としての仕事ぶりに感銘を受けて、スタジオにまで顔を出すようになった。
ある日、英二氏は自作の日本初の木製クレーンで撮影中に、カメラとカメラマンの重みに耐えきれずにクレーンが折れて落下して大怪我をして入院。
その時、毎日病院を訪れて看病をしてくれたのが縁で、1930(昭和5)年2月27日に荒木マサノ氏と結婚した。
【ロー・キートン】
当時の画調は、フィルムの感光度が悪かったせいもあってハイ・キー・トーン全盛で、照明をやたらと明るくして画面の白黒の段階が強かった。
役者の顔は真っ白になり、畳の筋目もどぎつくなるし、画面に味もそっけもない。
もっと情緒ある映像を撮りたかった英二氏は、照明の技巧は複雑になるが白黒の段階が多くなり、役者の顔にも細かいニュアンスが出るロー・キー・トーンにて撮影を行った。
しかし、「天下の林長二郎の顔に陰影をつけるとは何事か」と経営陣に激怒され、撮影待遇をセットもロケも格下のB級に落とされ、照明すら制限された。
アメリカ喜劇俳優のバスター・キートンにひっかけた”ロー・キートン”という不名誉なあだ名もつけられた英二氏は自棄気味になり、酒ばかり飲んでいたという。
そんな中で、チープなセットを補うためにグラスワークやミニチュア合成という撮影手法を考え出し、苦しみながらも特殊撮影の基礎を築いていった。
【映画会社を転々】
1927(昭和2)年にワーナーブラザーズが制作した「トーキー(音付き)映画」の流れが日本にも飛び火してきた。
トーキー映画の制作経験がなかった日活は、英二氏を含めた松竹のトーキー映画の技術者を引き抜き、英二氏は1932年11月に日活に移ることになった。
しかし、「給料を倍にされた連中がやってくる」という噂は日活の中で瞬く間に広がり、英二氏はまた古株のやっかみを受けることになった。
また、ローキー照明を好む英二氏は異端扱いされ、ついには所長らと喧嘩別れして、1934(昭和9)年2月に太秦のJ・Oトーキーへ入った。
英二氏は撮影技術研究所主任として迎えられ、自費で研究を進めていたスクリーン・プロセスの技術を完成させるよう命じられた。
松竹や日活でその必要性を説きながらも誰にも理解されなかったスクリーン・プロセスを費用の心配無しで研究できる環境に英二氏は喜んだ。
このスクリーン・プロセス装置は2年後に完成し、日独合作映画『新しき土』で使用され、海外の映画関係者に絶賛された。
また、英二氏は日本初の撮影用の鉄製クレーンも制作し、カメラマンの技術を大いに高めた。
【キングコングに衝撃】
英二氏はいつも同じようなストーリーや似通った場面設定の時代劇の撮影を繰り返す毎日にマンネリを覚えていた。
そして、外国映画を鑑賞してはその高い水準を見せつけられて落胆する日々の中で、初めて飛行機を知って以来のショックが訪れる。
それは、1933(昭和8)年9月に公開された米映画『キング・コング』だった。
[出典 キング・コング(1933年)]
あくまで作品を陰から支える脇役だった特撮技術が主役となっており、特殊撮影が全面に出た作品に英二氏は衝撃を受けた。
同時に、自分が志している特殊撮影に大きな未来があることを知り、特撮の道へ進むことを撮影技師として決意した。
また、フィルムを研究用に入手し、コングの特撮を1コマ1コマ丹念に研究分析。「フォトタイムス」10月号に「映画のスチールピクチュアに就いて」を発表した。
1937(昭和12)年9月10日、写真化学研究所、P.C.L.映画製作所、東宝映画配給の3社と、英二氏の所属するJ・Oが合併し、東宝映画が設立された。
さらに、東宝ブロック併合による東宝映画単一強化を機に、英二氏はスクリーン・プロセス装置とともに同年11月27日付をもって、東宝東京撮影所に転属になった。
しかし、カメラマンの間でも名の知れた存在となっていた英二氏は、脅威の対象となった。
「自分たちの地位が危うくなり、職を奪われるのではないか」と恐れたカメラマン達は結束して英二氏が現場に出ることを妨げ、仕事ができないよう仕組んだのである。
英二氏は「裏門からも入れず塀を越えたこともあり、この頃が一番辛かった」と語っている。
【特殊技術課の初代課長】
当時、東宝の取締役だった森岩雄氏。
彼はP.C.L時代、1925(大正14)年にハリウッドを訪問して特殊技術の重要性に触れ、単なるコストダウンに留まらず、映画表現を広げるものだといういう見識を持った。
帰国後、早速この分野の開拓に志を立てたが、技術家ではない上に当時の映画界も特殊技術に対する重要性を理解していなかっため動けないでいた。
そんな中、社内で干されてカメラを回せずにいた英二氏を見て、”渡りに船”と東宝内に特殊撮影の技術部門「特殊技術課」を創設し、英二氏を課長に就任させた。
しかし、部下は一人もおらず、英二氏が完成させたスクリーン・プロセス技術を東宝の映画作品に提供する傍ら、皇室の記録映画を一人で黙々と撮るのが当面の仕事だった。
英二氏は当時のことを“部下なし課長”と自嘲気味に回想するなど、不愉快な日々を過ごしながらも、特殊技術による映画製作の合理化を主眼にして研究を続けた。
【戦意高揚映画】
1937(昭和12)年7月の日華事変勃発から日本は戦争への道を歩みだし、東宝が戦意高揚映画の制作に着手したことで、英二氏を取り巻く状況は一変する。
海軍の依頼によって、1940(昭和15)年に英二氏として初めての戦争映画『海軍爆撃隊』を撮影し、この時初めてタイトルに英二氏の名が「特殊技術撮影」と紹介された。
同年9月公開の『燃ゆる大空』では、日本カメラマン協会特殊技術賞を受賞。
翌年12月には太平洋戦争が勃発し、開戦翌年5月には航空兵を募るための陸軍航空本部の御用映画である『南海の花束』が公開。
英二氏の特殊撮影は、戦争映画というフィールドで急速に需要を増していった。
英二氏一人で始めた特殊技術課も、1942年には特殊撮影係、造形美術係、合成作画係、天然色係に事務係を加えた5係を擁する総員34名にもなっていた。
【ハワイ・マレー沖海戦】
1942年5月、東宝は海軍省から開戦1周年記念作品『ハワイ・マレー沖海戦』制作の依頼を受けた。
しかし、貸してくれたのは洋書の片隅にあった2cm角の地図だけだったため、後は新聞写真を頼りに真珠湾のセットを作ることになった。
英二氏はまず、琵琶湖と浜名湖でのテストで撮影に最適な魚雷の水柱の高さを3mと決めて、その大きさから軍艦の寸法を定めた。
そして、新聞の写真に写っていた軍艦上の人物の身長から真珠湾の建築物の大きさを割り出し、周囲の山を含めた地形の大きさに広げていった。
最終的には第二撮影所のオープン敷地いっぱいに真珠湾を作り上げ、1800坪にも及ぶ大ミニチュアセットの壮観以上の出来栄えに見物客が後を絶たなかった。
セットを見学した陸軍参謀が陸地測量部へ赴任した時、部下にこう言ったという。
「お前たちの作っている真珠湾の地図はなっていない。東宝へ行ってみろ、素人が見事なものを模型に作っている」
本作は日本映画史上空前の大ヒットとなり、国民必見とまで謳われた。
さらに、本作での特撮の成功は日本映画界に特撮の重要性を認識させ、英二氏の業績は広く日本の映画界に認められ、“特技の円谷”としての名声を確立した。
敗戦直後、東宝はしばし混乱の時期を迎える。
1946年から翌年にかけて労働争議によりストライキが敢行された上に、森岩雄を含む経営陣は戦犯として公職追放となって辞職し、映画制作どころではなくなったのである。
1948年に入って、東宝労働組合は戦後最大の争議と呼ばれた第3次ストライキを起こし、新東宝に経営陣が制作の機能を委譲したことから、混乱は激しくなった。
ストライキは延々と続き、映画製作ができない状態が続いた。そして1948年3月、ついに公職追放の指定を受けた英二氏は東宝を依願退職した。
【円谷特殊映画技術研究所】
1948年、英二氏は自宅の庭のプレハブの別棟に「特殊映画技術研究所」(円谷研究所)を設立し、各映画会社の特撮部分の下請けを始めた。
戦後の混乱した映画業界の中で、英二氏はまた駆け出しに逆戻りしなければならなかった。
また、下請けであるため収益性が低く、新たに始めた事業もうまくいかず、英二氏も弟子たちも英二氏の実家から送られてきた干し柿で飢えをしのいでいた。
同年6月、東宝撮影所が政治闘争の場となり、映画製作どころではなくなったことに嫌気がさして退社した有川貞昌は英二氏宅を訪ねた。
有川は戦時中に観た『雷撃隊出動』などの作品を観て感激し、パイロットを目指して海軍航空隊に入隊していたことから飛行機談義に花が咲き、夜中まで話し込んだ。
さらに、記録映画だと思っていた作品が模型とミニチュアによって撮影されていたことを知って特殊撮影の魅力に引き込まれ、英二氏の下で働くことになった。
有川氏はその後、数々の映画、テレビの特撮作品を手がけ、東宝の二代目特技監督になるなど昭和期における特殊撮影を代表する一人となった。
【東宝に復帰】
1950年、東宝撮影所内に円谷研究所を移設し、1954年まで東宝作品全てのタイトル部分を撮影、予告編などを制作する。
東宝映画の「東宝マーク」も、この時期に有川氏とともに作ったという。
英二氏は、1952年2月に公職追放解除を受け、作品契約としての東宝復帰第1作『港へ来た男』の特殊技術を担当した。
【ゴジラ】
1954年には、自身が特撮を手掛けた日本初の怪獣映画『ゴジラ』が空前の大ヒットを記録し、一躍名声を高めた。
英二氏はそれまで東宝撮影所まで自転車で通っていたが、ゴジラ公開以降は、黒塗りの車が迎えに来るようになったという。
翌年の『ゴジラの逆襲』では、一枚タイトルで”特技監督・円谷英二”とクレジットされるようになり、以後、特技監督としての地位を確立させた。
【円谷特殊技術研究所】
その後、1956年に自宅敷地内に自費で「円谷特殊技術研究所」を新設。
東宝の現場ではできないような手間や時間のかかる合成やコマ撮りなどを、研究所の弟子たちに行わせるようになった。
『キングコング対ゴジラ』(1962年)で、ゴジラが飛び上がってキングコングを蹴り飛ばすカットは、一コマずつモデルを動かして撮影したという。
【人材の弟子入り】
1950年代末になると、その後の円谷作品を支える人材が続々と弟子入りするようになる。
日大映画学科に入学した中野稔氏は1958年12月に英二氏宅を訪れて弟子入りし、撮影所でアルバイトをしながら研究所で合成を学んだ。
同じく日大芸術学部2年だった佐川和夫氏も翌年2月に中野氏に連れられて英二氏宅を訪れて弟子入りし、特撮技術を学んでいった。
1960年夏には玉川大学3年だった金城哲夫氏が英二氏宅を訪れ、研究所に参加。
英二氏から紹介された東宝映画の名脚本家・関沢新一や、TBS演技部のディレクターだった円谷一氏に師事してシナリオ執筆を学んでいった。
【自分のやりたい仕事】
『ゴジラ』の大ヒットによって一躍時の人となり、“世界の円谷”となった英二氏。
しかし、彼は映画製作に関する実働時間とそれに伴う実行予算、そして映画の作品内容をプロデューサーが管理する東宝のシステムに疑問を感じていた。
「東宝の仕事はなかなか制約が多く、作りたいと思う作品が作れない。わたしも年なので、もうそろそろ自分のやりたい仕事をやっておきたい」

英二氏は「東宝から独立して、自らが求める特撮映像をより追求したい」と、何度か東宝の取締役だった森岩雄氏に相談した。
しかし、東宝の名物である円谷特技を失うことは東宝の大損失になる上、経営者としては甚だ不安な所があったためなかなか賛同は得られなかった。
ただ、英二氏の熱意は固いものがあったため、妥協案が提示された。
それは、東宝の特技映画は専属として担当しながら円谷プロを作り、東宝も出資して半分以上の経営の監督権を認めさせることだった。
円谷特技プロダクション
1963年4月12日、15年間英二氏の私設研究所だった円谷特殊技術研究所は、「株式会社円谷特技プロダクション」として会社登記された。
ここに、現在の「円谷プロダクション」の原型が誕生したのである。
特技プロには、特撮技術の高野宏一氏、佐川和夫氏、光学合成の中野捻氏、企画・文芸の金城哲夫氏、特撮美術の深田達郎氏らが入社。
『ウルトラQ』『ウルトラマン』『快獣ブースカ』『ウルトラセブン』『マイティジャック』『怪奇大作戦』などの円谷作品を支えた。
また、1964年3月に東宝が資本参加することになり、東宝の衣装部である京都衣装の倉庫が社屋として提供された。
[出典 Facebook | 大石一雄]
この建物こそ、2005年まで円谷プロダクションが本社を構えていた社屋である。
1968年には社名を「円谷プロダクション」に変更し、この場所でウルトラマンを始めとした様々な作品を生み出し、世界中の子供たちに愛と夢を与え続けた。
円谷プロ建屋①
往時の円谷プロダクションの建屋について、色々な著書で紹介されています。
[出典 大怪獣戦 30怪獣大あばれ!! (1966年) ]
【ヒーロークイズ大百科PART3】
かつて存在したケイブンシャが発行した「ヒーロークイズ大百科PART3」には、1980年頃の貴重な円谷プロの内部写真が掲載されています。
事務所の黒板には『ウルトラマン80』の放送リストが書かれており、役員室には円谷英二氏の写真が飾られていました。
円谷プロダクション建屋の雰囲気は、関係者の自伝本の中でも描かれています。
『ウルトラマン』のフジ隊員役・桜井浩子氏や、『ウルトラセブン』のアンヌ役・ひし美ゆり子氏の面接もここで行われました。
【不思議なにおい】
世田谷の砧、東宝撮影所のちかくにある円谷プロダクションには、二十数年を経た現在でも、ぼくたちを引き寄せる不思議なにおいが満ちあふれている。
その魔力をなんと形容したらいいのだろう。
[出典 Facebook | 大石一雄]
ツ・ブ・ラ・ヤという名前にこめられた呪文のような夢の鍵が、いまだに、その場所には保管されているような感じだ。
むかし、あの夏の夕方、一さん(英二氏のご長男)たちと蛾の襲来にさわいだ場所は、時間をこえて、そのままのたたずまいだ。
文芸部の扉を開けると、かつての仲間たちが呼吸をしているような錯覚にとらえられる。
(ウルトラマン誕生 / 実相寺昭雄・著より)
【こぢんまりとした教員室】
私が円谷プロダクションをはじめて訪れたのは昭和63年の2月、寒い日の朝だった。
モルタルづくりの事務棟のガラス戸を押し開け、板ばりの廊下に足を踏み入れたとき、懐かしい思いはもっとはっきりしたものになった。
事務室は二、三十年前まで、この国のどこにでもあった村の小学校の、こぢんまりとした教員室を思い出させたからである。
(ウルトラマンを創った男 金城哲夫の生涯 / 山田輝子・著より)
【ずいぶん古い家】
世田谷区・砧の東宝撮影所を出ると、左手に小川が流れていた。
その川を渡り左へ曲がると、ゆるやかな登り坂になっている。そして、その坂を10mほど行くと、右側に円谷プロダクションがあった。
――ずいぶん、古い家だわ――
木造モルタルの平屋は、どう見てもプロダクションという感じはしなかった。かろうじて、新しい表札ができたばかりのプロダクションであることを示していた。
(ウルトラマン青春期 フジ隊員の929日 / 桜井浩子・著より)
【古びた建物】
円谷特技プロダクションは閑静な住宅街にありました。
路地を曲がるとすぐ右側に車と階段の入り口が2つあって、「え~っ、ここがぁ?」と思うほど古びた建物です。
時間前に着いた私は恐る恐る社屋の庭に建つ。ここは何かの古い跡地なのか?平屋で長屋風の建物が逆L字型に建っていた。
(中略)
試写室を出た、太陽が眩しかった。
まずはそのままの衣装で撮るからと、キャメラマンが会社の敷地を出て、目の前の空き地に案内された。ヒメジョンや雑草の生い茂った原っぱだった。
[円谷プロダクション周辺(1963年) / 出典 goo地図(古地図)]
(中略)
「それでは、奥の部屋で隊員服に着替えてきてください」
「あっ、はい」
「森次さんは、そのままちょっと待っててください。菱見さんが着替えたら一緒に写真を撮ります」
こうして末代まで残る世紀の写真を撮ることになろうとは、誰もわかっていなかった。
(アンヌ今昔物語 ウルトラセブンよ永遠に… / ひし美ゆり子・著より)
怪獣倉庫
倉庫内にイベント用の怪獣スーツが保管されていたため、”怪獣倉庫”と呼ばれて多くの特撮ファンたちに聖地として親しまれていました。
当時のスタッフたちは訪れたファンを快く迎え、自由に見学させてくれたそうです。
なお、この怪獣倉庫は『ウルトラファイト』や『ウルトラマンマックス』第24話「狙われない街」の撮影などでも使われました。
在りし日の怪獣倉庫の内部を潜入取材したVTRを見つけたので、紹介しておきます。
円谷プロダクション砧社屋の最期
2005年4月にTYOに買収された円谷プロダクションは、本社を世田谷区八幡山に移転。
初代本社は改装され、「キヌタ・デジタル・シンフォニー」というウルトラ戦士や怪獣の着ぐるみ等の展示やCG製作に利用されることになりました。
しかし、負債の累積による拠点集約のため、2008年2月に閉鎖。
建屋は翌年4月に取り壊され、日本が誇る国民的特撮作品を生んだ伝説の聖地は、惜しまれつつその歴史の幕を閉じたのです――。
【エピローグ】
そう、あれは『ウルトラマン』の終盤近くか、円谷プロの文芸部で、英二さんを中心に特撮王国の夢を喋ったことがあった。
もちろん、一さんもいた、金城哲夫さんもいた、大伴昌司さんもいた、上原正三さんもいた、他にスタッフ達もいたと思う。
あの頃は、何人かで集まれば、ディズニーにも対抗せんとする一大王国建設への青写真を語り合っていたものだ――。
ー 夢の王国断章 / 実相寺昭雄 (円谷英二の映像世界より) ―
[出典 Facebook | 大石一雄]
・円谷プロダクション初代本社跡
東京都世田谷区砧7丁目4
”私が特殊撮影の技術を開発しようと思ったのは、画家がカンバスの上に絵筆で表現していくように、自由に、意のままに、場面場面を創造してみたかったからである“
会社を転々としながらも、不遇の環境下で自分が信じる映像表現にこだわり続け、『ゴジラ』『ウルトラマン』などの作品を通じて子供に夢を与えた英二氏。
彼が遺したスピリットは、没後半世紀以上経った令和の時代にも脈々と流れています。
【往時を偲ばせる物】
「ウルトラQ」の出演者はロケ時は、円谷プロの駐車場からロケバスで出発していました。
そして、ウルトラマンのスーツアクター・古谷敏氏は、撮影が始まる前に円谷プロでウルトラマンの最終デザインの小型の像を見せられました。
「これに俺が入るのか」と思うと同時に「きっと当たる」との予感が走り、得体の知れない力が湧くのを覚えたそうです。
[出典 Facebook | 大石一雄]
また、デザイナーの成田亨氏は、打ち合わせはいつも文芸企画室という部屋で行っていて、デザインルームもあったそうです。
そんな往時の円谷プロの敷地にあったブロック塀が、小道を挟んだ右側にあります。
世界に誇る不世出な国民的作品を生み出した建物があった史跡級の場所にも関わらず、跡地周辺にはその功績を顕彰する記念碑などは一切ありません。
なので、ある意味で往時の円谷プロを偲ばせる唯一の歴史物といえます。
ウルトラファンの聖地でもあった伝説の場所に記念碑が無いのは、その歴史的価値が黙殺されているようで日本人の一人として哀しい気持ちなります。
円谷プロ初代本社の功績・価値が再評価されて、跡地周辺に記念碑が建立されることを願ってやみません。
【実寸大での復元の夢】
2009年に解体された円谷プロ砧社屋ですが、2005年に本社機能が移転した時にも建屋を取り壊す動きがあったそうです。
「かの豊島区のトキワ荘が消滅したことに危機感を抱いたものたちは、世田谷の文化遺産をどうすればいいのか、マスコミを通じてバラバラだったが同時多発的な声を上げ始めた。
しかし、現実的に動く会社を採算を無視して、純粋な思いだけで守ることはできない。
そんな中で旧本社を残し、"砧社屋"として形を壊さず、将来の円谷博物館という夢も内包しつつ、編集室や試写室などの入る場所として使っていく方向に決めたのは一夫会長の努力であった。
この建物が失われれば、円谷を取り巻いていた"気”も失せる、と思っていた私はとりあえずの保存を一夫さんに祝福した」 (ウルトラマン誕生 / 実相寺昭雄・著)
しかし、抱えていた負債の大きさから建屋の存続は叶いませんでした。
そんな中、豊島区のトキワ荘が昨年、マンガミュージアムとして実際に建っていた場所からほど近い場所に実寸大で復元されました。
円谷プロ砧社屋もトキワ荘に匹敵する文化的価値があり、社屋を観ることができなかった日本中、世界中の人たちの需要も見込めます。
「円谷プロダクション初代本社」を実寸大で復元した施設がオープンされれば、多くのウルトラファンは歓喜することでしょう。
なお、円谷英二氏の生涯と功績を紹介する「生誕120年 円谷英二展」が夏に開催されます。
会場は国立映画アーカイブ、会期は2021年8月17日~11月23日ですので、興味のある方は足をお運び下さい――。
【出典】「特撮の神様と呼ばれた男」「翔びつづける紙飛行機 特技監督 円谷英二」
「私の芸界遍歴」「写真集 特技監督・円谷英二」「円谷英二の映像世界」
「円谷英二特撮世界」「素晴らしき円谷英二の世界」「日本特撮技術大全」
「円谷プロダクション」「@Nakaken_UPAL | Twitter」「@momk12 | Twitter」
「ありがとう夢工房 円谷プロ砧社屋 ~ウルトラマンと共に歩んだ40年~」