円谷プロダクション初代本社(怪獣倉庫)
小田急線「祖師ヶ谷大蔵駅」から程近い場所にあった円谷プロダクション初代本社。
2008年2月に閉鎖、解体されるまで、この場所でウルトラマンを始めとした様々な作品を生み出し、日本中、世界中の子供たちに夢と感動を与えました。
今年は“ウルトラマン生誕55周年”というアニバーサリーイヤーでもあるので、ウルトラファンの聖地の歴史について簡単に紹介します――。
円谷特技プロダクション
1963年4月12日、英二氏61歳の時、私設研究所だった円谷特殊技術研究所は「株式会社円谷特技プロダクション」として会社登記された。
ここに、現在の「円谷プロダクション」の原型が誕生したのである。
特技プロには、特撮技術の高野宏一氏、佐川和夫氏、光学合成の中野捻氏、企画・文芸の金城哲夫氏、特撮美術の深田達郎氏らが入社。
『ウルトラQ』『ウルトラマン』『快獣ブースカ』『ウルトラセブン』『マイティジャック』『怪奇大作戦』などの円谷作品を支えた。
また、1964年3月に東宝が資本参加することになり、東宝の衣装部である京都衣装の倉庫が社屋として提供された。
[出典 Facebook | 大石一雄]
この建物こそ、2005年まで円谷プロダクションが本社を構えていた社屋である。
1968年には社名を「円谷プロダクション」に変更し、この場所でウルトラマンを始めとした様々な作品を生み出し、世界中の子供たちに夢と感動を与え続けた。
円谷プロ建屋の雰囲気
円谷プロダクション建屋の雰囲気は、関係者の自伝本の中でも描かれています。
『ウルトラマン』のフジ隊員役・桜井浩子氏や、『ウルトラセブン』のアンヌ役・ひし美ゆり子氏の面接もここで行われました。
【不思議なにおい】
世田谷の砧、東宝撮影所のちかくにある円谷プロダクションには、二十数年を経た現在でも、ぼくたちを引き寄せる不思議なにおいが満ちあふれている。
その魔力をなんと形容したらいいのだろう。
[出典 Facebook | 大石一雄]
ツ・ブ・ラ・ヤという名前にこめられた呪文のような夢の鍵が、いまだに、その場所には保管されているような感じだ。
むかし、あの夏の夕方、一さん(英二氏のご長男)たちと蛾の襲来にさわいだ場所は、時間をこえて、そのままのたたずまいだ。
文芸部の扉を開けると、かつての仲間たちが呼吸をしているような錯覚にとらわれる。
(ウルトラマン誕生 / 実相寺昭雄・著より)
【こぢんまりとした教員室】
私が円谷プロダクションをはじめて訪れたのは昭和63年の2月、寒い日の朝だった。
モルタルづくりの事務棟のガラス戸を押し開け、板ばりの廊下に足を踏み入れたとき、懐かしい思いはもっとはっきりしたものになった。
事務室は二、三十年前まで、この国のどこにでもあった村の小学校の、こぢんまりとした教員室を思い出させたからである。
(ウルトラマンを創った男 金城哲夫の生涯 / 山田輝子・著より)
【ずいぶん古い家】
世田谷区・砧の東宝撮影所を出ると、左手に小川が流れていた。
その川を渡り左へ曲がると、ゆるやかな登り坂になっている。そして、その坂を10mほど行くと、右側に円谷プロダクションがあった。
――ずいぶん、古い家だわ――
木造モルタルの平屋は、どう見てもプロダクションという感じはしなかった。かろうじて、新しい表札ができたばかりのプロダクションであることを示していた。
(ウルトラマン青春期 フジ隊員の929日 / 桜井浩子・著より)
【古びた建物】
円谷特技プロダクションは閑静な住宅街にありました。
路地を曲がるとすぐ右側に車と階段の入り口が2つあって、「え~っ、ここがぁ?」と思うほど古びた建物です。
時間前に着いた私は恐る恐る社屋の庭に建つ。ここは何かの古い跡地なのか?平屋で長屋風の建物が逆L字型に建っていた。
(中略)
試写室を出た、太陽が眩しかった。
まずはそのままの衣装で撮るからと、キャメラマンが会社の敷地を出て、目の前の空き地に案内された。ヒメジョオンや雑草の生い茂った原っぱだった。
[円谷プロダクション周辺(1963年) / 出典 goo地図(古地図)]
(中略)
「それでは、奥の部屋で隊員服に着替えてきてください」
「あっ、はい」
「森次さんは、そのままちょっと待っててください。菱見さんが着替えたら一緒に写真を撮ります」
こうして末代まで残る世紀の写真を撮ることになろうとは、誰もわかっていなかった。
(アンヌ今昔物語 ウルトラセブンよ永遠に… / ひし美ゆり子・著より)
円谷プロ建屋内部
往時の円谷プロダクション建屋の内部について、色々な著書で紹介されています。
[出典 大怪獣戦 30怪獣大あばれ!! (1966年) ]
【ヒーロークイズ大百科PART3】
かつて存在したケイブンシャが発行した「ヒーロークイズ大百科PART3」には、1980年頃の貴重な円谷プロの内部写真が掲載されています。
事務所の黒板には『ウルトラマン80』の放送リストが書かれており、役員室には円谷英二氏の写真が飾られていました。
怪獣倉庫
倉庫内にイベント用の怪獣スーツが保管されていたため、”怪獣倉庫”と呼ばれて多くの特撮ファンたちに聖地として親しまれていました。
当時のスタッフたちは訪れたファンを快く迎え、自由に見学させてくれたそうです。
なお、この怪獣倉庫は『ウルトラファイト』や『ウルトラマンマックス』第24話「狙われない街」の撮影などでも使われました。
1989年3月放送の「ウルトラマンを作った男たち」で使われたスカイドンやウー、シーボーズなどの怪獣スーツも保管されていたようです。
[出典 @hiro28409755 | Twitter]
[出典 @hiro28409755 | Twitter]
[出典 @hiro28409755 | Twitter]
[出典 @hiro28409755 | Twitter]
【怪獣倉庫の映像】
在りし日の怪獣倉庫の内部を潜入取材したVTRを見つけたので、紹介しておきます。
本社から砧社屋へ
2005年4月にTYOに買収された円谷プロダクションは、本社を世田谷区八幡山に移転。
初代本社は改装され、「キヌタ・デジタル・シンフォニー」というウルトラ戦士や怪獣の着ぐるみ等の展示やCG製作に利用されることになりました。
円谷プロダクション初代本社の最期
しかし、負債の累積による拠点集約のため、2008年2月に閉鎖。




編集後記
『ウルトラQ』の出演者は、ロケ時は円谷プロの駐車場からロケバスで出発していました。
ウルトラマンのスーツアクター・古谷敏氏は、撮影が始まる前に円谷プロでウルトラマンの最終デザインの小型の像を見せられました。
「これに俺が入るのか」と思うと同時に「きっと当たる」との予感が走り、得体の知れない力が湧くのを覚えたそうです。
[出典 Facebook | 大石一雄]
また、デザイナーの成田亨氏は、打ち合わせはいつも文芸企画室という部屋で行っていて、デザインルームもあったそうです。
そんな往時の円谷プロの敷地にあったブロック塀が小道を挟んだ右側にあり、ある意味で往時の円谷プロを偲ばせる唯一の歴史物といえます。
世界に誇る不世出な国民的作品を生み出した建物があった史跡級の場所にも関わらず、跡地周辺にはその功績を顕彰する記念碑などは一切ありません。
ウルトラファンの聖地でもあった場所に記念碑が無いのは、これまでの功績や建物の歴史的価値が世間から黙殺されているようで哀しい気持ちなります。
円谷プロ初代本社の功績、歴史的価値が再評価されて、跡地周辺に記念碑が建立されることを願ってやみません。
これは、全世界のウルトラファンの総意でもあるでしょう。昨今、重要性が増している“企業の社会的責任(CSR)”の観点からも期待したいです。
【実寸大での復元の夢】
円谷プロ初代本社の建屋は、2005年の本社機能移転時にも取り壊しの動きがありました。
「かの豊島区のトキワ荘が消滅したことに危機感を抱いたものたちは、世田谷の文化遺産をどうすればいいのか、マスコミを通じてバラバラだったが同時多発的な声を上げ始めた。
しかし、現実的に動く会社を採算を無視して、純粋な思いだけで守ることはできない。
そんな中で旧本社を残し、"砧社屋"として形を壊さず、将来の円谷博物館という夢も内包しつつ、編集室や試写室などの入る場所として使っていく方向に決めたのは一夫会長の努力であった。
この建物が失われれば、円谷を取り巻いていた"気”も失せる、と思っていた私はとりあえずの保存を一夫さんに祝福した」 (ウルトラマン誕生 / 実相寺昭雄・著)
しかし、抱えていた負債の大きさから建屋の存続は叶いませんでした。
そんな中、豊島区のトキワ荘が昨年、マンガミュージアムとして実際に建っていた場所からほど近い場所に実寸大で復元されました。
円谷プロ初代本社もトキワ荘に匹敵する文化的価値があり、社屋を生で観ることが叶わなかった日本中、世界中の人たちの需要も見込めます。
伝説の建物を実寸大で復元した施設がオープンされれば、多くのウルトラファンは歓喜することでしょう――。
【出典】「特撮の神様と呼ばれた男」「翔びつづける紙飛行機 特技監督 円谷英二」
「私の芸界遍歴」「素晴らしき特撮人生」「日本特撮技術大全」
「Wikipedia」「@Nakaken_UPAL | Twitter」「@momk12 | Twitter」
「“特撮の神様”円谷英二と円谷プロダクション初代本社」
「ありがとう夢工房 円谷プロ砧社屋 ~ウルトラマンと共に歩んだ40年~」