旅館はなぶさ
祖師ヶ谷大蔵にあった円谷プロご用達の旅館「はなぶさ」。
金城哲夫氏や上原正三氏をはじめとした円谷プロの脚本家たちが、缶詰になって集中して脚本作りをする際によく利用していました。
はなぶさは、ウルトラマンの企画書作り、第1話の脚本作成、そしてクランクイン当日の打ち合わせが行われた “ウルトラマン創世の地” なのです――。

伝説の旅館があった場所
左側の画像中央の林に囲まれている建物が「旅館はなぶさ」。
当時の住宅地図を調べてみると、祖師谷商店街にある「さか本そば店」の裏に旅館の敷地が広がっていたことがわかります。

[出典 goo地図(古地図)]

『ウルトラマン』の企画書作り
はなぶさでは、のちに伝説の国民的特撮テレビ番組となる『ウルトラマン』の企画書作りが行われていました。
金城氏と山田正弘氏によって練り上げられていたタイトルは『科学特捜隊ベムラー』で、1966年1月下旬に『レッドマン』に変更になったそうです。
白石雅彦・著『ウルトラマンの飛翔』に抜粋されている山田氏のエッセイを引用します。
その夏(1965年)から秋にかけては3日とあけずに金ちゃん(金城氏)とつき会う羽目となる。
ときには、祖師谷の旅館「はなぶさ」に3日、4日と連泊となった。
今残っているノートをみると、このときからレッドマンの企画づくり間をとおして、考えだした話の数は軽く50をこえている。
『ウルトラマン』第1話の脚本書き
ウルトラマン第1話「ウルトラ作戦第1号」の脚本。
このウルトラマンが初めて登場する重要な回の脚本は、金城氏が1966年5月11日から13日にかけて、はなぶさに泊まり込んで書き上げました。

彼が学生時代から師事していたシナリオ界の大御所・関沢新一氏が書き上げた第1話の脚本の評判が悪く、全面的に書き直すことになったためです。
上原正三・著『金城哲夫 ウルトラマン島唄』から引用します。 金城は、その夜から「はなぶさ」にこもって第1話の手直し作業にとりかかった。
一監督や制作サイドの意見を採り入れながらやるうちに手直し程度ではなくなり、三日もかかる全面書き直しの作業になった。
出来上がったシナリオは原型をとどめないほどで、金城のオリジナル作品となった。
円谷一監督がやって来て原稿に目を通す。緊張の金城。
「これです」一発OKだった。「ヒエー!」金城は奇声を発して、精魂尽き果てた感じで畳に大の字になった。

関沢氏の脚本のト書き一行も残さない大幅な改稿を行ったため激怒されてもおかしくなく、金城氏は関沢邸の出入禁止も覚悟していたそうです。
しかし、原稿を読み終えた関沢氏は愛弟子の労をねぎらい、彼の提案で第1話は関沢氏と金城氏の共同脚本という形になりました。

ウルトラマン打ち合わせ
1966年3月16日、『ウルトラマン』の撮影がクランクイン。
「ウルトラマン 1996+ Special Edition」に掲載の製作日報によると、当日の午後3時から夜9時まで、はなぶさで飯島組の打ち合わせが行われています。
まだ、本編と特撮が一班体制で、スペシウム光線の構えなども決まっていなかった時期なので、打ち合わせも熱を帯びていたのでしょう。

[出典 ウルトラマン 1996+ Special Edition / 金田益実・編」
編集後記
伝説の国民的特撮テレビ番組『ウルトラマン』が創世された「旅館はなぶさ」。
この場所は、ウルトラシリーズだけでなく、『マイティジャック』などの他の円谷作品の脚本書きにも利用されていました。
以下、上原正三・著『金城哲夫 ウルトラマン島唄』 から引用します。
「むつかしい」金城がめずらしく弱音を吐いた。
「長いから?」
「うん、ヤマの作り方が。ドラマ部分と特撮部分がどうもうまくいかないんだ。今夜もはなぶさだよ」
多忙な先輩作家に対しては注文にも限度がある。(中略) あとは金城が手直しするハメになる。
手慣れた仕事とは言え1時間ドラマともなると分量が多い。それでも金城は一晩で直しを終えてケロっと出社して来た。
過去の住宅地図を調べてみたところ、はなぶさは1962年の地図にはすでに存在しており、1976年の地図では空き地になっていました。
金城氏が1972年4月に、はなぶさで『帰ってきたウルトラマン』の第11話「毒ガス怪獣出現」を書き上げていることから、1970年代前半まで存在していたようです。
今は別の建物が建っており、跡地碑などもなく、当時の面影は全くありません――。
【出典】「金城哲夫 ウルトラマン島唄」「ウルトラマンの飛翔」
「ウルトラマン 1996+ Special Edition」「駿河屋.jp」