知覧特攻平和会館
神風特別攻撃隊の遺品や遺書、関係資料が展示されている「知覧特攻平和会館」。
1975年4月に鹿児島県南九州市知覧町郡に「知覧特攻遺品館」として開館し、45年経った2020年に、入館者数が2000万人を突破しました。
戦争の悲惨さ、平和の尊さを再認識するために、自らの命を犠牲にして祖国を守った特攻隊員の生きた証を紹介させて頂きます——。
⇒オンラインミュージアムでデジタルアーカイブも見れます
生き永らえた意味と使命
館内には、元特攻隊員で初代館長の板津忠正氏が集めた特攻隊員の写真、遺書などの遺品約4500点、遺影1036柱などが展示されています。
板津氏は、1945年5月に陸軍特攻第213振武隊として特攻出撃しましたが、エンジントラブルにより徳之島海岸に不時着し、知覧に帰還。
その後、2回出撃しましたが、2回とも土砂降りの雨により中止となりました。
4回目の出撃は8月15日の予定でしたが終戦となり、とうとう出撃することなく生き永らえることになりました。
板津氏は「自分の命が永らえたのは、自分にしかできない何かがあるからだ」との強い思いを抱き、特攻隊員の遺族や親類を捜し出して、名簿の確認や資料収集を始めます。
これが、知覧特攻平和会館設立へと繋がることになったのです——。
【各隊別の写真】
【遺影】
【特攻基地への前進】
【出撃前のひととき】
【出撃前のひととき】
【絶筆/最期の便り】
【第52振武隊】
【出撃20分前の腹ごしらえ】
【別れの盃】
【第1特別振武隊(飛行第101戦隊)発進】
【遺品】
【覚書】
【遺書】
【遺書】
【絶筆】
【絶筆】
【遺書】
【遺書】
【絶筆/遺書】
【絶筆】
【絶筆】
【絶筆】
【出撃予定時刻の2時間前に撮られた特攻隊員の写真】
【遺筆】
【ゼロ戦】
【不時着して大破したゼロ戦】
【三角兵舎】
特攻隊員が寝起きしていた半地下式の宿舎を復元したもので、ここで家族への遺書や手紙、絶筆を書いたりしていました。
【特攻勇士の像「とこしえに」】
・知覧特攻平和会館
鹿児島県南九州市知覧町郡17881
※バス停「特攻観音入口」下車徒歩5分
編集後期
来館前は、軍の洗脳で自己喪失に陥った人たちによる日本を過剰に崇拝する内容の遺書ばかりだと思っていましたが、個性的で人間味溢れるものがたくさんあって驚きでした。
使命感に溢れたもの、ユーモアのあるもの、弱気なもの、家族への感謝を表したものなど、死を義務付けられた若者の諦観や決意が文面から滲み出ていて、胸に迫るものがありました。
それと同時にすごい親近感が沸き、まるで自分の友達が書いた遺書を見ているような気分にもなりました。
なので「散歩に行く様な、遠足に行く様な気分なり。皆元気で、あと3、4時間で死ぬとは思えない」という死への実感のない無邪気な遺書に、戦争の無情さを痛感。
特攻隊のほとんどが学生で、わずか1年ほどの訓練で出撃を命じられ、4000人余りの未来ある若者たちが海に散っていきました。
特攻隊員は、知覧の飛行場を飛び立った後、左手に見える開聞岳を日本の象徴・富士山に見立てて「祖国への別れ」の意味を込めて、山が見えなくなるまで敬礼していたそうです。
なお、館内は撮影禁止ですが、市街地から路線バスで1時間半もかかる山奥にあって来館できない人がたくさんいると思い、「雰囲気だけでも伝えられたら」とあえて紹介させて頂きました。
ただ、ここに載せたものは館内の展示物のほんの一部で、目の前に立って肉眼で見ることでしか感じられないものがたくさんあります。
皆さんの周りにいるような普通の少年達が、日本という祖国を守るために自分の命と未来への可能性を犠牲にして死んでいったという歴史的事実。
そして、愛する人たちを遺して若くして死ななければならなかった彼らの無念さと生きた証を受け止めに、ぜひ一度足を運んでみて下さい――。
【出典】「知覧特攻平和記念館」「Wikipedia」「photoAC」