円谷英二邸跡
小田急線「祖師ヶ谷大蔵駅」から程近い場所に住んでいた“特撮の神様”円谷英二。
御住居は1999年末に解体されて現在は駐車場になっていますが、跡地碑など英二氏の生前の功績を顕彰するものは一切ありません。
来年の“祖師谷来臨85年”を記念して、祖師谷時代の英二氏の歴史とのちに円谷作品を支える人材との出会いを振り返ります――。
※本記事は「円谷英二と円谷プロダクション」から祖師谷時代の一部を抽出、追記したものです
1937(昭和12)年9月10日、写真化学研究所、P.C.L.映画製作所、東宝映画配給の3社と、英二氏の所属するJ.O.スタヂオが合併し、東宝映画が設立された。
さらに、英二氏は森岩雄氏の希望により、スクリーン・プロセス装置とともに同年11月27日付をもって東宝東京撮影所に転属になった。
しかし、カメラマンの間でも名の知れた存在となっていた英二氏は、脅威の対象となった。
「自分達の地位が危うくなり、職を奪われるのではないか」と恐れたカメラマン達が結束して英二氏が現場に出ることを妨げ、仕事ができないよう仕組んだのである。
英二氏は「裏門からも入れず塀を越えたこともあり、この頃が一番辛かった」と語っている。
【特殊技術課の初代課長】
当時、東宝の取締役だった森岩雄氏。
彼はP.C.L時代、1925(大正14)年にハリウッドを訪問して特殊技術の重要性に触れ、単なるコストダウンに留まらず、映画表現を広げるものだといういう見識を持った。
帰国後、早速この分野の開拓に志を立てたが、技術家ではない上に当時の映画界も特殊技術に対する重要性を理解していなかっため動けないでいた。
そんな中、社内で干されてカメラを回せずにいた英二氏を見て、”渡りに船”と東宝内に特殊撮影の技術部門「特殊技術課」を創設し、英二氏を課長に就任させた。
しかし、部下は一人もおらず、スクリーン・プロセス技術を東宝の映画作品に提供する傍ら、皇室の記録映画を一人で黙々と撮るのが当面の仕事だった。
英二氏は当時のことを“部下なし課長”と自嘲気味に回想するなど、不愉快な日々を過ごしながらも、特殊技術による映画製作の合理化を主眼にして研究を続けた。
【戦意高揚映画】
1937(昭和12)年7月の日華事変勃発から日本は戦争への道を歩みだし、東宝が戦意高揚映画の制作に着手したことで、英二氏を取り巻く状況は一変する。
海軍の依頼によって、1940(昭和15)年に英二氏として初めての戦争映画『海軍爆撃隊』を撮影し、この時初めてタイトルに英二氏の名が「特殊技術撮影」と紹介された。
同年9月公開の『燃ゆる大空』では、日本カメラマン協会特殊技術賞を受賞。
翌年12月には太平洋戦争が勃発し、開戦翌年5月には航空兵を募るための陸軍航空本部の御用映画である『南海の花束』が公開。
英二氏の特殊撮影は、戦争映画というフィールドで急速に需要を増していった。
英二氏一人で始めた特殊技術課も、1942年には特殊撮影係、造形美術係、合成作画係、天然色係に事務係を加えた5係を擁する総員34名にもなっていた。
【ハワイ・マレー沖海戦】
1942年5月、東宝は海軍省から開戦1周年記念作品『ハワイ・マレー沖海戦』制作の依頼を受けた。
しかし、貸してくれたのは洋書の片隅にあった2cm角の地図だけだったため、後は新聞写真を頼りに真珠湾のセットを作ることになった。
英二氏はまず、琵琶湖と浜名湖でのテストで撮影に最適な魚雷の水柱の高さを3mと決めて、その大きさから軍艦の寸法を定めた。
そして、新聞の写真に写っていた軍艦上の人物の身長から真珠湾の建築物の大きさを割り出し、周囲の山を含めた地形の大きさに広げていった。
最終的には第二撮影所のオープン敷地いっぱいに真珠湾を作り上げ、1800坪にも及ぶ大ミニチュアセットの壮観以上の出来栄えに見物客が後を絶たなかった。
セットを見学した陸軍参謀が陸地測量部へ赴任した時、部下にこう言ったという。
「お前たちの作っている真珠湾の地図はなっていない。東宝へ行ってみろ、素人が見事なものを模型に作っている」
本作は日本映画史上空前の大ヒットとなり、国民必見とまで謳われた。
さらに、本作での特撮の成功は日本映画界に特撮の重要性を認識させ、英二氏の業績は広く日本の映画界に認められ、“特技の円谷”としての名声を確立した。
円谷プロダクションの燭光
敗戦直後、東宝はしばし混乱の時期を迎える。
1946年から翌年にかけて労働争議によりストライキが敢行された上に、森岩雄を含む経営陣は戦犯として公職追放となって辞職し、映画制作どころではなくなったのである。
1948年に入って、東宝労働組合は戦後最大の争議と呼ばれた第3次ストライキを起こし、新東宝に経営陣が制作の機能を委譲したことから、混乱は激しくなった。
ストライキは延々と続き、映画製作ができない状態が続いた。そして1948年3月、ついに公職追放の指定を受けた英二氏は東宝を依願退職した。
【特殊映画技術研究所】
1948年、英二氏は自宅の庭のプレハブの別棟に「特殊映画技術研究所」(円谷研究所)を設立し、各映画会社の特撮部分の下請けを始めた。
戦後の混乱した映画業界の中で、英二氏はまた駆け出しに逆戻りしなければならなかった。
また、下請けであるため収益性が低く、新たに始めた事業もうまくいかず、英二氏も弟子たちも英二氏の実家から送られてきた干し柿で飢えをしのいでいた。
【公職追放解除】
1950年、東宝撮影所内に部屋を貰って円谷研究所を移設し、1954年まで東宝作品全てのタイトル部分を撮影、予告編などを制作する。
東宝映画の「東宝マーク」もこの時期に有川氏とともに制作。英二氏は1952年2月に公職追放解除を受け、作品契約としての東宝復帰を果たした。
英二氏の特撮技術を取り入れたい映画会社は多く、特に松竹では大船の撮影所に「松竹映画科学総合研究所」を設置し、英二氏を特殊技術部門に迎え入れようとしたという。
英二氏もいったん契約したが、東宝が『太平洋の鷲』の制作を打診してきたため、結局古巣の東宝に戻ることになった。
本作は、のちに『ゴジラ』を生み出すことになる本多猪四郎と円谷英二による初コンビ作品となり、東宝に1億円を超える興収をもたらした初めての作品となった。
【ゴジラ】
1954年には、自身が特撮を手掛けた日本初の怪獣映画『ゴジラ』が空前の大ヒットを記録し、一躍名声を高めた。
英二氏はそれまで東宝撮影所まで自転車で通っていたが、ゴジラ公開以降は、黒塗りの車が迎えに来るようになったという。
翌年の『ゴジラの逆襲』では一枚タイトルで”特技監督・円谷英二”とクレジットされるようになり、以後、特技監督としての地位を確立させた。
【円谷特殊技術研究所】
その後、1956年に自宅敷地内に自費で「円谷特殊技術研究所」を新設。
東宝の現場ではできないような手間や時間のかかる合成やコマ撮りなどを、研究所の弟子たちに行わせるようになった。
『キングコング対ゴジラ』(1962年)で、ゴジラが飛び上がってキングコングを蹴り飛ばすカットは、一コマずつモデルを動かして撮影したという。
円谷英二邸は、特撮技術者を志す若者たちの駆け込み寺のような存在でもあった。
1948年半ばには、のちに東宝の二代目特技監督となる有川貞昌が、1950年代末から初頭にかけては中野稔、佐川和夫、金城哲夫などが来訪。
東宝撮影所の撮影所や円谷研究所でアルバイトとして働きながら、円谷特技プロダクションに無くてはならない人材として成長していった。
【有川貞昌】
1948年6月、東宝撮影所が政治闘争の場となり、映画製作どころではなくなったことに嫌気がさしていた有川貞昌は英二氏宅を訪ねた。
妻が東宝でスクリプターをしていた関係で英二氏のことを知り、戦地での上映会で観た英二氏が撮影した戦争映画について聞いたみたいことがあったためである。
有川氏は当時のことを「特殊技術とは何か、素人で何の知識もない私に、丁寧に私の質問に答えて下さいました」と話している。
有川は最初に自分が飛行機乗りだったことを告げると、英二氏もかつては飛行機学校にいたこともあり、しばし飛行機談義に花が咲いた。
その後、有川氏は記録映画だと思っていた『電撃隊出動』が模型とミニチュアによって撮影されていたことに驚き、特殊撮影の魅力に引き込まれた。
そして、英二氏の「我々は空を飛ぶことはできないが、映画で大空高く飛ぼう。そんな仕事を君も一緒にやらないか」という一言で、特殊技術の仕事に就くことを決意。
翌日に東宝撮影所に辞表を出して、即日研究所に入所したという。
有川氏はその後、数々の映画、テレビの特撮作品を手がけ、東宝の二代目特技監督になるなど昭和期における特殊撮影を代表する一人となった。
【中野稔】
日大芸術学部に入学した中野稔氏は、将来は映像関係の技術職に就きたいと考えていた。
「夢があって、なおかつ将来の職業として貫くなら、憧れていた円谷英二氏のところに弟子入りするのが一番だ」
そう思った中野氏は、1958年12月のある土曜日、英二氏邸をアポ無しで訪問した。
すると、色の浅黒いがっしりした人が出てきて「オヤジ、明日ならいると思うよ」と教えてくれた。これが英二氏の長男の円谷一氏だった。
翌日の日曜日、再訪すると英二氏は在宅しており、家に上がらせてもらった中野氏。
「緊張して一気に話す、特撮に対する僕の思いをやさしい眼差しで聞いてくれたオヤジは、映画界のことを何一つ知らない僕に、撮影所の見学を勧めてくれました」
東宝撮影所では東宝創立25周年記念映画『日本誕生』の特撮がクランクインしたところだった。
翌年には撮影所でのアルバイトを許可され、室内作業といわれたオプチカルプリンターやアニメーションスタンドなどを駆使する合成作業全般を学んだ。
大学卒業後は円谷特技プロに入社し、光学撮影技師として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』などで視覚効果の腕を振るった。
その後も、シネマディクトでビジュアル・エフェクツ・スーパーバイザーを務めるなどしていたが、2021年4月4日、肝不全のため死去。享年82歳でした。
中野氏は生前、「俺の身体は円谷英二で出来ているようなもんなんです」と語っていたそうです。
【佐川和夫】
同じく日大芸術学部2年だった佐川和夫氏も、1959年2月に中野氏に連れられて英二氏邸を訪問。
アポイントを取っていなかったため会ってくれると思っておらず、玄関を開けたら英二氏が立っていて驚きでいっぱいだったとか。
英二に「特殊技術の世界で働いてみたい」と話すと、「厳しい仕事場であり大変な社会だけど、それでよければやってみなさい」と言われたという。
それをきっかけに何度か英二氏と会う機会ができた頃、英二氏から「仕事を手伝ってみないか」と言われ、英二氏の紹介で特殊技術課にアルバイトで入ることになった。
ちょうど『日本誕生』の準備から撮影に入る前で、学生と仕事を両立させながら、学校での実習では絶対に出来ない生の技術を習得していった。
それは、現場撮影から特殊美術、操演、特殊火薬、照明、室内作業、合成素材撮り、オプチカルプリンター合成など多岐に渡ったという。
その後、大学卒業後に円谷特技プロに入社し、『ウルトラマン』では特撮班チーフカメラマンとして活躍し、『マイティジャック』にて特技監督としてデビューした。
その後も、『帰ってきたウルトラマン』『バトルフィーバーJ』『電子戦隊デンジマン』を始めとした作品で迫力ある特撮映像を演出した。
【金城哲夫】
1960年の夏には、玉川大学3年だった金城哲夫氏が、恩師である上原輝男の教え子である円谷皐氏の紹介で英二氏宅を訪問。
金城氏は英二氏から紹介された東宝映画の名脚本家・関沢新一氏や、TBS演技部のディレクターだった英二氏の長男の円谷一氏に師事することになった。
誰からも好かれる明るくて人懐っこい人柄から、現場のムードメーカーだったという。
円谷研究所に出入りしながらシナリオ執筆を学んでいった金城氏は、1962年にTBSのテレビドラマ『絆』で脚本家デビュー。
その後、円谷特技プロへ参画した金城氏は、企画文芸部の長として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などの企画立案や脚本を手掛けることになる。
20代の若さで企画立案、メインライターとしての脚本執筆、円谷プロ内外への連絡や調整などを20代の若さで仕切っていたのは驚きです。
編集後記
英二氏は東宝撮影所に転属になってからも苦労の連続で、跡地にはそんな英二氏の喜怒哀楽の精神が染み込んでいるようです。
英二氏の自宅には、円谷プロの作品を支えることになる数多くの人材が訪問しています。
しかし、当時はまだ無名であり、アポ無しで訪ねてきた見ず知らずの若者を快く迎え入れ、話に耳を傾け、その後の世話までした英二氏の器の広さに驚かされます。
タモリが赤塚不二夫の葬儀で「私もあなたの作品の一つです」と述べましたが、金城哲夫、中野稔、佐川和夫を始めとしたレジェンドたちも、円谷英二の作品の一つなのかもしれません。
英二氏が東宝で制作した数々の怪獣映画は、若かりし頃のスティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスも夢中になって観ていたそうです。
スピルバーグに至っては、1968年に来日してアポ無しで東京美術センターを訪れ、英二氏に撮影手法について尋ねていったという逸話もあるとか。
【円谷英二居宅跡地碑】
以前から、特撮作品の制作や監修で世界文化の発展に多大な貢献をし、世界に夢と感動を与えた“特撮の神様”の住居跡に記念碑がないことに違和感を感じていました。
しかし、すぐ傍に円谷昌弘氏のご自宅が建っていたため、建立は難しいとも思っていました。
英二氏のご子息の一さんのご長男である昌弘氏は、円谷プロダクション5代目社長を務めた方で、2019年に61歳で亡くなられています。
平成ウルトラセブンのプロデュースやウルトラマンティガの監督補、ウルトラマンネクサスでは制作統括を務められました。
そんな中、先月に同地を訪れたところ、昌弘氏の自宅が解体されて更地になっていました。
その光景を見て、「この場所が、円谷英二監督の居宅跡地碑広場になったらどんなにいいだろうか」と思わざるを得ませんでした。
それは、円谷英二邸跡前の通りの道幅が狭い上に人通り、車通りが多く、ゆっくりと往時に想いを馳せることができないためです。
「人は、“死んだ時”と“人々から忘れ去られた時”の二度死ぬ」と言われています。
円谷英二監督の生きた証と功績を後世に伝え続けるためにも、円谷昌弘氏のご自宅跡への「円谷英二居宅跡記念碑」の建立を願わずにはいられません—―。
・円谷英二邸跡
東京都世田谷区祖師谷3丁目30
【出典】「特撮の神様と呼ばれた男」「翔びつづける紙飛行機 特技監督 円谷英二」
「写真集 特技監督・円谷英二」「円谷英二の映像世界」「ウルトラマンの現場」
「円谷英二特撮世界」「素晴らしき円谷英二の世界」「ウルトラQのおやじ」
「日本特撮技術大全」「Pen / 2011年9月1日号」